シェーンコップ×ヤン in ヴァルハラ

近距離恋愛

 元々距離の近い男だけれど、一緒にいるようになると、同じ家の中にいると言うのに、すれ違うたび挨拶のキスをして来るようになった。
 ヤンの方は、育ちのせいか挨拶のキスやハグと言う習慣がなく、今思い返せば、もっとユリアンにそういうことをしてやっても良かったと思うのだけれど、自分にして欲しいと思ったことはないヤンは、シェーンコップがその親しげな挨拶を、今では同居人──よりはもう少し親(ちか)しい──のヤンへやたらとして来る。
 朝起きて、キッチンで顔を合わせれば頬か額へ、ソファの傍で行き合えば素早く引き寄せられ、ただそこに立っていると言うだけで、近づいて来たシェーンコップの唇が、そよ風のようにヤンの唇を通り過ぎてゆく。
 自分に対して、こんな態度をした誰もいたことのないヤンは、何度繰り返されてもそれに慣れずに、シェーンコップの唇が近づいて去るたびに、飽きもせず頬を染めた。
 「いい加減、慣れたらどうです。」
 少し長く唇に触れていたせいか、今は首まで真っ赤に染めたヤンを見て、まだすぐには向こうに行かずにシェーンコップが言う。少しだけ、呆れたようなトーンを含んで。
 ヤンは自分の唇を掌で覆い、何とも言えない目つきで、シェーンコップを睨むように上目に見た。
 同じベッドで、裸で抱き合って眠る間柄だと言うのに、たかがこんな軽い挨拶でいちいちこんな反応をするヤンを、シェーンコップは異世界の生き物のように眺めている。
 そうとはっきり言わないにせよ、自分たちはとっくに恋人同士であることを改めて言い聞かせるように、シェーンコップはもう一度、ヤンの額へ音を立てて口づけた。
 「何がそんなに恥ずかしいのか、小官には理解しかねますな。」
 わざと、軍人だった頃の口調を取り戻して、そのくせ上官に対する態度とはとても思えない尊大さで、胸を張るようにシェーンコップが言う。
 「慣れないだけだよ。わたしは君とは違うんだ。」
 ヤンが言い返す。声が震えている。顔は相変わらず真っ赤だ。
 もっと恥ずかしいことをしているくせにと、シェーンコップは昨夜のことを思い出しながら、それを指摘すればヤンを必要以上に怒らせるかと、自重して言葉を慎んだ。
 あれこれ控え目に過ごした──本人はそのつもりだった──後で、ヤンに先に死なれて身を引きちぎられるように離れ離れになった1年、その後でやっと心置きなく遠慮のない時間を過ごせるようになったと言うのに、今さら挨拶のキス程度でこんなに恥ずかしがられると、これはヤンの罠か何かかと、シェーンコップも疑心暗鬼に陥り掛ける。
 戦争に関してならどんな詐欺まがいも恥知らずに容赦なくやってのけるこの男が、その他のことにはとんと疎くて、戦場において人の心を読み取ることにかけては天才的なくせに、それが人間同士の、こんな付き合いとなると、別人なのではないかと思うほど鈍感になるのが不思議だった。
 ベッドの中での乱れようを、他の時に出されても戸惑うだけかとは思いながら、シェーンコップは、もう少し昼間の態度をそちらに寄せてもいいのではないかとも思う。
 30をとっくに過ぎた男が、生娘みたいな、あるいは15かそこらの少女のような態度を取っても見苦しいに違いないのに、ヤンに関しては初心な少女そのまま、可憐だとか可愛らしいとか、そんな形容がうっかり浮かんでしまうほど、シェーンコップはヤンに遠慮なく溺れ切っている。
 溺れる様が見苦しいのは自分の方かと思い至っても、恋なんてこんなもんだと開き直りがやって来て、結局反省など、ヤンの前では物の役にも立たないのだった。
 ヤンを指して、首から下は役立たずと憎まれ口を叩いたのはキャゼルヌだったけれど、今の自分はそれどころではなく、首から上もとっくに役立たずだと、またヤンを抱きしめて口付けたい衝動に耐えながら、シェーンコップはさり気なく自分の両腕を背中の方へ追いやった。
 「まあいいでしょう、紅茶を淹れるのに忙しいので、また後ほど。」
 ヤンのための、今日は3回目の紅茶だ。離れる前にまた額へ軽く口付けて、ヤンがその額を押さえて唇を尖らせたのを見ない振りをして、シェーンコップはキッチンへ向かった。
 湯はたっぷりめに沸かし、それだけで長い時間を掛けて、後はカップやポットを全部温めるのに、また同じくらい時間が掛かる。この手間のお返しとして、挨拶のキス程度もう少し愛想よく受け入れてくれてもいいのではないかと、葉を泳がせる時間を砂時計でにらみながら、それ以外は案外素直に受け入れるくせにと、またふと昨夜に心が引き戻されそうになって、いかんいかんと砂時計に集中した。
 まだ午後だ。夕食もある。閉じこもる時間までにはまだ間がある。ヤンに溺れるのはいいとして、暴走するのはさすがに人としてのシェーンコップの矜持が許さない。
 砂時計の落ちる砂を見つめながら、夜までの時間を数えていることに気づいて、シェーンコップはひとり頭を振った。
 温めたカップに淹れ立ての紅茶を注ぎ、そこへブランデーを少し。我ながらいい出来だと、香りにうっとりしながら、シェーンコップはそれをヤンの元へ運んだ。
 ヤンは珍しく本も読まずに空手で、シェーンコップがやって来るのを見るとソファから立ち上がり、さっさとその手から紅茶を取り上げるとテーブルへ置いて、色も香りも確かめない。
 シェーンコップはちょっと驚いて、自分の目の前で、妙に真剣な表情をしているヤンを見つめ返した。
 ヤンが背伸びをする。シェーンコップの首筋に両手を掛けて、シェーンコップがいつもそうする挨拶のキスとは違い、ヤンのそれはもっと深かった。
 拒む気など当然なく、少々時間を弁えてないのではないか、せっかく淹れた紅茶はどうしたと、ヤンへ苦言を呈したい気はしたけれど、ヤンの、今になっても不慣れに動く舌先に逆にそそられて、シェーンコップの両腕はしっかりヤンの腰へ回っている。
 唇が離れると、ヤンの頬はまた真っ赤に染まっていて、
 「閣下、挨拶の場合はもうちょっと軽く──」
 シェーンコップが言い掛けたのを、ヤンがその唇を揃えた指先で押さえて遮った。
 「挨拶じゃないよ。」
 シェーンコップは軽く眉を上げて、自分の瞳孔が開いたのをはっきりと感じた。
 「君は、いつも挨拶のつもりだろうが・・・わたしは違うんだ・・・。」
 色恋に慣れていない30男の不器用さとつたなさに、こんなに鼻先を引きずり回されるとは思わなかった。色事師と自分を呼ぶ気はないけれど、それなりに場数を踏んで来て、最後と選んだ恋がこれとは、手練れの面目丸潰れだ。ヤンを、良くも悪くも恋を知らない少女のようだと思うのと同じほど、結局自分もヤンの前では、やっと初恋を知った少年のようになる。
 シェーンコップはヤンの腰に巻いた腕の輪を少し縮めて、
 「紅茶が冷めますよ。」
 前にも同じことを何度も言ったなと思いながら、わざとヤンの唇へ、話し掛ける息を届かせる。
 「どうせ熱くてすぐには飲めないよ。」
 「では、少し冷めて飲み頃になるまで──?」
 下からヤンが、すでに目を潤ませているのに、ああそんなので足りるわけはないなと、シェーンコップは自分のことを思った。
 ヤンも、シェーンコップの目色にそれを読み取って、
 「・・・飲み終わるの、待ってくれるかい。」
 声も、闇色の目と同じくらい熱っぽく湿っていた。
 ヤンが紅茶を飲み終わった後、夕食までの時間、どうやら少し早めにふたりで閉じこもることになりそうだった。今夜の夕食は簡単になるに違いないけれど、そのくらいはヤンも勘弁してくれるだろう。そもそも、夕食を食べる暇があるだろうかと、シェーンコップはちらりと考える。
 空腹は胃の方だけではない。紅茶のブランデーをもっと多くしてもよかったかもと思いながら、それもまた、酔うのは酒にだけではないのだと思った。
 「待ちますよ、どうせ1年待ったんだ。」
 待ったのはシェーンコップだけではないと、寄り添って来るヤンの胸から響く鼓動が伝えて来る。
 挨拶のキスは、これからはヤンの指先にすることにしようと思いついて、それでは多分、自分の方が足りなくなるに違いないとシェーンコップはすでに確信している。
 紅茶はゆっくり冷めて行くけれど、ふたりの交わす接吻の熱は上がる一方だった。

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