* リアル獣姦展開含 *
変化たちの森 25
変わり映えのしない1日が積み重なり、ひと月になり1年になり、2週間前も3年前もそれほど明確な違いのない、ヤンはそんな日々を送っていた。高校を卒業してからは、日長一日本を読むかノートに向かって何か書いていると言う時間が主で、人交わりは学生時代よりいっそう減って、ヤンはまるで山にこもる仙人のように、世間から隔たって生きている。
それなりに規則正しい生活が送れているのは、ワルターのおかげで、朝は空腹で起こされ、午前と午後に1回ずつ散歩をねだられ、朝起こされるのが分かっているから夜更かしもそれほどせず、それでも高校生の頃と違うのは、大人になった今のヤンには、酒を飲むと言う習慣が新たに生まれたことだ。
酒に馴染んだのは、年下のアッテンボローの方が先だった、年若の友人に誘われて飲み始め、アッテンボローはごく人並みの酒量だと判明したのだけれど、ヤンは見掛けによらず底なしのうわばみで、飲んでも飲んでもそれほど酔いが顔に出ず、しかも酔って乱れたり記憶を失くしたりと言うこともなく、二日酔いにも滅多とならない、稀な体質だった。
けれど、飲めるからと飲んでいれば体を壊すと、ヤンはワルターのためにきちんと酒量は自制して、紅茶にブランデーをちょっと多めに注いだり、ごくたまにひと晩中飲み続けたりと、そんなことはあったけれど、基本は嗜む程度に抑えて、むしろアッテンボローと飲む時はきちんとアッテンボローを送って行くために自分は飲むのを控えると言う、アッテンボローはそんなヤンを、先輩、大人になりましたねと、酔って潤んだ目で言うのだった。
出会った頃にはすでにヤンより背が高かったけれど、その後ヤンも普通に背が伸びたと言うのに、アッテンボローはそれどころでなく、どこにいても頭半分かそれ以上は抜き出て、首筋や肩は細く見えても、ヤンよりは胸回りはずっと厚い。結局追いつけなかったなあと、一緒にいるとそちらの方が年上に見られる、いつまで経っても少年めいたそばかすは相変わらずの後輩に、背の高さだけではなく、ヤンは何となく頭が上がらないのだった。
アッテンボローは大学へ進学すると、普通の課程を3年で終わらせてから修士、博士課程へ進み、在学中に教授の助手をしていた流れで、今は自分が同校の教授──まだフルタイムではないけれど──になって、1年生に文学を教えている。
姉たちが全員家を出て、両親が淋しがるからと言う理由で、今も両親と一緒に暮らして、ヤンも家族の集まりには、家族の一員として食事に誘われるのも変わらない。
アッテンボローは博士課程のテーマに、少年少女向けの小説を選び、参考文献にヤンの書いたものも1編紛れ込ませ、よくある内容をいかに個性的に味付けし完成させるか云々と言う、自分の論文に対する皮肉のようなその中身に、ちょっと変わったところのある教授が興味を持ってくれたとかで、死ぬような苦労をせずにすんだと、ヤンにはよく分からない感謝の仕方をされた。
決してヤンの書いたものを手放しで褒めたわけではなく、プロの作品と、アマチュアの作品の比較と言う風にヤンの小説を論文の中で使い、その時はまだオンラインにあふれているアマチュア作品を研究に使うことが珍しかったせいで、教授の採点がやや甘くなったのだと、アッテンボローは謙遜なのか事実なのか、よく分からない言い方をした。
ヤンは相変わらず、好きなように好きなことを書き続けて、オンライン上で、実際に本にしないかと声を掛けられても、今アッテンボローがやってくれている方法に満足しているからと、その手の誘いには一切乗らない。
なぜと訊かれれば、だってめんどくさいと、少年の頃とまったく変わらない口振りで言うだけだ。
ヤンの書いた物は、オンラインでそれなりに売れ続けていて、2年ほど前に書き始めた、小さな船で宇宙を旅している商人のシリーズが受け、強いて言うならヤンの父親が下敷きと言えなくもないその主人公の、ちょっと浮世離れのした暢気さと、行く先々でトラブルに見舞われると、やれやれ困ったなとやる気なさげに、それでもきちんと切り抜けてゆく運の強さ、そして彼の人の好さに魅かれて集まって来る人々の奇妙に個性的なのが、毒々しさのないヤンの文体に合ってか、週末にポーチでコーヒーやビールを片手に気楽に読むのにちょうどいいと言う感想を得て、書くたびにファンを増やしていた。
主人公は、何となくあだ名のように、船のクルーたちや親しい人たちから提督と呼ばれていて、それに倣って、いつの間にかアッテンボローも、先輩と言う少年の頃からの呼び方と一緒に、物書きを生業にしたヤンに対する敬意を込めて、ヤンを提督とも呼ぶようになっていた。
それに合わせてと言うわけではなかったけれど、高校時代から外見の幼さがそれほど変わらず、20代も半ばを過ぎた今も、酒を飲みに行くと年齢を尋ねられることの珍しくないヤンは、ある時から一人称を、おれからわたしに変え、しばらくの間、違和感をアッテンボローに笑われたけれど、提督と呼び慣れれば、わたしと返って来るのがそれなりに釣り合って、ヤンはそんな風に、大学も就職も通らずに、少年から大人への成長を遂げていた。
他にヤンの周辺で変わったことと言えば、車──やはり中古だ──を買い替えたこと、今ヤンが使っているラップトップは2台目であること、そして高校卒業の年に、やっと父親の部屋を空にしてそこに家中の本棚をすべて積め、ヤンは自分の小さなベッドを処分して、父親のベッドを自分の部屋へ移動させた。やっとワルターと一緒に、ゆったり眠れるようになっても、夜の間にどうせ近々と体を寄せ合って、それでも伸ばした手足がもうベッドの端からはみ出したり、寝返りの拍子に床に落ちそうになったりせずにすむようになった。
それから、もう何年使っていたか分からない、居間のソファも処分して、家の中のベッドがひとつになった代わりに、今度はベッドになる新しいソファを買った。客のためと言って何か心当たりがあるわけではなかったけれど、まれにアッテンボローが泊まって行くこともないではなかったし、そうやってヤンは、自分の家の中を自分の好きなように変え、かつて父親と一緒に住んでいた家を、自分ひとり──と、そしてワルター──の家にした。
ヤンが少し変わったと同じように、外の世界でも時間も進み、ヤンとアッテンボローの住む街でも、同性同士が手を繋いで歩く風景がごく当たり前になりつつあった。今ではどこの高校も、プロムの夜には異性同性の組み合わせが両方あふれ返る。
アッテンボローは大学時代に数人の異性の恋人を通り過ぎて、ひとり身の時は、それを知った女学生たちから時折熱い視線を送られるとかで、応えはしなくても、今は彼女らからの関心をただ愉しんでいる。
ヤンは、恋愛については一切無関心で貫き通し、女性に関心がないなら同性愛者なのかと、まれに探りを入れられるのにも特にうなずくことはせず、ワルターのことは当然秘めたまま、一度は、ふたつ先の大きな街で行われたゲイのパレードを、ワルターを連れて眺めに行ったこともあるけれど、祭りのきらびやかさに馴染めず、政治的にどうのと言うことにはさらにちぐはぐさを感じて、ワルターと見つめ合い、そそくさとその場を後にした。
異性愛者も同性愛者も、どちらも今は人間に興味のないヤンは確信が持てず、ワルター以外の存在に恋愛感情──つがいになりたいと言う気持ち──が起こることは一向になく、世間並みに言うなら、ワルターはヤンの伴侶だったし、配偶者然と、ただ一緒に暮らす人たちは世間には多いのだから、自分たちもそのうちのひと組だと、こっそり思い決めて、それでも、分かりやすく恋愛沙汰もなく恋人も作らず、家に閉じこもってただ何かを書いていると言う生き方は、ヤンを紛れもない変人に仕立ててゆくのだった。
変人で結構、とヤンは今も以前も世間の思惑には頓着せずに、足元に寝そべるワルターを時々足裏で撫でながら、ノートを前に、次に続く言葉に頭を悩ませている。
新しい紅茶を淹れて、ブランデーをちょっと注ごうかと思った途端、ヤンの思考を読み取ったように、ワルターが体を起こして小さく吠えた。
「分かったよ、飲まないよ。」
よく出来たこの連れ合いは、ヤンの仕事の進み具合をきちんと見張って、酒を飲むのを許してもらえるのは夕食の後だ。
ヤンはワルターの言うことを聞いて、もう1ページ書き進めるまで、紅茶のお代わり──ブランデーは抜き──は諦めることにした。
出会ってから10年が経ち、ワルターは少し痩せ始め、足取りも軽快さが失せつつあった。
ふっくらとした毛並みは嵩が減り、それでも毎年獣医へ行けばきちんと健康だと言われるから、ヤンは自分が変わったようにワルターだって歳を取るのだと、それだけのことだと、人間ほどは老いのそれほど明らかではないワルターを抱いて、以前ほど強くは散歩をねだらないとか、食事の量が少し減ったとか、そんな兆しを目にしながらも、それでも自分たちの時間はこれまでと同じように、ごくゆるやかに続いてゆくのだと思っていた。
ベッドに飛び上がる後ろ脚がふらつくことがあるのを単なる失敗かと笑いながら、体を洗うとひどく疲れた様子で長い間じっとしていて、体温も以前ほど高くはないのか、濡れた体が乾くのにも時間が掛かるような気がする。
床に一緒に寝そべって、背中を撫で、ヤンから交尾を誘うと、重たげに体をのそのそと乗せて来て、けれど勃起のないこともしばしば起こるようになり、それでもヤンは、別に交尾に至る必要はないからと、そんな時はワルターの体へこすりつけてひとりで済まし、これは今だけのことなのだと思い込みながら、不安と一緒に、否定の気持ちを募らせて行った。
そうしてある日、ワルターはいつもの朝と同じに、空腹を訴えてヤンを起こし、ヤンの差し出したドッグフードへ鼻先を突っ込んだ。けれどすぐに顔を上げ、悲しそうにヤンを見つめて、くうんと鳴く。
与えられるフードに、まれに好き嫌いを言うことがあったから、今回もそれかと、
「それしかないよ。ちゃんと食べて。」
ヤンは深く考えずに皿を指差し、再びワルターは鼻先をそこへ落としたけれど、またすぐに顔を上げて、同じ表情で同じ鳴き方をした。
「わがままはダメだよ、ワルター。」
朝の皿は中身はそのまま、夜に新たに出された皿へも、ワルターは同じ反応をする。
しょうがないなとヤンは根負けして、ビーフジャーキによく似た、犬のおやつを取り出した。ワルターの大好物のこれで機嫌を取って、普通に食事をしてもらうつもりだった。
ワルターはそれを口元へ差し出されても首を振って避け、上目にヤンを見るだけだ。
普通のドッグフードならともかく、これまで食べたがらないのはおかしいと、やっとヤンは思って、
「缶詰を買って来るよ。」
ワルターを撫でながら言う。たまに歯茎が腫れたり、口内炎が出来たり、そんな症状がある時は固いものを食べたがらないから、それだろうと思った。
軟らかいものを食べられるだろうし、そのうち症状も落ち着くだろう。
ヤンは店の閉店時間を気にしながら暗い道を街へ車を走らせ、ワルターが缶詰を食べたら口の中を調べてみようと、大したことはないさと自分に言い聞かせている。
どんな風味かろくに見もせず、とにかく犬用の缶詰をいくつか買って、家へとんぼ帰りした。
心臓が、痛いほど鳴っている。今まで、大きな病気はしたことがない。いつだって元気で、健康で、ヤンの手を煩わせたことなど一度もない。
自分がワルターを置き去りにしてしまうことは想像しても、ワルターが自分を置き去りにすることなど、考えたこともないヤンだった。
まさかと、何度も何度も頭の中で考え、きっと以前そんな風になったように、ちょっとばかり口の中が痛んでいるのだろう、それだけのことだ、まだ何も分からないのに、最悪のことを考えても仕方がない、新しい皿に、買って来た缶詰を取り出しながら、ヤンは顔から血の気が引いているのを感じていた。
いかにも肉々しい固まりが盛られた皿を、ヤンはワルターの前へ置いた。いつものフードよりずっと匂いがほんものらしく強い。
ワルターは普段と変わらない様子でそれへ鼻先を近づけ、匂いをかぎ、素振りは確かに嬉しそうなのに、ほんのわずか口の中へ運んで、それだけだった。
そうして、皿の端に、たった今ついたばかりの血の跡に気づいて、ヤンは全身の血が引いて行く音を確かに聞いた。
小さな、ほんの小さな跡だった。歯でも抜けてしまったのかもしれないと、思い直して、ヤンは優しくワルターの耳の辺りを撫でながら、そっとあごに手を掛けて、横から親指を差し入れて大きな口を開かせる。
何が見つかるかと思っていたヤンは、まるきり変わった様子のないワルターの口内の様子に拍子抜けがして、それでも好物のおやつも、軟らかな缶詰も食べないのは何かあるに違いないと、明日の朝獣医へ駆け込むことを決めた。
見えないところに、何か痛む部分があるのかもしれない。それだけのことで、獣医では大騒ぎをしたと笑われるかもしれない。
半年前の定期の血液検査では、何の異常もないと言われた。だからこれはきっとただの口内炎か何かのはずだと、ヤンは缶詰の皿をキッチンの隅へ置き直し、自分の不安をワルターへ伝染(うつ)さないために、その夜はわざと普通に振る舞った。
とっくにそんなことは読み取られているに違いなかったけれど、それでもヤンは必死で平静を装って、人生のどの時よりも不安な一夜を過ごした。