* コプヤンさんには「たまには遠回りしてみようか」で始まり、「雨は止んでいた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば3ツイート(420字程度)でお願いします。
雨の散歩
たまには遠回りしてみようか、とヤンが繋いでいたシェーンコップの手を引いた。視界をけぶらせる小糠雨が、髪を濡らすと言う自覚もないのに、皮膚に触れれば確かに冷たいのだった。
珍しく嫌がらずにヤンが散歩の誘いに乗り、どういう風の吹き回しかと苦笑した次の瞬間には、膚をなぶるように降り出したこの雨に、シェーンコップはなるほどとひとり納得して、ヤンと肩を並べながら、ヤンのゆく方向へ歩いてゆく。
外に出るのが特に好きと言うわけではないヤンは、あっちへ行ってみようこっちへ行ってみようなどと言い出すことはまずなく、家の前から伸びる道を真っ直ぐゆき、適当に左に折れ、また左に折れて家に帰って来る。ゆっくり歩いてせいぜい30分、曲がりようによっては20分で終わってしまう、日光浴と軽い運動を兼ねた、いつも短い散歩だった。
雨宿りするほどでもない、確実に髪をしっとり濡らすにせよ、服にしみ通って来るまでにはずいぶんと時間の掛かる、そんな雨だ。風邪を引きますよと、ヤンに言うのも無駄な気にさせる、そんな降り方だった。
珍しいですねと、ヤンに手を引かれながら、シェーンコップが静かに言う。
「たまには、飼い犬孝行もしないとね。」
ヤンがおどけたように応えた。
なるほど、とまたシェーンコップは思う。シェーンコップはヤンを散歩に連れ出したと思い、ヤンもきっとそう思いながら、自分が飼い犬を散歩させているのだと言う。
貴方がそう言うなら、そういうことにしておきましょう。
思っただけで、シェーンコップは口にはしなかった。
「飼い主に気を使われて、幸せな犬ですな。」
他人事(たにんごと)みたいに言っても、ごくわずかにそこに含まれた弾みは隠せない。霧状の雨粒に吸い取られても、わずかに残る端がヤンに伝わっているに違いなかった。
「犬のおかげで、エサやりにちゃんと起きなきゃいけないし、散歩にも連れて行かなくちゃいけないし、1日中本を手に飲んだくれるのが理想だったのに、まったく予定が狂ったよ。」
君がここに、こんなに早く来てしまったせいだと、ヤンが言葉の外に含ませた。
ここに来て、ヤンに食事をさせ、こうして散歩に連れ出し、やせ過ぎてはいないかと心配するのはシェーンコップの仕事だ。酒でカロリーを摂るのではなく、きちんと食事をしてくれと、口で言うよりは作った料理を差し出す方が早い。自分を、特に面倒見の良い人間だなどと思ったことはなかったけれど、人間必要に迫られれば何とかなるものだ。
空いた方の手をさり気なく伸ばし、ヤンの肩と髪から、かすかな雨の湿りを払い落とす。そこで自然に足が止まり、ヤンが喉を伸ばしてシェーンコップを見つめて来た。
「君は、別の飼い主を選ぶ道もあったんだ。」
目立たないまつ毛が濡れ、頬骨の線が濡れ、唇も湿っていた。
自身の、予想もしなかった早過ぎる死をひっそりと悔い、そして、明らかにそれを追って来たシェーンコップを、ヤンは心の片隅でひそかに責めもし、同時に、再会の瞬間に、自分がどれほどシェーンコップの訪れを待っていたか、文字通り死ぬほど思い知った。
でも、こんなに早くなんて望んでなかった。後百年くらい、ひとりで君を待つつもりだったんだ。わたしが面倒を見れるのはせいぜい犬1匹、君以外の犬なんて考えもしなかった。
それなのに、私には新しい飼い主を見つければよかったと、貴方はおっしゃる。
だって、野良犬のままのわけに行かないだろう。
貴方がただ傍にいないと言うだけで、私は野良犬になったわけではありませんよ、閣下。
でも、と言い掛けて、ヤンは口をつぐんだ。
言葉ではない会話を、ヤンはやるせなく、シェーンコップはごくかすかな苦笑を混ぜて、表情だけで伝え合って、この小糠雨の湿りと冷たさが、陽の光を遮り、ヤンの気分を暗くする。
遠回りをしようと思ったのは、犬のためだったのに、今は濡れ始めた自分の髪がぺたりとこめかみに張り付くのが嫌で、ようするにヤンはシェーンコップに八つ当たりをしているのだった。
何もかもきっと、繋いだ手から伝わっているだろうと、ヤンは思った。
「行きましょう。」
そろそろ遠回りを終わらせて、方向を変えるために、シェーンコップがヤンの手を引いた。そして見せた微笑みが、まるで今隠れている太陽のようだった。
ヤンは思わずそれに見惚れ、つられて微笑み、シェーンコップの爪先の向かう方へ自分も向きを変える。
飼い主は、犬のためにと思い、犬はまた、飼い主のためと思う。
ヤンの笑みを引き出すためなら何でもすると、雨に今少しうずく背中の傷跡へ、シェーンコップは恨みも何もなく心を馳せた。
同じように痛むだろうヤンの左脚を気にしながら、シェーンコップはゆっくりと歩く。
どこまで行っても互いしかいないのだと思い知っている犬と飼い主は、いつもより少し長い散歩の終わりを、口づけで一旦止める。
唇が外れ、再び歩き出した時、雨はもう止んでいた。
家に着いて、玄関のドアを開けてヤンを先に中に入れながら、シェーンコップはいつものように、お茶にしましょうと小さく言う。ヤンがそこで足を止め、シェーンコップを振り返った。
「お茶より先に、シャワーを浴びた方が良さそうじゃないか。」
そう言って伸ばす指先に、シェーンコップの前髪を絡め取って、柔らかなそのひと房は確かに湿っている。
「濡れた犬を洗うのも、飼い主の役目だろう。」
「おや、洗っていただけるのですか。」
まるきり信じていない口調で訊くと、意外にもヤンがあっさりうなずいて見せた。飼い犬冥利に尽きますな、とシェーンコップはおどけて返す。
浴槽の外からシェーンコップの髪でも洗うのかと思ったら、ヤンも服を脱いで一緒にシャワーの下へ入って来る。
シェーンコップは、わずかの間目を剥いた。
明るいところで裸になるのを嫌うヤンの体を、シェーンコップはあまりしげしげと眺めたことがない。無我夢中になれば、シェーンコップの視線がどこにあるかなど、気にしてはいられない状態になるにせよ、昼間から抱き合うことなど滅多とないし、これまで何度誘っても、特別の事情でもない限り、シェーンコップと一緒にシャワーなど浴びたことのないヤンだった。
それでも体を見せたくはないのか、シェーンコップの後ろへ立つヤンの手に従うまま浴槽の中へ坐り、引き寄せられてヤンの胸に頭を預けると、持ち上げられたシャワーヘッドから熱い湯が降り掛かって来る。
自分の腕に触れるヤンの膝へ手を乗せ、シェーンコップは束の間、皇帝にでもなった気分を味わった。
髪が濡れ、湯が顔と首と胸を濡らし、ヤンの指先が髪の間にもぐり込んで来る。シャンプーがひやりと触れ、それを泡立てるヤンの指の動きに、シェーンコップは喉を伸ばして遠慮なく酔った。
洗われる犬と言うよりは、撫でられる猫だ。
なめらかな泡と、なめらかなヤンの指と、さらになめらかなヤンの肌に同時に触れて、雨の散歩も悪くないと思いながら、シェーンコップはふくらませた胸からゆっくりと息を吐いた。
ヤンは、髪洗いのエキスパートと言うわけではなかったけれど、一体どういうことなのか、彼の手指で触れられると、シェーンコップはいつも皮膚の下すべてがほとびて来るような気分になる。ヤンによって潤って軟らかくなった自分の体が、後にはもう人の形さえ忘れて、今自分の皮膚の上を流れてゆく湯のような、不定形の何かになって行くような気がした。
ああ、今俺は犬だったな。
そうだ、今の自分はヤンの飼い犬だとふと思い出して、ヤンの指先によって洗い流されてゆく泡を見送りながら、名残りを惜しんでヤンの胸から背中を引き剥がし、シェーンコップはそこでくるりと肩を回した。
ヤンの手からシャワーヘッドを取り上げ、湯があちこちに飛び散らないように浴槽の底へ置いて押さえて、片腕の中にヤンを抱き寄せる。
「まだ、泡が残ってるよ。」
「自分でやりますよ。今度は犬が飼い主を洗う番です。」
「犬に洗ってもらう飼い主なんているもんか。」
「犬だって、毛づくろいくらいはしますよ。」
さらに何か言い掛けるヤンの唇を塞ぎ、体が冷えないように、ヤンの背へ湯を掛ける。
湯の熱さとふたり分の体温と、それでも邪魔になって湯を止めれば、狭い浴槽の中は次第に冷えてゆく。小糠雨では風邪を引かなかったのに、ここにいるせいで風邪を引きそうだ。
シェーンコップの首筋に、抗議するようにヤンが噛みつく。まだ残る泡が苦いと舌を出して見せるから、その舌を、苦味を確かめるために絡め取った。
自分の皮膚の上に残った泡をヤンへ移すように、シェーンコップは全身をヤンにこすりつけ、そうしてヤンを洗う。湯では濡らさなかった髪へ、濡れた指先を思う存分差し込んで、そうして、小糠雨の湿りの冷えを拭い取るように、温度の下がる浴室の中で、ふたりの息は変わらず熱い。
浴槽の中は、どのみちふたりには狭過ぎた。じっとおとなしくしているならともかく、暴れるには手足があちこちに引っ掛かる。ヤンが文句を言い出す前に、シェーンコップはヤンを引き寄せて、抱き起こした。
ヤンを離さずに、手探りでシャワーヘッドを壁に戻し、調節した湯をまた上から浴びる。小糠雨ではなく、熱いどしゃ降りだ。舌に苦い泡が、ざあざあ流れ落ちてゆく。
ヤンの髪も濡れ、眉も濡れ、唇の輪郭へ沿って流れてゆく水滴ごと、シェーンコップはヤンの舌を吸い込んだ。
濡れた裸の体の間に、湯と体温で新たな熱が生まれ、さて、いつベッドへ行きましょうと言おうかと、シェーンコップはヤンの腿裏を撫で上げる。撫でてて、けれどさり気なく、左腿の貫通孔は避けている。
ヤンはお返しとでも言うように、シェーンコップの髪へ両手の指を全部差し込み、さっきの続きのように、流れる湯に泡を洗い落とす仕草をまた始めた。
思わず、シェーンコップの喉が伸びる。猫なら間違いなく、ごろごろ喉を鳴らしているところだ。
「・・・ここはちょっと狭いな。」
わずかに離れた唇の間で、ヤンがつぶやく。
「狭いのも一興、と言うわけには行きませんか。」
「わたしが明日、動けなくなったらどうするんだ。」
「どうもしません。動けない貴方と一緒にいるだけです。」
ごく軽微に気に入らないことがある時必ずそうするように、ヤンがシェーンコップの背中の傷へ指先を押し込んで来る。なるほど、ここではなくベッドで、と言う意味だ。
ヤンがこんなに素直になるなら、雨に濡れるのも悪くないと、またシェーンコップは思った。
実際に浴槽の縁をまたぐまで、もう少し掛かった。熱い湯に濡れてぬくまった躯を散々探り合って、湯当たりし掛けたヤンを支えてベッドへ運んだ後、雨でも湯でもなく、今度は互いの汗に濡れる。
散歩のようにゆっくりと、互いの躯をあちこち気まぐれにたどって、行っては戻り、戻ってはまた行き、帰ろうとはどちらからも言い出さない、ひそやかな散歩だった。
外の雨は、時折窓を叩く程度に激しくなっていた。その音はけれど、ふたりの立てる音にかき消されてふたりの耳までは届かずに、別の散歩を始めた犬と飼い主は、シーツの森に自ら進んで迷い込み、戻れる道を探そうとする気配はまだない。
窓を流れる雨そっくりに、シェーンコップの額を流れた汗が、ヤンの胸元へ滴ってゆく。
湯の湿りか汗の湿りか、もう分からないヤンの黒髪の根へ、シェーンコップは唇だけで噛み付いて、今はヤンの内側へ散歩の行方を定めながら、いっそう秘めやかに、犬の形でヤンに寄り添った。
ヤンの予感は当たった。ヤンは明日、きっと動けないだろう。シェーンコップが、ヤンをここから出さないだろう。ベッドへ運ぶ紅茶と食事、飼い主は一体どっちだと思いながら、シェーンコップはいっそう深くヤンに溺れてゆく。
湿ったヤンの声が、部屋の中に満ちた。その声は、雨音にどこか似ているように、シェーンコップには思えた。