シェーンコップ×ヤン n ヴァルハラ

Scars

 ああ、あの声を聞かれていたのだと、ヤンは思った。
 膝を包んでから滑り上がって来るシェーンコップの掌が、ヤンの腿の銃創を覆う。血は止まり、傷口は乾いているけれど、永遠に塞がらないだろう、その裏側まで貫通した痕。ざらざらとした、引き裂かれた後に醜く盛り上がった剥き出しの肉に、シェーンコップの掌のかすかな凹凸が触れ、傷の中にまで、体温が染み通って来る。
 今日の午後、街まで行った帰り、車を運転していたシェーンコップが、助手席のヤンの脚に手を伸ばして来た。そうやって、車の中で互いに触れ合うのは別に珍しいことではなく、それでも自分の運転にあまり自信のないヤンは、運転中にはそんなことは滅多にしない。シェーンコップの手が、今そうしているように、膝に触れ、腿へ触れ、そうして、どの指よりも長い中指がふと、スラックスの生地の上からヤンのその傷口を探り当てて、避けるかと思ったのに、シェーンコップはそのまま傷口に触れ続けた。
 貫通孔の、かすかな盛り上がりを何度も何度もなぞり、そうして、押せばすっと凹む空洞の入り口へ、シェーンコップは少し強く指先を押し付けて、生地ごと孔の内側へ指の先を入り込ませて来る。そこからまた空洞の縁に布越しに触れて、皮膚のない、剥き出しの肉体の内側への接触に、ヤンは思わず体を引こうと思ってなぜかそうはせず、くすぐったいのでもない、痛いのでもない、そして不快では絶対にない不思議な感覚に、喉の奥で殺し切れなかった声がうっかり漏れていた。
 あの声を、シェーンコップはきっと聞き逃しはしなかったのだ。
 掌で触れ、そしてすべての指の腹で触れ、ヤンの腿の内側へ唇を滑らせながら、指先は傷口から外さない。そのうち、人差し指の先が、はっきりとその空洞へ差し込まれ始めた。
 シャワーの水を通し、覗き込んだことはあっても、ヤンはその中に、自分で触れたことはなかった。好奇心で、崩れた肉片の醜悪な盛り上がりを、自分の指で確かめたことがある程度だ。
 シェーンコップは今、そこへそっと指先を差し入れて、ヤンの内側へ触れている。いつも触れる場所とはまったく違う、体に穿たれた孔の、ざらりとした肉の断面に、湿りはなくなめらかさなど一片もなく、ただ体温だけが確かにそれはヤンの体なのだと伝えては来る。
 ヤンの命を奪った、小さな貫通孔。あの日流れた血にまみれて、どこまでもぬるぬるとヤンの命を吸い出し続けた、深い傷口。
 ヤンの両脚の間へ顔を伏せ、シェーンコップは傷口に舌を這わせ始めた。尖らせた舌先を差し入れ、孔の縁を丹念に舐め、そうして触れれば、破壊は及ばなかった周囲の筋肉は収縮するのかどうか、皮膚を失った剥き出しの肉体の断面に、シェーンコップの濡れた舌が触れ続ける。
 感覚があるともないともヤンにはよく分からず、けれど次第にシェーンコップの唾液で濡れ、そこから体温が移って、ヤンは下腹をかすかに震わせて、その感覚に耐えた。
 シェーンコップが、ヤンを死なせた傷を舐める。まるで、そこから命を吹き込もうとするかのように──それはすでに失われているけれど──、執拗にヤンの傷口へ舌を這わせ、奇妙な感覚に支配されて、ヤンは車の中で漏らしたと同じ声を、もう耐えられなかった。
 そうして、シェーンコップの髪へ両手を伸ばし、頭を抱え込むようにしてから、うなじから背骨の固い盛り上がりへ視線を這わし、肩甲骨の間の、それがシェーンコップの命を奪った傷口を見る。
 ヤンのそれよりはずっと見掛けは悲惨な、長い傷。ヤンが掌を当てても覆い切れない、指を差し入れると裂傷の底に届くか届かないかの深さの、そこもシェーンコップの最後の息を奪うまで血を流し続けた、切り裂かれた傷。
 突き立つ戦斧、鋭い刃に切り裂かれた皮膚と肉、シェーンコップの背中を真っ赤に染めた鮮血の滝、それでも、死に顔は穏やかだったのだと、ヤンは知っている。
 体を前に折り、シェーンコップに覆いかぶさるようにしながら、ヤンはその傷口へ顔を近付けた。もしあの時、シェーンコップの傍らへいれたなら、そうしたかもしれない姿勢で、ヤンはシェーンコップの背中の傷口を掌で覆い、指先で撫で、肉の乾いた感触へ今はもう眉を寄せるでも口元を歪めるでもなく、いつの間にか、これもすでにシェーンコップの一部なのだと受け入れてしまった、傷口。
 自分の腿へ顔を伏せたきりのシェーンコップを真似て、ヤンも、シェーンコップの背中の傷を舐めた。深さを確かめるように指先を差し入れ、痛みはないと言うシェーンコップを信じて、もう血は流れない断片をなぞり、ざらりと乾いたそれは決して心地好いものではなかったけれど、こんな風に直に体の中へ触れられるのが珍しくて、ヤンもまた、飽きずにその傷口を舐め続ける。
 躯を繋ぐやり方とは別の、触れ合い方。互いに、互いを殺した傷口を見て、触れて、舐めて、癒そうとするつもりではなくても、もう塞がることのない傷口を見れば、互いに対して湧く憐憫は確かにある。
 そして、どちらの傷も、起こった時には自分はその場にはいなかったのだと言う、悔恨。何が起こったのか知らない、傷。シェーンコップの知らないヤン、ヤンの知らないシェーンコップ。幾多もあるそのことのひとつに、相手を死なせた傷が加わる。
 護れなかった。
 止めることができなかった。
 無様な死に方をした自分を、シェーンコップが追って来るだろうことを、ヤンは正しく予想して、そんなことはやめてくれと、どれだけ願ったか分からない。150まで生きるんだろう、そう言ったじゃないか。そうしてシェーンコップは、貴方のいない人生はつまらない、そう短く言い捨てて、後悔はただヤンをあの時死なせてしまったことだけだと、そう言って、ヴァルハラへやって来た。
 シェーンコップの背負った傷。背中を切り裂いた傷。それは、ヤンの死が与えた傷だ。自分が手に掛けたも同然の傷口を、ヤンは舐め続ける。
 赦されるためではなく、ただそうしたいと言う理由で、ヤンはシェーンコップの背中の傷を見下ろして、もう涙も出ないのと同じに、その傷も血もなく乾いてしまっている。
 ごめんよ、シェーンコップ。あの時、言葉にするのが一瞬遅れたそれを、傷口に向かって囁く。絶命のひと息の一瞬後では遅過ぎたそれを、ヤンは今つぶやく。
 傷口に触れられて漏れる声の、その底に、その言葉を置いて、ヤンはシェーンコップの傷を舐め、自分の傷を舐めるシェーンコップの舌の熱さに、もうひとつ、別の色を加えて、漏らした声の後で歯を食い縛った。  

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