シェーンコップ×ヤン、ヴァルハラにて。これの承前のような。

再会

 やあ久しぶりと、驚いた表情で言う間すら与えてくれなかった。
 ドアの中へ押し返され、手近な壁に押し付けられ、合意もへったくれもない強引な、噛み付くようなと言うよりも、実際に唇を噛まれて、ヤンはシェーンコップの胸を押し返しながらうめいた。
 落ち着いてくれと、言おうと見上げて、ヤンは、シェーンコップがたった今開いたドアの向こうに現れた時よりももっと驚いた。
 自分の顔が小さく映る灰褐色の瞳から、涙がこぼれていた。まるで水面に映るように、自分の顔がぼやけて揺れ、次から次へとあふれる涙が、シェーンコップの頬からあごを濡らしている。
 何か言うために唇が開き、震えて、けれど動くだけで声は出ず、言葉にはならずに、獣がうなるような音だけが途切れ途切れに漏れた後で、やっと絞り出した声が、提督、とかすれて呼ぶ。
 涙に濡れた頬が首筋に触れ、すでに流れて冷えた涙と、続けて流れて来るまだ熱い涙と、やっと思いついて回した腕の中で、広い背中が震え続けている。
 「ごめん、シェーンコップ。」
 あの時口にして、けれど本人には決して届かなかった言葉を、ヤンは再び口にする。
 君を置いて行ってしまって、ごめん。
 そんなつもりはなかった。行くならせめて、ひと言くらい言い置いて行けるだろうと思っていた。むしろ、この男を見送るのは自分の方だと思っていた。自分の想像の中で、この男はいつも血まみれに、ヤンの腕の中で、少しだけ残念そうに微笑んでゆく。ヴァルハラへ来た後も、夢の中に現れるシェーンコップは常にそんな風だった。
 自分が死んだのだと言う自覚も深くは刻まれないまま、大切な人たちにはできるだけ会いたくはないと言う不思議な気持ちを持て余すと言う自覚もさして深くはなく、ぼんやりと、まさに幽霊のようにふわふわと過ごした1年だった。
 そうして、突然現れたこの男を、こんな風に抱きしめて、この男にこんな風に抱きしめられて、ヤンは久しぶりに自分の実体と言うものを感じて、ああそうだ、自分の腕はこんな風にこの男の背中に回るのだと、左の手首を右手で掴んで、しみじみと間遠な瞬きをした。
 「ごめん、シェーンコップ。」
 声はもうなく、けれどまだ涙の止まらないシェーンコップの髪をかき混ぜ、なだめるように、ヤンは大きな背中をくまなく撫でてやる。


 会いたかったと、互いに伝え合うには、抱き合うしかなかった。
 言葉は、今はどれも薄っぺらに、かつてそうしていたように、裸になって素肌に触れて、何もかも剥き出しに見せ合って、そうして互いを認識すると言うやり方で、そうでなければ今目の前に存在するのだと認めないと、心のどこかで頑固に思い込んでいた。
 明日がないかもしれないのは互いに同じだったけれど、いつの間にか、その先の、明後日や明々後日、あるいは1年先さえ無条件に信じ始めていたほど、あれは確かに、熱くて深い恋だった。
 失って初めて気づく。それがどれほど重く大きく、自分の中に食い込んでいたのかを。失って初めて、失ったのはどこかの誰か他人ではなく、もう自分の身にぴたりと癒着して同化してしまった、己れの血肉の一部なのだと。
 無理矢理にちぎり取られ、引き剥がされた皮膚と肉。血を流し続ける傷口。癒やすのはただ時間だけだ。そして1年は、とてつもなく長く、あまりにも短かった。
 貴方は私そのものだったと、シェーンコップが絞り出すように言う。そうだねと、ヤンが過去形でなく答える。
 シェーンコップの体に、傷跡は──あまり──増えてはいないようだと、正面から見つめて思った後で、裸の背中に触れて、ヤンはびくりと手の動きを止めた。縁がぎざぎざの、裂け目。指の長さよりも長い、そして指の厚みよりも深い、裂け目。突然血の匂いが立ったような気がした。これが致命傷だったのかと、ヤンは触れながら、ぎゅっと目を閉じた。
 痛かったろう。苦しかったろう。傷がではない。自分を失って、その喪失に耐えるのに、誰にも見せずにひそかにのたうち回ったこの男の姿がはっきりと見え、ヤンはもう無言でシェーンコップの背中を撫で続けるしかなかった。
 ヤンに抱かれ、胸に顔を埋めて、シェーンコップがぎりぎりと歯を食い縛る。耐えても、涙は止まらないし、苦しむ獣のうめきもやまず、会えたからと言って、傷がすぐに癒え何事もなかったように振る舞えるわけではないのだと、シェーンコップは改めて自分の傷の深さを思い知っている。
 ヤンのせいではない。傷つくのはシェーンコップの勝手だ。けれど、ただ耐え、泥の中を沈んでゆくような日々の後で、腿に貫通した穴のあるヤンを見て、背中に大きな裂け目を背負ったシェーンコップを見て、互いに何が起こったのかを改めて見据えるのが、辛くないはずもなかった。
 置き去りにしたヤンと、置き去りにされたシェーンコップと、抗う術などあるはずもなかった。
 だから、会いたかった。会いたくてたまらなかった。ヴァルハラでの再会の意味するところを、ヤンはできれば拒みたかったし、シェーンコップはそんなことなどどうでもよかった。
 ヤンと共にある以外、自分の生に意味はないと思い決めた男は、ひとり生き延びた1年、後悔と罪悪感に窒息しそうになりながら、ヤンの死を無駄にはしない、そうなるまではまだ死ねないのだと、己れを鞭打つように生き続けていた。
 魂のない、空っぽの体。ヤンとともにすでに行った、自分の命。大量の血を失ってなお、抱き上げればきちんと重かった、ヤンの体。
 ヤンが死んだと、信じていなかったのは誰よりも自分だった。死ぬはずがない。自分を置いて、あの男が死ぬはずがない。死ぬなら自分の方が先だ。あの男を守って、死ぬなら自分の方だ。
 守りもせずに、守らせもせずに、なぜ先に、勝手に行った、と、声も呼吸も体温もない相手に、理不尽に八つ当たりをした。そうして、自分の痛みと苦しみをヤンになすりつけて──もう、感じはしないだろうから──、シェーンコップは耐えた。そうしなければ、耐えられるはずもなかった。
 重ねた膚から、シェーンコップがそう考えているのをすべて読み取って、ヤンはただ無言でシェーンコップを抱きしめる。そうしても、慰めるのに十分かどうか分からず、それでもヤンにはそれしかできず、自分の腿にはまだ決して触れようとはしないシェーンコップの掌が自分の背中を滑るのを真似て、シェーンコップの背中をまた撫でる。
 ぱっくりと口を開けた、乾いた縁の赤黒い裂け目の、自分の指を切って埋め込んだところで塞がるはずもないその深さが、シェーンコップの悲しみの深さなのだと、今度はヤンがそのために内心でうめく。
 互いの傷の癒えるための、長い長い時間。その時間だけはたっぷりある。いつか、互いの傷を見せ合って、笑い合える日も来るだろうかと、ヤンはシェーンコップを抱きしめて考えた。
 シェーンコップのこの悲嘆ごと、抱きしめる以外術のないまま、また自分の胸の中で泣き始めた男の大きく震える背の、深い裂け目の縁を、ヤンは黙ってなぞり続ける。

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