わくらば
「犬ー犬ー、わたしの犬ー。」ソファでだらしなく体を伸ばして、片手で本を支えて、片手はぶらぶらと座面の縁から床へ伸ばしているヤンが、同じほど間延びした声で、キッチンにいるシェーンコップを呼んだ。
「何ですか提督、貴方の犬は今、貴方のためにオムライスを作ってる最中で忙しいんですが。」
ヤンの方を振り向きもせず、フライパンの中身をかき混ぜながら、失礼な犬呼ばわりを怒るどころか、自分で自分を犬と呼んで、シェーンコップが応える。
「知ってるよ。いい匂いがしてるから、味見はいらないかって思っただけだよ、わたしの犬。」
「いりませんよ。小官の味付けの確かさはご存じでしょう、幸運にも銀河最高の忠犬の飼い主閣下。」
褒めているのかくさしているのか、一瞬考え込むような、シェーンコップのヤンへの呼び方も大概だった。
手際よく、色良くケチャップを混ぜたチキンライスを、きっちり二等分にして皿にこんもり盛り付け、その後には、わざと洗わないままのフライパンにバターをひとかけら放り込み、溶いた卵を流し込む。
「犬ー!わたしの犬ー!」
今度は、呼び掛けではなく喚く声が飛んで来る。
「何ですか飼い主、貴方の犬は今忙しいと言ってるでしょう。」
卵をできるだけふんわりと、決して焦がさないように細心の注意を払って、シェーンコップは卵の焼き加減へ、フライパンすら一瞬で蒸発しそうな鋭い視線を当てている。
「本の栞が見当たらないんだ、どこにあるか、君知らないかい。」
床やソファの座面を忙(せわ)しく探しながら、ヤンがまた声を投げて来る。ヤンはきっと、シェーンコップがいなければいつが昼でいつか夜かも分からないに違いない。
「貴方の読んでる本が昨夜のと同じなら、それには紐がついてるから栞はいらないと言ったのは貴方ですよ飼い主提督。」
互いに対する呼び掛けがどんどんひどくなるけれど、ふたりとも、一向にそれを気にする風もない。
ああそうか、と間の抜けた声がして、どうやら床へ精一杯腕を伸ばし過ぎて、バランスを崩したらしいヤンが、ソファからついに転げ落ちた音と悲鳴が続く。
まったくやれやれと思いながら、シェーンコップは、戦場でターゲットを狙うスナイパーよろしく料理に集中し、黄金色に美しく焼けた卵を、そっとチキンライスに乗せ、まるで美女を着飾らせるようにきちんと包む。見た目も匂いも、古い映画のヒロインのように完璧だった。ふっ、と、写真に撮って、Facebookに投稿して現世に見せびらかしたいような伊達男の笑みが口元に浮かぶ。
「できましたよ提督、本を置いて、手を洗って下さい。」
自分もエプロン──ごく薄い卵色で、ひよこのアップリケの傍らに"PIYO PIYO"と刺繍されていて、ヤンもまったく同じエプロンを持っているけれど、こちらは使われることはほとんどない──を外しながら、床から四つん這いでやって来るヤンのための、食後の紅茶の算段を素早くし、自分も紅茶でいいかと、簡単と思われる割に案外と手間の掛かったオムライス──ヤンのリクエストだ──のために凝った肩を、シェーンコップはふうと息を吐いてとんとん叩いた。
ヤンは言われた通りに手を洗い、そのついでか、引き出しからスプーンとフォークをふたり分取り出して、向かい合わせに置かれたそれぞれの皿の傍らに置く。
その間には、大きな楕円の形のケチャップの容器が置かれ、年齢よりも軍在籍時の階級が優先されるここでは、それに先に手を伸ばすのはヤンの方だった。
「わたしの犬はオムライスも上手くできて、凄いな。」
案外本気の口調で、ヤンがうれしそうに言う。シェーンコップはあっさり鼻を高くして、何しろ銀河の半分を手に入れたヤン・ウェンリー元帥閣下の、とその部分は声には出さずに、
「智勇兼備の、貴方の犬ですから。」
と短く言って、フォークを手に取る。
ヤンは容器を逆さにすると、完璧に美しいオムライスの卵の上へ、できるだけ美しくケチャップを掛けようと、何やら内心で考えて、よし、と小さく掛け声をこぼし、容器の真ん中辺りを両手の指でぎゅっと押す。
その様子を、先を予想しながら上目に眺めて、シェーンコップはひと口目のためにフォークの先を、卵に触れさせようとしたところだった。
「あああああー!!!」
そして予想通り、ヤンは作戦失敗──宇宙でなら不敗だと言うのに──の悲嘆の叫び声を上げる。
シェーンコップは卵から0.2mmのところでフォークの切っ先を止め、それを皿の隅に置くと椅子から立ち上がってヤンの傍へ行った。
「・・・今度は一体何ですか。」
歩くだけで物を失くし、寝て起きるだけで足の小指を捻挫し、ソファから立ち上がるだけで物を破壊するヤンの手元を覗き込んで、シェーンコップは訊いた。
被害拡大を防ぐために、とりあえずケチャップの容器を取り上げておいて、ヤンの説明を訊くのだけれど、見ただけで何事か理解して、シェーンコップはため息を吐く。
オムライスの上に、何か絵のようなものをケチャップで描こうとしたらしい、努力の跡は窺えた。スマイルマークを書こうとすればドクロになる絵心のないヤンの腕では、さすがのシェーンコップの病的に重過ぎる愛に曇った目でも、それが一体何か見定めることはできず、申し訳なさそうにそれを指差して、これは何ですかと訊かざるを得なかった。
「・・・ハートを、描こうとしたんだ。」
「はーと。」
「ハート。」
「なるほど。」
ハートと言われて見れば、人に踏まれた後に車でさらに轢かれ、雨に打たれてしおたれた病葉にしか見えないそれも、愛らしい──シェーンコップの欲目のおかげでそう見えるだけだ──何ものかに見えなくもない。
シェーンコップは、向こう側の自分の皿を手元へ引き寄せ、ヤンがじっと見ている前で、ケチャップの容器を拳銃のようにくるりと回して逆さにすると、まだ傷ひとつついていない自分のオムライスの黄金色の卵の上に、これ以上はないと思われる完璧な位置を見定め、すうっと息を吸って吐き、あの、ケチャップの容器を押さえた時に鳴りがちな下品な音すらさせずに、するすると、オムライスの完璧さをより完璧にする、完璧なハートをそこに描き出した。
わあと、ヤンが、そのあどけない見た目通りの子どものような声を上げて、ぱちぱちを拍手をする。シェーンコップは思わず前髪をかき上げそうになった手を、慌てて途中で止めた。
「わたしの犬は、ほんとうに何をやらせても凄いなあ。」
ヤンの輝くような笑顔を見て、そのハートの描かれたオムライスと一緒に写した心の写真を、シェーンコップは心のアルバムに貼って、しっかりと鍵を掛ける。他の誰にも見せてたまるかと、独占欲で鬼のような形相になっている内心など、絶対に面には出さない。
シェーンコップはケチャップをテーブルの上に戻し、ヤンが描き損ねた方の皿を取り上げて、自分の椅子に戻る。
「え、いいのかい。」
「ええ、貴方はそちらをどうぞ。」
ヤンは輝く笑顔をさらに輝かせて、シェーンコップのハートつきオムライスに向かって、やっとスプーンを取り上げる。
そのハートを気に入ったのかどうか、食べながらハートのケチャップには触れないように──掛けたケチャップの存在意義は?──、ヤンは丁寧に外側からオムライスを食べ進める。
シェーンコップも、何となくヤンを見習って、ヤンの描いたケチャップの病葉もどきを避けて卵を崩し、
「何だか、食べてしまうのがもったいないな。」
ふとヤンがつぶやいて、ハートだけを残したオムライスを、どこか淋しそうに見下ろしているのへ、
「また作りますよ。ハートも、次は貴方の犬が最初から描きますよ、飼い主閣下。」
何気ない風に言ってやると、やっとヤンは安心したように、それでも、そっとそっとハートの端から大事そうにオムライスを再び食べ始めた。
シェーンコップは、そうだ、これからはいつだって、ヤンが食べたがればオムライスを作れるし、ケチャップでハートを描けと言われたら何千個だって描けるのだと思って、自分の食べ掛けのオムライスを、手を止めて見下ろした。
ヤンの描いた病葉もどきのケチャップの線の端へ、フォークの背を当てながら、ふと、わくらばは、邂逅(めぐりあう)と書いてもわくらばと読むのだと突然思い出す。
わくらば、か、と、ヤンを盗み見て、シェーンコップは淡く微笑んで、そのケチャップの病葉の真ん中辺りをフォークの先でゆっくりと割った。