儚いもの
司令官閣下、とちょっと重々しい声で呼び掛けられ、ヤンはベレー帽を押さえながら振り返った。淡い金髪に恐ろしくきれいな緑の瞳が、ちょっと気後れしたように数歩先で足を止め、ヤンを長身のくせに上目遣いで見ている。
「やあ、リンツ少佐。」
近頃階級に変更はなかったよなと、ヤンはちょっとあやふやな記憶を曖昧な笑みでごまかして、やっと自分に近づいて来る彼の襟章に素早く視線を走らせた。
「お忙しいならまた別の時に。」
歩幅を狭めて近づいて来るのに、ヤンは邪気のない笑みを浮かべ、
「はは、忙しいならこんなところをふらふらしてないよ。」
執務室を抜け出して来たことは隠して、恐縮した風に広い肩を縮めているリンツへ気の抜けた笑い声交じりに言った。
「あの、以前おっしゃってた、防御指揮官閣下の、あの、スケッチのことで──。」
普段直接に声を掛けるなどあまりない司令官であるヤンに、人目のあるところで対面すると、リンツはつい緊張して舌がこわばる。元々口の回る方ではなし、こんなところはローゼンリッターの隊員たちに見せられたものではないと、連隊長としての自分の立場を考える。
ヤンが一体、以前自分に言ったことを覚えているだろうかとも思いながら、単なる気まぐれの社交辞令だったらどうしようと、怯む気持ちはどこかに押さえ込んで、リンツは必死にヤンに話し掛ける。
「ああ、シェーンコップの! 見せてくれるのかい。」
ヤンの黒い目がいっそう濃さを増して、礼儀でリンツの取っていた距離をさっさと縮めて来た。爪先を踏まれそうな近さに驚いて、リンツはじりじりとかかとを後ろへ下げる。
リンツはヤンの態度に赤面して、もたもたと自分の背後から大きな紙ばさみを出すと、開いて中をヤンの方へ差し出した。
「何枚か、色も塗りましたが、大半はスケッチばかりです。その、お気に召すかどうか・・・。」
色を塗ってそれなりに最後まで描き上げたものと、色はなく線だけで仕上げたものと、そして何枚かは描き上げたと言うには少し無理なものもある。選んで迷ったけれど、そこまでは少なくとも気に入って描き、そこから先は自分の腕が足りずに描き続けることができず、もう先を描くことはないだろうと、リンツが判断したものだ。
たまったスケッチブックからページだけ切り取り、ヤンのために選んでまとめて、見せるために持って来たものだった。
ヤンは案外枚数の多いそれを、1枚1枚めくり、本の紙よりずっと厚くて質感の荒い紙面を、まずは指先に確かめているのがリンツから良く見えた。
へえ、と、案外振りでもなさそうにヤンが目を輝かせているのに、リンツはほっと胸を撫で下ろし、自分の描いたものを目の前で他人に観賞されることにいつまで経っても慣れず、照れ臭さを隠し切れずに白い頬にはうっすら朱の色が上がり、緊張で口元は固くなっている。
「こんなにたくさん、すごいな。良く時間があるねと、わたしが言うのも何だが・・・ほんとうにすごいな。」
注意深く、直接紙には触れないようにしながら、ヤンはリンツの描いた線を指先にたどり、その手付きはまるで、シェーンコップ本人に触れているように見えて、そうしながらヤンの口元はごく淡い笑み、リンツの見たことのない類いの微笑を刷いていて、シェーンコップが見ているのはこれなのかと、いつもの癖で頭の中にスケッチを始めている。
この人に、こんな風に見つめられたら、あの人のようになるもの無理はない。自分の、今は紙の上に表されている上官のことを思いながら、リンツはまるでシェーンコップ自身に乗り移られたように、シェーンコップの視線でヤンを見つめている。
1枚1枚、決してぞんざいにではなく眺めて、ヤンはどれにも目を細めて、きちんと称賛の空気をリンツに送って来る。
最後の1枚を見て、ヤンは紙ばさみを両手の上に開いたまま、
「わざわざ見せてくれてありがとう。これは、もし良かったら、2、3日借りてもいいだろうか。」
「あ、いえ、どうぞお持ち下さい。また描きますし、私の手元にあっても、ベッドの下で埃をかぶるだけですから。」
決して誇張ではなく、ベッドの下に突っ込まれたスケッチブックの山を思い出しながら、リンツは紙ばさみをヤンの方へ押す手付きをした。
「でもせっかく君が描いたのに──」
「見て、喜んでいただける方の手元にある方が、その絵も幸せです。」
「・・・ありがとう。」
ヤンの口元がはっきりと笑みにほころび、リンツもついつられて微笑を浮かべた。
「これが、いちばん好きだな。」
重なった紙を丁寧に繰り、ヤンがリンツに指差したのは、装甲服姿のシェーンコップの横顔で、顔を描くためかヘルメットはなく、シェーンコップは何に向かってか大きく口を開き吠えている。手まで描いてあれば、間違いなく戦斧がそこに握られていたろう。
ヤンには決して見せない顔だ。戦闘中でなければ見れない、シェーンコップのその表情だった。
色のないその絵は、けれどそれだけに線にこもる空気が生々しく、残りの紙面には、リンツが描かなかった戦場の血生臭さが満ちている。それをきちんと感じ取ったヤンは、リンツの絵の凄みに再び打たれたように、数瞬、目の前にリンツがいるのも忘れたように絵に見入っている。
それからやっと紙ばさみをそっと閉じ、
「わたしのために、わざわざどうもありがとう。君は、酒は好きかいリンツ少佐。」
「嗜む程度ですが、はい。」
「じゃあ今度、ウィスキーのいいのが手に入ったら君に回すよ。それと、次の昇進の時には、ちょっと、ね。」
リンツへ向かって内緒話でもするように、さらに顔を近づけてささやいて来る。
後半は冗談に違いなかった。その手のことが嫌いで苦手だと言うのは、シェーンコップの語るヤンのあれこれから、リンツたちも聞き及んでいる。自分の絵を見て、突然縮まった自分との距離ゆえに、ヤンもこんな冗談を言うのだとリンツは理解して、あえて否定もせずに笑って受け流しておく。
紙ばさみを閉じながら、額縁を買わなきゃなと、ヤンがひとり言のように言うのに、リンツは思わず赤面した。
じゃあありがとうと、紙ばさみを手にヤンが去ってゆく。リンツはしばらく敬礼の手を崩さず、少し弾むように進むヤンの足元を眺めていた。
ずいぶん以前、同じような足取りで立ち去る背中を見送ったことがある。ローゼンリッターに入隊してすぐの頃だ。
恋人の写真を見せられ、始終持ち歩くと傷んでしまうから、これを写して絵を描いてくれないかと、隊員のひとりに頼まれ、リンツは言う通りにしてやった。その時の礼は、カフェテリアの昼食にデザートつきだった。
何度めかの出撃でその隊員は死に、後で、懐ろに入れていたと言うリンツの絵を、絵に入れておいたサインで見分けて誰かが届けてくれ、血に汚れた自分の絵を見て、リンツはひとりでひっそり泣いた。
同じようなことは、その後も何度かあった。
好きな女がいるが写真がないと言うのを、必死で特徴を聞き出して描き、そっくりだと喜んだ、2つ3つ年下だった隊員。この男も死んだ。絵はどうなかった、リンツは知らない。
オレを描いてくれと、モデルを申し出て来た奴もいた。戦闘中に右腕を切り落とされ、左手にリンツの絵を持って退役して行った。
リンツがスケッチブックを抱えていると、やたらとからかいに来た隊員。リンツが描く間中傍にいて、手の動きを見たがった隊員。俺を描きやがったらぶん殴ると息巻いたのもいた。リンツが絵にしたいタイプではなかったから、まるきり相手にしなかった。この男も死んだ。
誰かの手に渡り、喜ばれた絵もある。描いたきりどこかにしまわれて、記憶の中にだけおぼろにある絵もある。途中で気に入らず、捨てた絵もある。どれもひとつずつ、間違いなくリンツの断片だ。
リンツの見たシェーンコップを抱えて、ヤンが去ってゆく。あの絵を見返して、ヤンは新たなシェーンコップにそうして出会い、ふたりの間にそっと介在するリンツは、存在を消してふたりを見守る位置へ立つ。今までとまったく同じに。ふたりを眺めて、リンツは胸のあたたかくなる気持ちへ、感謝せずにはいられない。
紙など、破ってしまえばそれで終わりだ。命も、戦場では呼吸をする間に散ってゆく。何もかも儚いこの世界で、リンツは自分が美しいと思うものを紙の上に描きとどめ続け、強さも弱さも、したたかさもはかなさも、何もかもを線にこめるつもりで、また絵を描き続ける。
リンツはそうやって自分を癒やし、それを求めた人たちを癒やしもした。描かずにはいられない衝動が、リンツを殺人機械になり切ることから救っている。リンツはまだ、美しいものをそうと見分ける力を持ち、その美しさを、形に残す術を持っている。
あのふたりの間にある、確かに美しいものを、自分が描きとめられるのかどうかは分からなかった。あれも儚いに違いない。それでも、そっと共に差し出した両手の中で、必死にそれを守ろうとするヤンとシェーンコップの姿を、リンツは脳裏に思い浮かべながら、さっきヤンが見せた微笑の表情を、きちんと絵に描いておかなければと思う。
シェーンコップに見せる、ヤンのスケッチを選ぶ作業がまだ残っていた。これはできるだけ出来のいいのを選んで、そして新たに描くつもりのヤンも、できるだけ実物のヤンらしく描ければいいがと思いながら、リンツはやっと広い肩を元来た方へ回した。