DNTシェーンコップ×ヤン。

すみれ色の泪

 丈高い体が、足音と気配を消して近づいて来る。
 かすかに上がった口辺に、けれどヤンだけが読み取れる色があって、ああまたかとヤンは思う。
 2歩半手前で足を止めて、自分を見つめて来る灰褐色の瞳に、確かに淡く紫色──水に濡れたすみれの花びらの色──が差し、この色を見分けられるのが自分だけだと自惚れるわけではなかったけれど、それほど数多くの人間がこの色を見たことがあるわけではないだろうと、ヤンはシェーンコップを手招きながら考えている。
 「おいで。」
 ヤンの、低めた、優しい声。自分でも驚くほど穏やかな響きが出て来るのに、シェーンコップの表情と肩から力が抜け、狭めた歩幅で、似合わない、恐る恐ると言う動きでヤンに近づいて来た。
 目の前へ来ると、すみれ色の影がはっきりとそこへ差しているのが見える。ヤンはその瞳へ向かって手を伸ばし、まぶたにではなく頬に掌を添えた。
 シェーンコップはゆっくりと瞬きをすると、ヤンの掌に顔を傾け、そしてその掌の縁へ向かってそっと深く息を吐く。全身の二酸化炭素を吐き切ってしまうような、長い吐息。
 シェーンコップの瞳が再び目の前に現れ、ヤンはそれへ見入る。灰褐色と記される、それ以外の色の複雑に重なり合った結果そうなった瞳は、光の加減で暗くもなり明るくもなり、ヤンよりも明るさに弱いその目は、人工の太陽光の元ではしばしば不自然に細められて、濃いまつ毛に遮られた光のせいで途切れる、鮮やかにきらめく瞬間を捉えるのが、ヤンはひそかに好きだった。
 暗過ぎず、明る過ぎず、同色と記された髪の色によく釣り合ったその瞳に、淡く差す紫の色を初めて見たのは、イゼルローンへ来てしばらくしてからだ。
 近寄らなければ見えないその色へ、ヤンは思わず目を凝らし、黒の後ろへ蒼を隠して重ねたような、ただそれだけの自分の瞳の色とは違う、見れば見るほど判別できる色数の増えるシェーンコップの瞳の複雑さ──ヤン以外の誰も、色の薄い瞳はみなそんな風だけれど──は、その不思議さでヤンの好奇心を捉えて離さなかった。
 誰かの瞳を、そんな近さで見たことはなかったような気がした。
 ヤンの凝視に気づいて、シェーンコップは目をそらさず、同じようにヤンを見つめて来る。
 黒髪に黒い瞳と言われるヤンの、どちらの色もただの黒ではなく、底に蒼味が確かに沈んでいて、冷たい金属めいた、そのくせ触れれば波紋の生まれる柔らかさの存在の隠せない、伸ばした指が腕まですべて飲み込まれるような、冷たくもあたたかくもない深海を思わせる、密度の高い闇の色を、シェーンコップはお返しのように見つめる。吸い込まれそうだと、いつも思う。吸い込まれて、自分の存在を無にする、宇宙の闇に良く似ていると思う。
 感情も表情も吸い取って、ヤンと言う存在の奥行きを消してしまうその昏さ。見入っても見入っても、ヤンの中身は読み取れず、気がつけば自分がその色に取り込まれ、いつの間にか、ヤンと言う深い森の中へ迷い込んでいる。迷い込んで、二度と出なくていい、出たくないと、繁る葉陰と同じ色の瞳の中に、手足を伸ばして憩う自分を見つけている。
 憩って、シェーンコップは、ヤンに見つめられている瞳に、すべてを現してしまう。誰にも見せたことのない、自分自身ですら気づかなかった自分を、ヤンの瞳がさらけ出す。
 シェーンコップの瞳がヤンの瞳に映り、ヤンの瞳がシェーンコップの瞳に映る。重なる色が新たな色を生み出して、けれど自分の上に生まれたその色を、自分で見ることは叶わない。ヤンの瞳の昏さはシェーンコップの瞳の中でやわらぎ、シェーンコップの瞳の紫の影は、ヤンの瞳の中に紛れ込んでゆく。そのことを、シェーンコップは知らず、ヤンも知らず、ただ互いの瞳へ見入って、その中に映る自分の瞳の色の変わりように、へえと目を細めることはあるのだとしても。
 今、シェーンコップの瞳のすみれ色の影は、ヤンの瞳に半分だけ吸い込まれ、残りの半分は、涙になってシェーンコップの頬を流れ出していた。
 この男は、時々こんな風に、声も立てずに涙を流す。誰かが死んだのか、何か悲しいことがあったのか、何も語らずに、こうしてヤンのところへやって来て、ただ涙を流す。頬を伝う涙には、ほのかに紫の色が差して見えて、ああこの男は、こうやってこの瞳からあの影を消すのだと、ヤンは思う。
 シェーンコップの煩悶、あるいや憂悶の内容を、ヤンは訊こうとはしない。語れば耳を傾ける気ではいても、無理に聞き出す気はないのだった。
 野良犬だの狂犬だのと呼ばれる、軍の鬼子のローゼンリッターを束ねて、不敵に悠然と伸ばした背には、様々抱えるものがあるのだと容易に想像はつく。ヤン自身が抱える重みに、時折背骨が折れそうだと思うと同じに、シェーンコップにも耐え続けている何かがあり、その重みを、ふたりは時折、掌に乗せてそっと互いへ差し出すのだ。受け取ってくれとも、ただ見てくれとも、どちらとも取れる仕草で、抱えた重荷の、ほんの一部を、そうやって自分の掌に乗せて、その重さに手首が折れそうになっているかもしれず、その冷たさに触れた部分が凍りそうになっているかもしれず、何も語らず、ふたりはただ見つめ合う。
 声を出さず、理由も語らない、シェーンコップの静かな涙を、ヤンはただ掌の縁に受けて、互いに耐えるものの重さと大きさを、言葉にはせずに理解し合うのだった。
 瞳に差したすみれ色の影が、涙になって消えてゆく。シェーンコップの頬とヤンの手を濡らし、紫の影はそこでいずれ乾き、その後にはもう痕跡は残さない。
 ヤンはシェーンコップを抱き寄せる。しがみつくように自分に全身を預けて来る男の、広い背中を撫で、思ったよりもずっと柔らかな髪を撫で、自分の肩の上で何度も瞬きをするその眼球の動きを感じて、紫の影は消えたろうかと考える。
 シェーンコップの憂いを養分に、瞳の中に開く小さな花びら。紫色のすみれ。咲いたと思えば散ってしまう、その方が良いのだろう、あまりに可憐な、淋しい影。
 苦しいのは君だけじゃないと、そう言ってしまうのはあまりに残酷だった。だからヤンは口を閉じ、ただシェーンコップを抱きしめて、髪と背を撫で続ける。
 君だけじゃない。わたしもそうだ。慰めるためではなく、ヤンは思う。それはただそうだと言うだけのことだと、シェーンコップを抱いて、自分たちは実はよく似た同士なのだと、自分とは似たところなどひとつもない男へ向かって、ヤンは思う。
 シェーンコップの涙の理由を、ヤンは膚に感じ、シェーンコップは自分に触れるヤンの指先から、同じ匂いを嗅ぎ取っている。
 ふたりはよく似ている。似ている部分をひとつも数え上げることもなく、互いの瞳の中にそれを読み取ったのは、一体どちらが先だったのだろう。
 シェーンコップが、ゆっくりとヤンの肩から顔を上げた。長い腕が、名残り惜しげにヤンから離れ、その手の指先だけが伸びて、シェーンコップは自分の目元をさり気なく拭う。それを真似るように、ヤンの指先も、シェーンコップの頬を軽く拭う仕草をする。
 再び不遜の色を取り戻したシェーンコップの瞳が、ヤンの上へ据えられる。森のような、深海のような、宇宙の闇のような、ヤンの瞳へ、今は吸い込まれはせずに、シェーンコップはヤンを見つめて、今度ははっきりと唇の端を吊り上げた。
 一瞬、紫の影がひらめいて、すぐに消えた。シェーンコップは微笑んでいる。今では、シェーンコップの痛みを引き受けたヤンの片頬に、淋しげな色が浮かび、けれどそれは瞬きの後にヤンの上から消え失せ、ヤンの瞳は宇宙と深海の静謐を取り戻していた。
 シェーンコップが爪先を滑らせて、1/4歩だけヤンへ近づく。焼き殺すようにヤンを見つめるシェーンコップの瞳の色がヤンの上に映え、ヤンの瞳を明るくした。白味に寄った黄金の光がヤンの瞳に差し、それは、夜の終わりを告げる、夜明けの太陽の最初のひと筋の訪れのようにも見えた。
 瞳の色を写され、ついでのように、シェーンコップの微笑みも受け取り、ヤンは淡く唇の両端を上げる。
 シェーンコップの唇の端へ、ヤンは素早く背伸びをして唇をかすらせて、塩辛い涙の跡を舌先に舐め取った。
 瞳だけが雄弁に、今起こったすべてを語り合っている。
 シェーンコップのふっくらとした唇が動き、形でだけ、ヤンを閣下と呼ぶ、聞こえないその低い声を心地よく心で聞き取るヤンの口元から、微笑みは消えてはいなかった。

時子さんへのお返し。
そしてさらにいただいてしまった。

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