女性ヤン&片思いシェーンコップ

魔女の手

 気を利かせたつもりで、普段よりずっと大きなサイズの紙コップに紅茶を注ぎ、それを差し出されたヤンはちょっと驚いた風に眉を上げ、それでもうれしそうに、それをシェーンコップから受け取った。
 元々少し大きな上着の袖で掌を覆うようにして、まだ熱い紙コップを両手で捧げるようにして持ち、そうやって指先だけ覗いていると、ヤンの手はほんとうに小さい。
 整えているわけでもなく、染めてもいない爪の、ただ素朴な手は骨の細さが剥き出しで、これでは戦斧も持ち上げられないだろうなと、自分の分のコーヒーをすすりながらシェーンコップは考える。
 シェーンコップの肩にも届かない頭の、髪は相変わらずあちこち跳ねて、軍服の下の体の薄さは首筋にも現れて、黒髪の生き生きとした艶やかさが、ヤンの体に回るべき生気をすべて吸い取っているように見える。
 それでも、隠し切れない曲線が胸元と腰の辺りには窺えて、少女じみた外見とは裏腹の、そこだけは厚く豊かに現れる線を、シェーンコップはつい盗み見せずにはいられないのだった。
 こくこくと紅茶を飲んで動く首は、シェーンコップの片掌で簡単に絞め上げられそうだ。少し腕を振っただけで、後ろに吹っ飛ぶだろう小さな体を、シェーンコップはいつもかばうように傍らに立って、銃のグリップにこの手指は一体回り切るのかと、射撃の訓練のたびに心配になる。
 何もかも小さく、印象の薄い、そのくせまとう空気の奇妙にくっきりと周囲から際立った、目立つと言えば目立つ、目立たないと言えば灰色の壁紙ほども目立たないこの女(ひと)を、シェーンコップはいまだどう受け取っていいものか決めかねていた。
 恐ろしく切れる頭と、冷徹とも言える戦闘中の判断の的確さで、敵からも味方からも魔女と称されるこの女性司令官の素顔と言えば、軍服を脱いでしまえば縦のものを横にもしない、寝起きの姿で1日中本を読んでいられれば幸せと言う、ぐうたらと言う自称に謙遜の響きは皆無と言う有様だ。
 嵩張る軍服に小さな体を包んで、その瞬間に艦隊司令官の貌(かお)を作り、それに生きるすべてのエネルギーを注いでいるように、私的な時間の彼女は呆れるほど怠惰だった。
 誘われれば来る者拒まずのシェーンコップも、子どもっぽい女は好みではなく、シェーンコップが初対面の、異性としてのヤンに、まったく心を動かされなかったのと同じ程度に、ヤンの方も、大抵の女たちが心を騒がせずにいないシェーンコップを特に男と意識した素振りはなく、互いに木や石でも見るように、単なる上官と部下と言う関係だったはずなのに、魔女と呼ばれる彼女の身近にいる時間が長くなるにつれ、シェーンコップは個人としてのヤンと司令官としてのヤンの、その差の大きさに、結局は保護欲をそそられたと言うことなのかどうか、いまだこれが一体どういう感情なのか見極められなくても、ヤンに会う時にはヤンのために紅茶を持参するのを忘れないシェーンコップだった。
 やっと紅茶が少し冷めたのか、ヤンは今は片手で紙コップを持ち、相変わらず唇を近づける時は香りを楽しむように、いかにも幸せそうに目を細める。
 大きなカップの底に近い方を、バランス悪く持っているのをシェーンコップが目に止めたのは、決してヤンの小さな指先を見つめていたからではなかった。
 「もっと上の方を持ったらどうですか。」
 余計なことだと思いながら、会話の糸口のために、シェーンコップはつい口にする。ヤンはシェーンコップの視線に気づいて自分の手元を見やり、
 「上の方は指が回らなくて・・・。」
 困ったように言って、シェーンコップに見せるそれは、たしかにカップの上部の径に半分ちょっとしか回らず、いっぱいに開いた人差し指と親指の線が痛々しくさえシェーンコップの目には映った。
 そんなに小さな手かと、思わずシェーンコップはヤンの、空いた方の手の小指を、自分の指先につまみ取る。自分にそんな風に触れる部下に他意などないと思い込んでいるヤンはされるまま、シェーンコップの親指の傍らでは、半分どころかそのさらに半分の大きさもない自分の小指の先へ、ゲームにでも負けたように唇をとがらせる。
 「小さいですな。」
 隠さず言うと、うるさい、と無理に低めた声でヤンが言い返して来る。
 この小さな手を肩の高さに上げ、射てと命令するのだ。この、同じ声で。この手のひと振りで、何万人、何百万人を殺すのだ。この小さな手で。紅茶の紙コップさえ持つのが危うそうな、この小さな手で。
 シェーンコップが表情を消したのを、ヤンが不思議そうに見る。シェーンコップはヤンの手を離し、自分の手をスラックスのポケットに入れた。
 そのまま触れていたら、ヤンの手を全部握り込んでしまいそうだったから。
 武器に触れるだけで骨の折れそうな小さな薄いこの手は、確かに人殺しの手だ。シェーンコップの、戦斧を握るせいであちこち固い、大きくてぶ厚い手と同じ、人殺しの手だ。
 魔女と呼ばれるのを喜んでいるはずもないヤンが、戦闘の後には必ず陰鬱な表情を浮かべて、ひとりになりたがるのを知っている。ヤンをひとりにしないために、気配を消していつもそれを、少し離れたところでシェーンコップは見守っているからだ。
 明らかに厭世の表情で、薄い肩を丸めるようにして、何を考えているのかただ見るだけで訊いたことはない。その肩に負うものを分け合えないかと、ふと思った自分にシェーンコップは驚いた。
 ただの部下であるはずの自分が、ヤンの内側の踏み込もうとして、それは明らかに部下の役目を越えていたから、自分がヤンを、ただ上官としてだけではなく大切な人だと思い始めていたことをその時自覚し、シェーンコップはひとりでうろたえた。
 それを誰かに話したことはない。異性の上官と部下の、あまりに陳腐な成り行きだ。女性の好みははっきりしているシェーンコップの、そのどれにも引っ掛からないヤンの、どこに魅かれたのだろうかと自分の胸中を覗き込めば、さあ、と言う頼りない声しか聞こえて来ず、強いて言うなら、自分の差し出した紅茶を、いつもありがとうと受け取って美味そうに飲んでくれるからと、野生動物の餌付けでもしているような答えが見つかって、さらに困惑することになるのだった。
 今はまたヤンは両手の中に紙コップを抱えて、そこに並んだ、手入れのされていない爪の小ささへ、シェーンコップは再び視線を吸い寄せられ、一度に何百万もの人間を殺す、魔女と呼ばれる大量虐殺者をはるか下に見下ろし、この小さな体に背負うものを、自分にも分けると言ってはくれないかと、空になった紙コップを掌の中に握りつぶして思う。
 そこへ踏み込んでヤンに拒絶されることが恐ろしくて、必死にただの部下の貌(かお)を保ちながら、この少女めいた見てくれの魔女に引きずられたように、戸惑うだけで何をすることも思いつけない無知な少年の心地で、シェーンコップは自分の片恋の行方を面白がる余裕すらない。
 人を殺すために振られる、小さな手。武器さえ持ち上げられそうにないその手に、彼女は、戦斧を握って振り下ろすシェーンコップの大きな手よりも、ずっと強い力を握り、けれどその力を使う自分を、彼女は憎悪すらしている。
 そう命令する時にはいかにも司令官然とした声音に似ない、子どもじみた手。その手を引き寄せたら、ヤンはどんな顔をするだろう。
 自分が触れたら壊しそうだと、手加減が分からずにシェーンコップは思う。
 守るためだけにその肩に回すはずの腕に、別の熱がこもるとしたら、この女(ひと)はそれを、この明晰な頭脳で読み取るだろうかと、シェーンコップはまだポケットの中の自分の手を拳の形に握りしめた。
 軍服の嵩に埋もれる小さな体を、繭のように自分の体ですっぽりと覆ってしまい、戦争のこの世からいっそ消えてしまう──ふたり一緒に──と言うのはいかがかと、ささやきたい気持ちを抑えて、戦争の世でなければ出会うこともなかったろう、戦略以外は自分の食事ひとつ満足に面倒を見れそうにないこの女(ひと)へ、シェーンコップは作り笑いを向けながら、紅茶のお代わりはいかがですかと、まったく別のことを訊く。
 ううんと魔女は首を振り、紅茶で濡れた唇を、それも小さな舌先で舐め、いっぱいに首を伸ばしてシェーンコップを見上げる闇色の瞳には、部下を見る以外の色はない。
 失望と安堵を一緒に味わって、シェーンコップもただそれへ、作った部下の笑みを返すだけだった。

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