* みの字のコプヤンのお話は「聞き覚えのあるの声が聞こえた気がした」で始まり「あんまり綺麗で、目頭が熱くなった」で終わります。
Stained
聞き覚えのあるの声が聞こえた気がした。また来たのかいと、動くはずもない唇でそう言ったように思えて、シェーンコップは強化ガラスへ掌を置き、それ越しのヤンの死に顔を上からじっと見つめる。このガラスの棺は、シェーンコップの指紋と掌の跡だらけに違いない。もちろん誰かが、日に1度か数度はきれいにしているにしても、ふと磨き残された自分の指先の跡を見つけて、シェーンコップはヤンの閉じられた目と重なるその自分の残した跡へ、思わず苦笑いを刷いた。
「貴方自身を、私の祖国と定めてはいましたが、こういう意味ではなかったのですがね、提督。」
もう動かないヤン。場所となってしまったヤン。まだ埋められることはなく、生前の面影を保ってそこに横たわるヤン。
死体なぞ、腐るほど見て来た。人間の形をとどめないものだって珍しくはなく、どれほど悲惨な元人間の残骸も、瞬きもせず目もそらさず、見つめて来たシェーンコップだった。
ヤンのそれは、まるで残された人間たちを思いやったように、大きくはない致死の傷は視界から外れ、顔色と隠せない不自然な硬化さえ除けば、ほんとに昼寝でもしているように見える。
だからシェーンコップは、ここに来てはついヤンに話し掛けずにはいられなくなる。
ご機嫌いかがですかと、死んでしまった人間に、毎日欠かさず声を掛ける滑稽、知る人はそれを、シェーンコップの生前の──そして死後も変わらない──忠誠のあかしのように理解して、その誤解を、シェーンコップは誰にも見せずにうっそり嗤う。
そうだ、ヤンはここにいる。確かに、ここにいる。宇宙へ流されず、まだ焼かれず、土にも埋められず、ヤンと言う人の姿を保ったまま、ここへ寝かせられ、会いたいと思えばいつでも会えるここで、ヤンは死んで眠っている。
この強化ガラスを叩き割って、ヤンに触れたいと、シェーンコップの手が震えている。いつものことだ。
自分が見つけ、選び、そうと決めた故郷。ヤンは、シェーンコップにとってそのような人だった。
ヤンがいたから、どこへ飛び出そうと、どれほど危険な羽目に陥ろうと、帰ろうと思えたのだ。ヤンの許へ。シェーンコップがそこからやって来た、ヤンの許へ。
もう開かない目。もう開かない唇。その手が動くことはなく、まだ眠いと文句を言いながら起き出して、ふらふらと差し出された紅茶に伸ばして来る指先もない。
紅茶をひと口含んで、やわらぐ頬の線はない。
どこまでも固い、死人の皮膚。死人の体。
まったく、とシェーンコップはひとりごちた。
こんな風に、今も毎日、時間さえ許すならヤンに会えることはありがたい。そうして同時に、日々救い難く深まる自分の執着に、シェーンコップはもう自嘲すらできず、死んで人が土なり宇宙の闇なりに還るのは、生きている人間に必要な儀式なのだと思い知る。その死を認め、もう増えることのない思い出を抱えて、前へ進んでゆくための、儀式。
本のページや書類や、ヤン自身のスカーフやシャツや、シェーンコップの上着やスラックスや、そんなところに残る、ヤンがこぼした紅茶のしみ。拭い洗えば薄くなり、恐らくいずれは消え失せる、ヤンと言う人間のそこにいたしるし。
落ちないと、何度小言を言ったか分からないそのしみを、シェーンコップは今大切に抱えて、もうそのしみのひとつも増えないことを、心の底から悔やんでいる。
「こんなことになるなら、私のシャツごとき、紅茶づけにしてしまっても構いませんでしたな。」
紅茶の薄茶のしみが、目の前に広がる、どす黒いヤンの血のしみに変わる。ヤンが、溺れるようにいた、ヤン自身の血だまり。シェーンコップの装甲服の繋ぎ目に染み込み、手入れのたびに新たなしみを見つけ、そのたび拭おうかどうか指先の迷う、ヤンの残したそれ。
ヤンが、まだ生きて流した血の、そうして死んでしまったのだと伝えて来る、鉄錆のしみ。
「紅茶のしみくらい、どうってことはなかった──。」
もう決して増えはしない、ヤンのこぼす紅茶のしみ。それの残る自分のシャツを、抱きしめて、まだ流せない涙のしみは、乾いて消える必要すらない。
差し出した紅茶の、美しい紅(くれない)色に向かってかすかに開く、ヤンのあの闇色の瞳の、瞳孔。あんなに美しいものはなかったのだと、シェーンコップは今思う。
思い出して、あんまり綺麗で、目頭が熱くなった。
熱い紅茶みたいな涙が、知らずにひとしずく落ち、棺の表面を流れてゆく。これも、明日には跡形もない。
ここに確かに在るのに、永遠に喪われてしまった、選んで得た自分の故郷へ、シェーンコップは敬礼しようと思うのに、ガラスに張り付いたように手は動かないままだ。
拭わなかった自分の涙が、血の色をしていないのを、シェーンコップは不思議に思いながら、血の気のないヤンの頬へ、血走った視線を当てている。
ガラスに流れた涙の跡はもう、乾き始めていた。