魔女の陰口
言い合わせたわけでもなかったのに、ちょっと1杯とともに思って寄った、将官たち向けのバーの前で偶然一緒になって、キャゼルヌとシェーンコップは肩を並べて中に入った。ひとりで飲むのも悪くはないけれど、連れがあるならそれでも構わない。
愛妻家と名高い事務総監と、女たらしで名を馳せる防御指揮官、妙な組み合わせでカウンターの隅へ陣取った彼らの耳に、部屋の端から、声高な仕事の愚痴に、政府と軍上層部への愚痴、その他諸々、あまり耳に触りの良いとは言えない話題が、もう注文をする前から飛び込んで来た。
キャゼルヌがちらりとその方を見て、しょうがない連中だと言う風にシェーンコップへ肩をすくめる。シェーンコップは他人の愚痴など関心もないように、目の前に差し出されたウイスキーへすぐ口をつける。
「あの連中、ずいぶん若いようだが、将官には見えんな。」
キャゼルヌは大きな氷にジンを注がせて、シェーンコップよりももっとゆったりとした仕草でグラスへ指を掛けた。
シェーンコップはキャゼルヌの言葉に、素早くその集団を盗み見て、
「どうやら部下を引き連れ、おごり酒で人気取りと言うところですかな。」
そういう口調が相変わらずの毒に満ちて、片頬を冷笑に歪めるのは、そうでもしなければ部下の歓心も買えない無能将官を嘲笑うと言うところか。
あの盛大な愚痴も、恐らく部下をそそのかして、ガス抜きに言いたい放題をさせていると言うところか。そのガス抜きをしたい張本人の前で、まさか本気の愚痴は言えない、と言うところに気が回らないところが、さらにシェーンコップの嘲笑を誘う。
ヤン艦隊にも、無能な将官はいるのだ。数の多いすべてが、例えば自分たちのように有能なわけではなく、それはそれ、能力の差はあっても集団として機能するなら、頭に据えられた人間には特に懸念にはならない。
とは言え、息抜きに酒を飲みに来た場所で、頭の悪さを隠しもしない下らない愚痴と言うのは確かに耳障りで、シェーンコップは早いピッチでグラスの中身を半分にすると、さっさと酔うに限ると、続けて空にしてしまおうと喉を伸ばした。
おいおい、とキャゼルヌが苦笑と一緒に声を掛けた時、その集団の話題が突然女のことに移り、どこの誰と、はっきりとは言わずに仲間うちだけで分かる言い方でぼやかしていたのが、話が進む──落ちる──につれ、髪の色や顔立ちの説明から、所属と階級を漏らし始め、ついには少なくともひとりの女性下士官の名前をはっきりと言い、それは彼らの爆笑にまぎれてしまって、この場の誰の耳に届いたかと、キャゼルヌははっきりと不愉快の色を寄せた眉の間に浮かべて、シェーンコップは隠しもせず肩越しに彼らを見た。
彼女らの、体の線がどうの、それから想像される、彼女らの体の具合がどうのこうの、無粋な軍服を脱がせたいなら、些細なミスを見つけてかばってやった振りをするのが手っ取り早いのと、女たらしで有名なシェーンコップにすれば、寝たくて女を口説くなら、真っ直ぐ堂々とやれと上から言ってやりたいところだけれど、低能どもの会話に鼻先を突っ込む気にはなれず、灰褐色の瞳をぐるりと上へ押し上げ、やれやれと空になったグラスを自分の前へ滑らせた。
「ろくでなしはどこにでも湧いて出る。害虫と同じだ。」
「なんだおまえさん、あいつらをまとめて帝国に亡命させてやりたいって顔だな。」
「帝国もあんなのは受け入れんでしょうよ。帝国の処刑は銃殺でしたかな、吊るし首でしたかな。」
「おれに訊くなよ。帝国のことならおまえさんの方が詳しいだろう。」
キャゼルヌも毒舌では負けず、気の使わない直截な言い方をして来るのに、シェーンコップはつい笑って、やっと肩の力を抜いた。
彼らの女の話はまだ続いていて、さすがに名前を出すのはまずいと誰かが言ったのか、下品な話題はそのまま、名前を出す時だけは互いへそっと耳打ちすると言うやり方で、はっきりと名前が出たと分かるのは、その直後に下卑た笑いが大きく弾けるからだ。
酔ってはいるにせよ、ああいう部下の態度を止めない上官と言うのは、どうしようもないなと、キャゼルヌもシェーンコップも2杯目を傾けながら目配せした。
そうして、彼らはますます酔い、同じ愚痴を繰り返し、また女の話へ戻り、2度目の女の話題の時に、ひとりが喚くように言った。
「女だって中将になれるんだろう。一体何をしてそんなところまで行ったか、分かったもんじゃないがな。」
他の若い声より少し枯れた、どうやらひとり歳の違って見える、それが彼らの上官らしかった。若い部下たちに埋もれるように、今だけ尊大に肩を張ったその将官──准将らしかった──は、そうだそうだと自分に向かって部下たちが賛同するのに気を良くしてか、さらに言葉を続けた。
「魔女だかエル・ファシルだか何だか知らんが、軍の穀潰し扱いだったってのに、一体何をどうしたんだか。つつけば後ろ暗いこともあるんだろうよ。」
「でもあんなガキ臭いのと寝たいヤツなんかいますかね。」
「ああいう黒髪の女は、体が特殊だって聞くぜ。他の女と全然仕組みが違うって──だから魔女なんだろ。」
完全に酔っ払っている彼らは、ここがどこか覚えもないらしい。要塞司令官を品のない話題に引きずり込んだことで、さっとバーの中の空気が固まる。彼らはそれでも酔った濁み声の戯れ言を止めず、さすがにキャゼルヌが立ち上がろうとした時、その肩を押さえて、シェーンコップが先に背の高い椅子から降りた。
「おい、殺すなよ。」
キャゼルヌが小声で言うのに、シェーンコップは腕だけ上げて応え、つかつかと彼らへ真っ直ぐ向かってゆく。
シェーンコップは名乗る必要もなかった。彼らの傍に立った瞬間、彼らはさっと顔色を変え、一瞬で酔いの醒め果てた表情で黙り込み、場所をわきまえず、周囲に誰がいるかと確かめもしなかった己れの愚かさを呪ったかどうか、部下の間に肩をすくめるようにして身を隠す彼らの上官を、シェーンコップは立ったまま睨みつけた。
「楽しそうな話だな、良かったら俺も仲間に入れてくれ。ヤン・ウェンリー司令官閣下が何だって?」
彼らは一様に口をつぐみ、言い訳などできる状態ではないのを悟って、何も言い返さないのだけは、シェーンコップは心の中で評価してやった。もっと、百点中1点くらいだったけれど。
ローゼンリッター元連隊長、隊員たち──だけではなく、この彼らも──が鬼よりも恐れる要塞防御指揮官の美丈夫に、腕も口も階級も、彼らがかなうわけもなく、にらみつけられてその視線を正面からすら受け止められない。
彼らのおかげで騒がしかったバーの中が、今はシェーンコップがそこにいるだけで、水を打ったように静まり返り、キャゼルヌはシェーンコップが彼らに手を出さないかと、ちょっとひやひやしながら自分の席から事の次第を見守っていた。
「陰口なら、ご本人の耳に届かない場所で、せいぜい小声で叩くんだな。さっさとここから消えろ。」
最後の部分は、いかにも汚らわしいと言う風に、シェーンコップは吐き捨てた。
彼らは背を丸めて立ち上がり、互いの肩を押し合うようにして、我先にその場を後にした。彼らの上官であるらしい准将は一度もシェーンコップの方を見ず、しっかりを目を伏せたまま、そうすれば自分の正体がばれないとでも言うように、全身に怯えを刷いて、びくびくそこから去ってゆく。
あの男だけでも残して、ローゼンリッターの詰め所で少々灸を据えてやってもよかったかと、シェーンコップはキャゼルヌのところへ戻りながら思った。
「ずいぶんとお優しいこったな、お咎めなしの放免か。見逃してやるなんざ、おまえさんらしくもない。」
「殺すなと言ったでしょう。」
椅子へ再び腰を下ろしながら、面白くもなさそうにシェーンコップが言う。
「そりゃそうだ、揉め事は困る。」
「提督にご迷惑は掛けられませんからな。どうせ顔は覚えました。次があったらローゼンリッターの特別訓練に放り込んでやりますよ。」
あの連中を咎めれば、原因の話の内容をヤンに伝える必要がある。あんな言い方をされていると、ヤンの耳に入れるのは真っ平だった。
「あいつはあの手の陰口には慣れてるさ。まあ、限度ってものはあるがね。」
キャゼルヌが、いかにもヤンとの付き合いの長さを示すような言い方をする。ヤンが気にしなくても、自分が嫌なのだと、シェーンコップはこめかみにまだ脈打つ、膨れ上がった血管を意識した。
「慣れようと慣れまいと、あの手の話を許す必要はない。そもそも提督ご自身が慣れる必要がない。上官侮辱罪にしなかっただけ、あの連中には幸運だと思ってもらおう。」
本気で腹を立てているシェーンコップの、いつもは柔らかな声が固い。キャゼルヌは冗談にもできずに、まあ飲め、とシェーンコップのグラスをさらに近くシェーンコップの手元へ寄せた。
「おまえさんも過保護だな。あいつはそうやわじゃない。今さらあの手のことを言われたって、へとも思わんさ。でなきゃ女の身で、艦隊司令官になるまで生き残れたもんか。」
「ああいうことをこんな場所で話してもいいと許す空気は問題でしょう。」
ヤンに対して気安く踏み込んだ態度を取る自身と、ヤンの周囲にいる、キャゼルヌを含めた面々のことを思い浮かべて、シェーンコップは自分たちは違うと、ちょっと弱気になりながら考えた。
「許さないためにおまえさんがいるんだろう。」
たかが3つ年上で、いかにも大人の余裕──あるいは、妻子持ちの余裕──と言う風に、キャゼルヌが微笑を浮かべる。
「おまえさんが、あいつの傍で、この方は艦隊司令官でござい、要塞司令官でございってやってりゃ、誰も黙るさ。おれたちは何があろうとヤンについて行くって決めた身だ。だが抱える人数が増えれば、どうしたってああいう輩も紛れ込む。そいつは仕方ないさ。だからこそおまえさんみたいなのが、あいつの傍で睨みを効かせて、陰口叩く連中を黙らせるって寸法だ。」
シェーンコップは黙って酒をひと口飲んだ。
「あいつが、ローゼンリッターをイゼルローン攻略に使うって言った時は、それこそおまえさんたちにたちまち食い殺されちまうんじゃないかと思ったが、フタを開けてみれば、誰よりヤンに忠実な猟犬の群れだ。少なくともおれは、あいつの身辺警護を四六時中心配する必要はなくなったし、あいつは、荒事は全部おまえさんに任せて司令官卓でふんぞり返ってりゃいい。ずいぶんと楽になったさ。」
「それは言い過ぎってもんでしょう。私が引き受けられる任務が少々あっても、提督自身の仕事の量は増える一方だ。」
「そいつはおれだって同じだ。」
反論ではなく、ヤンが司令官であるにせよ、事務処理を一手に引き受けるキャゼルヌには、誰も仕事量ではかなわないと言う点にきちんと釘を刺す。シェーンコップは思わず黙り込んだ。
「おれが言いたいのはだな、あいつはあのふにゃふにゃした見掛けで案外したたかだし、そして可愛げなんざまったくない。あいつの容赦のなさはおまえさんも良く知ってるだろう。おれたちがそれほど心配する必要はないってことさ。おまえさんみたいな強面が傍にいれば、あいつにろくでもないちょっかいを出そうなんて気を起こすヤツは出て来んさ。」
「──だといいんですがね。」
半信半疑でシェーンコップは答える。キャゼルヌの口元に、出て来なさ過ぎて、ヤンは今まで浮いた話のひとつもない、それも困ったもんだと言う複雑な色が浮かんだ。
ヤンの保護者を自称するこの男に、こんな風に認められるのを素直に喜ぶべきかシェーンコップは迷って、ヤンのことを悪し様に言っても、この男の口からならヤンが可愛くて仕方がないのだと誰にでも聞き取れる、そんなヤンとキャゼルヌの関係へ、シェーンコップははっきりと妬みを感じている。
とは言え、キャゼルヌはキャゼルヌで、付き合いの長さなど意にも介さず、新参者として現れて今はヤンの傍らから離れないシェーンコップへ、感謝はもちろんありながら、彼は彼なりに思うところはあるのだった。
ヤンは今いないこの場で、キャゼルヌとシェーンコップは、それぞれ自分のヤンとの関わり方と、相手のヤンとの関わり合い方を内心でこっそり比較して、だからと言って特に感想を口にするでもなく、それきり黙々と酒を飲んだ。
2杯目を終えたキャゼルヌが先に席を立ち、じゃあなと既婚者らしく、時間を気にしながら去ってゆく。
振り返らないその背を見送って、シェーンコップは3杯目はジンにしようかと、特に好きでもない酒の香りを思い出しながら、冗談めかして思う。
ヤンのしたたかさも可愛げのなさも容赦のなさも承知の上で、自分のヤンへの関心は、あの男たちのような下衆なそれではないと思って、果たしてそうかと問う自分の声がある。
黒髪の女の体の仕組みが特殊なんて、聞いたこともない──と言うのは嘘だ。まだヤンに出会う前に、さっきの連中と同じように、魔女に対するやっかみ混じりの品のない陰口を、シェーンコップは何度か聞いたことがあった。キャゼルヌもきっとそうだろう。
ひとりになった途端、ヤンの保護者のキャゼルヌの傍では憚りがあって考えられもしなかったことを、酒の酔いに任せて心の中に滑り落としながら、体がどうだなんてどうでもいいと、何度か他意はなく触れたヤンのぬくもりを思い出して、ヤンが女であることすらどうでもいいんだと、アルコールの回った脳がぼんやり喚いた。
ヤンはヤンである、ただそれだけだ。つぶやきが音になってこぼれたのか、バーテンダーが奇妙な顔でこちらを見る。
何でもないとそれへ手を振って、キャゼルヌがいなければ、あの連中をあの場で顔の形の変わるほど殴っていただろう自分を見つけて、シェーンコップは自分に向かって皮肉笑いをこぼした。
重症だな。
明日の朝目覚めて、二日酔いが怖いと、3杯目を干して終わり、シェーンコップもやっと椅子から滑り降りた。
ヤンのいない自分の左側を、ちょうどヤンを見下ろすように見やって、やっぱりあの連中をひとり残らず殴っておくべきだったと苦笑を噛み殺し、明日は朝いちばんで紅茶を持ってヤンに会いに行こうと決める。
前へ滑り出したひとり分の爪先が、かすかな酔いでわずかに揺れて見えた。