シェーンコップ×ヤン

肩の荷

 まだ熱い腕の輪をすり抜けて、ヤンは体を冷やすように、ベッドの端へ腰掛けた。
 汗に濡れた膚に空気が冷たく、数分もしないうちに肌寒さを覚えて、けれどまだ毛布の下──そしてさっきまで自分を抱いていた男の傍ら──に戻る気になれずに、ぼんやりと薄闇のどこかを眺めている。
 ひとり残された男の方は、何が面白いのかヤンの背中をただ眺めて、まだ眠る様子はない。
 片足を上げて胸の前に抱え込み、膝にあごを乗せて、空っぽの頭が再起動するのを待っている、このいつもの虚脱の感覚。男が自分を引きずり込む、濃密な空気の中で酸素過多になりながら、酸素はあるのに窒息すると脳が危険信号を送って来て、そこですべてが停止する。
 常に休みなく働き続けている脳が、ほとんど死の直前のように、血も酸素も通わないただのぶよぶよとした塊まりになる。
 そこから戻って来るために、ヤンは虚ろに闇を見つめて、少しずつ自分がいつもの自分に戻ってゆくのに、何となくこのままでいたいような、このままでいるのは不安なような、どちらときっぱり決めかねる気分に落ち込んでいた。
 馴染みのない自分。考えることを手放し、男の手指にただ翻弄されるだけの、肉色の塊まりになる自分。灰色の脳髄は無意味に慄えて、酸素と血液を貪るだけの器官になる。
 これは一体自己嫌悪かと、考えてみたこともあったけれど、こんな気分の真っ最中にはまともに物は考えられず、昼間の素面の自分は思考だけの機械になって、思考しない自分の存在すらも知覚できない。
 皮膚で感じるだけの生き物、粘膜だけをぬらぬらと光らせて、誰もそんな生き物に脳や思考や感情があると考えもしない、そのような生物。手足は男にしがみつく以外は用無しだったし、頭蓋骨の中に収まった機能しない脳など、酸素と血の無駄遣いになるだけだ。
 この男は、ヤンを剥き出しにする。軍服を剥ぎ取り、言葉を取り去り、思考を置き去りにし、ヤンの視界いっぱいに侵入して来て、様々なやり方でヤンの内側へ忍び込んで来る。動かない脳の襞へ刻み込まれる、男との記憶。汗、体温、匂い、声、そして皮膚のこすれ合う音。
 人より多少ましに働く脳くらいしか取り柄がないのに、それを働かせずに、役立たずの自分を好んで抱く男の気が知れないと、ヤンはまるで八つ当たりのように考えた。
 思ってから、違う、と頭の中で自分が言うのが聞こえる。この男は、ヤンの頭脳と、能なしの首から下も、一緒に抱くのだ。その両方がなければヤンではないとでも言うように、ヤンの脳が働いていようといまいと、どの時もそれはヤンだと、この男はヤンを抱く。
 丸ごとひとりの人間。案外と、そんな扱いはされないものだ。そういう意味で、この男はヤンをまともにひとりの人間扱いしていると言えるかもしれなかった。それはもちろん、艦隊の他の皆が、ヤンをそう扱わないと言う意味では決してなく。
 わたしがもう、一切合切考えることをやめても、この男は多分わたしの傍を離れないだろう。
 抱き合うためだけの、ただ体温のある誰か、それだけと言うわけでもなく。
 まだ床にある方の爪先をゆらゆらと揺らすと、親指に柔らかいとも固いともつかないものが触れ、何だと思って、行儀悪く足指の間に挟んで引き寄せた。
 思ったよりも重い、体をかがめて指先で確かめてやっと軍服の上着と分かるそれは、けれど触れただけでは自分のものか男のものか分からず、ヤンは肌寒さを理由にして、取り上げたそれを自分の肩に掛けた。
 引き寄せた時よりもずっと重く、肩に乗って来る。その重さで男のものと知れ、脱ごうかと思ってから、やめた。
 男は、そんなヤンをまだじっと見ているのかどうか、何も言わない。男の目には、それが誰のものか見分けがつかないのかもしれない。あるいは自分のと分かっても、ヤンが勝手に羽織るのに、特に文句もないのかもしれなかった。
 胸元を撫でて、指先にAの文字を確かめ、それから、寒いと言う仕草で腕の部分に触れて、ローゼンリッターの腕章の、刺繍の確かな盛り上がりへ指を滑らせる。
 男の握る、戦斧の柄の固さと冷たさを指先に感じたように思って、ヤンは長い瞬きをした。男の振り上げる腕に自分のそれが重なり、男が殺す敵兵の姿を目の前に見たような気がして、そこからほとばしる血が、自分の皮膚へ滴るなまぬるさが現実感を伴って迫って来る。
 ヤンは、やっと首を回して男の方を見た。
 「もう寝てるかいシェーンコップ。」
 「まだですよ、提督。」
 枕の上に腕をたたみ、そこに頭を乗せて、男が──シェーンコップが微笑んでいる。
 ヤンの質問をまるで予期していたように、そしてヤンが、どんな答えを欲しがっているか知っているように、シェーンコップはそこから体を起こし、ヤンの方へ腕を伸ばして来た。
 「冷えますよ。」
 羽織った上着ごと抱き寄せられて、それを背中に敷き込む形に毛布の中に引きずり込まれ、ヤンは素直に手足の力を抜いた。
 再起動した脳が、また停止してゆく。間遠な瞬きがその合図のように、シェーンコップの手指が、またヤンの皮膚の上を滑り始めた。
 背中に敷いたシェーンコップの上着は、次第に上がるヤンの体温を吸ってぬくまり、今はただ触れるだけで重さはない。
 こんなものを着て、この男にも肩に掛かる重荷はあるのだと、当然のことをたった今思いついたように考える。
 脱ぎ捨て、剥ぎ取られるのはヤンだけではない。この男にも、振り落としたい重さがあるに違いないのだと、厚い背中を抱き寄せながら思った。
 軟体動物のそれのような脳が、頭蓋骨の中で蠢いている。シェーンコップの名を呼ぶ合間に、喘ぐだけの生き物になりながら、今は何の重さもない肩を伸ばして、指の先にシェーンコップの唇を探る。
 ヤンの名前の形に震えた唇が、ヤンの指先を噛んで、重さの失せた肩を落として来ると、ヤンはそれを受け止めて、そこに歯を立てた。血の色の手前、薔薇の花びらの色に似るようにと、ヤンはシェーンコップの肩に、ぎりぎりと歯列を食い込ませ続けた。

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