シェーンコップ×ヤン in ヴァルハラ

雪夜の月

 月の明るい夜だった。
 前夜のひどい吹雪で、辺りは瞬く間に銀世界に変わり、窓から眺めているだけでも恐ろしい勢いの雪に肩をすくめて眠って一夜明ければ、すべてがぶ厚く雪に覆われて、清濁すべて飲み込まれた風景は音も吸われてしんと静かだった。
 そこに不粋に足跡を残す気にもなれず、閉じこもって過ごして丸1日、奇妙に明るい窓の外へ魅かれて、ヤンはやっと外へ出る。
 後はもう寝るだけと言う格好ではさすがに寒いと思って、昼寝用の、ソファに置きっ放しの毛布は巻きつけて、素足に靴の足首に、踏み込んだ雪が早速入り込んで来る。冷たいとは思ったけれど、中に戻ろうとはまだ思わなかった。
 見上げる月が、凄まじく明るい。銀の色味はなく、柔らかな淡いクリーム色の月は、目を凝らせばわずかに端が欠け、満月と思ったのにと、残念には思わずにヤンは苦笑を口元に刷く。
 葉を落とし、裸になった木にも雪はまといつくようにぶ厚く積り、枝は重たげにしなっている。
 吐く息が、目の前を白く流れてゆく。同じように、頭上を、雲が漂い流れてゆく。月は雲に薄く遮られても光を失わず、流れて雲の去るたび元の輝きを取り戻して、白っぽく世界を照らし、淡い影さえそこに生み出しそうに見えた。
 銀世界に降り注ぐ月光。雪景色に満月──ほぼ──を見上げられるとは思わずに、ヤンはこんな時は絵でも描けたらよかったのにとふと思う。
 「何をしてるんですか。」
 後ろから声が掛かる。玄関のドアから半分身を乗り出して、シェーンコップももうシャワーを浴びた後のパジャマ姿で、きっともう寝ようとヤンを誘いに来て、姿を探していたのだろう。
 ヤンは振り返り、にっこりと笑った。
 「今夜は月が綺麗だ、シェーンコップ。」
 「月?」
 怪訝そうに言い返してから、そこからは見えるのかどうか、シェーンコップがやや身をかがめるようにして、斜め上を見る。そこからでは月の明るさを眺めるのがせいぜいと分かったのか、シェーンコップも靴だけ引っ掛けて外に出て来る。
 足元からの冷えにちょっと眉を寄せ、それでもヤンを咎めることはせずに、シェーンコップはヤンの傍へ来た。
 ヤンは毛布の端を持ち上げ、半分を分けようとシェーンコップに示した。シェーンコップは手早く毛布をヤンから剥ぎ取ると、自分の体にまず巻き付けてから、前面にヤンを抱え込んで、それから毛布で包み込んだ。大きさがふたり分には少し足らない。それでも、背中に当たるシェーンコップの体があたたかくて、ヤンはそちらに体重を寄せた。
 「君はいつでもあたたかいな。」
 「ベッドの中でもですか。」
 「ベッドの中では、特にね。」
 軽口を叩き合うふたりの呼吸が、互いの顔に掛かりながら交じり合う。上空の風に吹かれる雲と同じに、白い息も風に流れてゆく。それ越しに、ふたりは月を一緒に見上げた。
 「こんな風に、地上から、こんな月を見上げる日が来るとは思わなかった。」
 君と一緒に、と言わなかった部分を聞き取ったのか、シェーンコップがヤンへ回した腕の輪をわずかに縮めて、
 「──私もです、提督。」
 耳の近くで低められたささやきに、寒さのせいではなくヤンの肩が震える。
 白っぽく輝く月、淡く影を作り出すその光の強さが、雪の清冽な皓さに照り映えて、夜だと言うのに世界が明るい。昼間の、何もかもを剥き出しにする明るさとは違う、まるであらゆるものを覆い包むような、窈窕たるそのほの明るさ。
 自分たちにはぴったりだと、ヤンは思った。
 ひそやかに、その必要があるにせよないにせよ、息をひそめるようにして、一緒にいることを選んだ自分たちの、今頭上に降り注いで来る月光の閑麗さは、何とも名付けがたいふたりの繋がりを表しているような気がして、ヤンは改めて自分の前にシェーンコップの両腕を抱き寄せた。
 あの、端のほんの少し欠けた、月。満月ではない。けれど満月に見えるし、満月と思い込めば満月以外の何物でもない月の形が、いまだどう呼んでいいのか分からない自分たちの関係とそっくりに思えて、ヤンは数瞬、シェーンコップに対して複雑な思いを味わった。
 君を何と呼ぼう。恋人と言うのは甘ったる過ぎて、伴侶と言うのはまだ少し重い。上官と部下と言う関係を取り去っても、互いの態度はそれほど変わらず、相変わらずその枠にはまったまま、結局はそこから出ない関係がいちばん心地良いのか。
 守られているのだと言う自覚はある。けれど同時に、シェーンコップに自分を守らせることで、自分はシェーンコップを守ってもいるのだとヤンは知っていた。
 わたしたちは、何だろう。
 死さえ、ふたりを分かてたのは1年きりだった。逃げ切れたと思ったのは甘かった。逃げたつもりはなかった。けれど結果的にはそうなり、シェーンコップはそれを決して許さなかった。
 溺れるのが怖かった。シェーンコップなしには、もう呼吸すらできなくなるような、そんな自分になるのが怖かった。そうはならないと、踏みとどまる努力がどこまで続くのか、自分を過信しないヤンは、それの終わる日が恐ろしくて、その不安の断ち切られた後で、ひとりになった淋しさに耐える方がましだと思った。思い込もうとした。
 不安も淋しさも、苛まれる程度は結局どちらも同じだった。再会して、それを思い知って、ヤンは結局、溺死のようにシェーンコップに溺れることを自分に許した。際限なくシェーンコップを受け入れ、自分もまた、彼に踏み込まれるのと同じほどに、彼を引きずり込んでいるのだとやっと気づいた。
 あたたかな体で抱き合って、底なしに沈んでゆく。肺の酸素を分け合いながら、死すら通り過ぎて、互いに巻いた腕を外せない。外す気はない。永遠を誓うことはしないまま、けれどこれは、永遠に続いてゆくことなのだろうと、互いに通じ合っている。
 体を絡め、不完全な輪を作る。その輪の中で、ふたりの世界を完結させて、もう他に必要な何もなかった。
 それなら、無理に名付ける必要もない。
 もう一度、肺の中を空にするように、ヤンははあっと大きく息を吐き出した。
 「そろそろ中に入りましょう。もう1度シャワーを浴びる羽目になりますよ。」
 そうだな、とヤンは素直にうなずいてから、自分の肩を押すシェーンコップの手を束の間押さえて、
 「・・・君が淹れたコーヒーが飲みたいな。」
 頼むと言うよりも、ひとり言のようにつぶやいた。
 シェーンコップはヤンを下目に見て、
 「コーヒーですか? 今から飲むと眠れなくなりますよ。」
 珍しいリクエストに驚いた声で、至極真っ当なことを言う。
 「いいんだ、どうせ君が寝かせてくれないだろう。」
 ヤンが下から、いたずらっぽく言った。
 シェーンコップの心臓が一拍跳ね、うっかり真顔に戻った後で、
 「それで貴方がいいとおっしゃるなら、私は何でも構いませんよ。」
 うん、とうなずいて、ヤンはやっとシェーンコップに肩を抱かれて家の中へ向かう。
 来た時の足跡をたどって、ドアの手前でシェーンコップがぼそりと言う。
 「珍しいですね、貴方がコーヒーを飲みたがるなんて。」
 ヤンが、足を止めた。
 「月が、あんまり綺麗だからね。」
 一体、自分の何なのか、いまだしかとは心の決められない男を見上げて、ヤンは月の明かりの下で微笑んだ。
 ヤンの息の白さに目を細めてから、ドアを開ける手を止めて、シェーンコップはすっかり冷えてしまったヤンの唇へ自分の唇を寄せて行く。
 毛布ごと抱き寄せる体も冷えていて、熱いコーヒーが今恋しいのはシェーンコップも同じだった。
 冷たい月の光に濡れながら、行き交う呼吸だけが熱い。互いを抱く腕から伝わる体温を分け合って、ふたりの足はまだもう少し動かない。

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