魔女の約束 1
ほんの半時間と思ったから、執務室の机に特に書き置きはせず、ちょっと長いトイレと言う体で部屋を抜け出して、ヤンはうきうきを腕いっぱいの本を胸の前に抱えて、できるだけ急ぎ足で仕事に戻ろうとしていた。腕の長さいっぱいの本は当然重かったし、落とさないように、けれど急いで歩こうとすればつい目の前が疎かになり、
「閣下・・・。」
地を這うような低音が、大きな影で立ち塞がっても、ぶつからずに立ち止まるのに半秒遅かった。
腕組みをしてそこに立つシェーンコップへ正面衝突する形に、けれど素早く開いた長い腕が抱えた本ごとヤンを支えに来て、幸い本は1冊も床に落とさず、ぶつけた鼻が痛いのを押さえる手が足らなかったけれど、ヤンは上向いて自分に影のようにつきまとう──任務だ──美丈夫へ、知らずむっとした顔を見せていた。
「行く先を知らせずに姿を消すなと何度言ったら──」
「たかが30分くらい──」
「その30分の油断で何かあったらどうするんですか。図書室に行くのは構いませんが、ひとりではやめて下さいと──」
「うるさい。本くらいひとりでゆっくり選ばせて。」
「選ぶのはどうぞお好きに。ですが、あの梯子をひとりの時に使うのは絶対にやめて下さい。これはお願いではなく命令です閣下。」
部下が上官に命令する世界がどこにある、とヤンは思った。むうっと唇を突き出したのは、シェーンコップの言うことがあらかた正しくもあったからだ。
天井の高い図書室は薄暗く、合わせて背の高い棚の上部はもちろん手など届かず、そのために移動式の梯子があるのだけれど、これが簡易の階段と言う作りではなくて、ほんとうにただの梯子で、ヤンの体重なら折れることはなくても、ちょっとバランスを崩せばすぐ倒れてしまいそうな、そしてヤンの運動神経の鈍さでは、本を抱えてえっちらおっちら降りる姿が危なっかしいことこの上なく、数度そこへついて来たシェーンコップが、その梯子の使用を厳禁した。
もちろんヤンはそんなことなど聞くはずもなく、シェーンコップのいない隙に図書室へ行けば、ひょいひょい梯子を使って、はるか上の棚の本を探し、取り、腕に抱えて梯子を降りる。2度ほど最後の段を踏み外して滑り落ちたことは、もちろんシェーンコップには内緒だ。
そんな隠し事があるから、シェーンコップに強くも出れず──何しろ、相手の方が正しいのだから──、ヤンは黙り込んで、そのままひとり執務室へ向かおうとした。
シェーンコップはそのヤンの腕から本を全部取り上げ、軽々と抱えると、体の向きを変えてヤンの隣りへ立つ。そのまま自分について来るのに、ヤンは邪魔だとも言えなかった。
「帝国語ですか。」
宇宙の闇を哲学的に語ると云々と言う、まったく面白くもなさそうな題名が読み取れて、シェーンコップは隣りでまだ不機嫌なヤンを見下ろした。
ヤンの、本の題と同じ宇宙の闇色の瞳がじろりと動く。
「上のだけ。下の方はもっと軽いの。わたしでも読めるくらい。」
話す方はからきしだけれど、ヤンは帝国語の読み書きの方はそれなりだった。哲学がどうのと言うタイトルだけで、シェーンコップは読む気の失せる本を、よくも母語でもないのに読む気になるものだとシェーンコップは歩きながら思う。
ひとりで歩き回るな、図書室の梯子をひとりで使うなと、聞き飽きた小言を食らって不機嫌なヤンは、それだけではなく、自分が抱えればよろけるほど重くて高く積み上げられた本を、シェーンコップが空手のように運んでいるのがまた気に食わないのだった。
これで、シェーンコップが腕力だけの軍人なら、自分とは求められる能力が違うだけだとも思えるけれど、自称智勇兼備がそのまま通用してしまうのだから、傍にいるだけで鬱陶しいことがある。
キャゼルヌになら、一緒にいると自分が惨めだと本音をこぼすこともできても、まさか本人を隣りに置いて、あっちへ行けと言うわけにもいかなかった。
第一、正直なことを言えば、本を抱えて運んでもらえるのはありがたいのだった。
そしてそれを、素直に口にできない自分が忌々しくもあり、ありがとうと軽く言えばいいだけのそのことが、劣等感への刺激が大き過ぎて、ついシェーンコップへは八つ当たりのような心ない言い方をしてしまう羽目になる。挙げ句、この男は、ヤンのそんな心情を読み取っている節があって、ヤンの不機嫌をまったく気にしない風なのがいっそう癪に障る結果になる。
悪循環、と、ヤンは内心で思いながら、シェーンコップが決して自分に腹を立てないのを前提に、シェーンコップにはつい素の自分を剥き出しにぶつけている自覚はあって、他にもシェーンコップと同じ程度の体格で、似たような男は探せばいるのに、なぜシェーンコップにだけは自分の神経が時々ささくれ立つのか、理由が思い当たらないのがまた神経に障ると、ひとりで勝手にどんどん腹を立てていた。
それでも、元々気持ちの揺れの少ないヤンは、その程度の怒りは数分と持続せず、執務室へ着く頃には、荷物持ちがいて便利だなあと言う方へ気持ちはすっかり傾いて、どの本から読もうかとシェーンコップの抱えた本へちらちら視線を投げていた。
ヤンの行方を探していたのはシェーンコップだけではなく、戻ってみるとアッテンボローがドアの前で待ち構えていて、
「どこ行ってたんですか先輩。急ぎなんです、サイン下さい。」
と、書類を差し出して来る。
ヤンは執務室へ入りもせず、その場で受け取った書類にざっと目を通し、こんな時だけはすっかり落ち着いた目の色で、おかしなところはないかと厳しい目つきになる。
アッテンボローがいかにも今すぐ立ち去りたそうに、貧乏揺すりでかかとでかすかに床を蹴っているのに目もくれず、ヤンは最後のページまできっちり読み通した。
ページを元に戻して、アッテンボローへ手を出し出すと、
「え、オレ、ペンは持ってませんよ。」
アッテンボローが胸のポケットの辺りを両手で叩いて見せると、ヤンとシェーンコップは揃って同じ仕草で小さく頭を振り、その素振りがそっくりだったのにアッテンボローが思わず目を丸くしたけれど、ふたりはその意味を読み取ろうともしない。
シェーンコップは抱えていた本の位置を少しずらして、ヤンの方へ胸を張るようにし、ヤンはそれを当然と言う風に、シェーンコップの上着の胸ポケットを探って万年筆を取り出すと、くるりとシェーンコップの背へ回って、その背を台にして、書類にサインをした。台が垂直ではインクが出にくいだろうと、ちゃんと前かがみになるシェーンコップだった。
やや乱れた署名の入った、ちょっとしわの寄った書類を受け取って、アッテンボローがちょっとふたりへ複雑な色合いの視線を投げ、それでも黙ってそこから去ってゆく。
それをまたふたりは揃って見送り、まだ執務室へは入らずに、ヤンはぼんやり手の中のシェーンコップの万年筆を見下ろしていた。
さっきの自分の不機嫌を恥じる気持ちがわずかにあって、ただ本の運び役をさせたことを謝るべきかどうか迷いながら、ヤンはそれをどう言おうかと言葉を探している。
その間、別にヤンを急かすでもなく重い本を抱えたまま、自分のペンを携帯することもせず、一緒にいるシェーンコップが必要なものは全部持っているに決まっていると言うヤンの態度を、シェーンコップはやや呆れながらも今は小言にはせず、さっきヤンに使った声が、ローゼンリッターの隊員たちに使う時と同じ声音だったのを、少しだけ反省していた。
ヤンはまだ手の中の万年筆を眺めて、シェーンコップの方は見ずに、ついにぼそりと口を開く。
「──万年筆のこと、詳しい?」
突然そんなことを訊かれて、シェーンコップはやや面食らいながら、特には、と素っ気なく応えていた。
ヤンは上目にシェーンコップを見て、また数秒黙り込んでから、
「時間がある時に、ちょっと付き合って欲しいんだけど・・・。」
何だ、また昼寝の見張りかと思って、
「いつですか。今からですか。」
いかにも面倒くさそうに訊くのは単なる振りだった。
「じゃなくて・・・万年筆を買いに行くのに、付き合って欲しいんだけど・・・。」
「万年筆を? ご自分用ですか。」
やっと自分のペンを持ち歩く気になったかと思ったのに、ヤンが首を振る。いかにも決まり悪げに下唇を噛んでから、また言い難そうに言葉を継いだ。
「キャゼルヌ先輩に・・・この間、ものすごく面倒な仕事を押し付けたから・・・お礼にと思って・・・。」
今度はシェーンコップが、ヤンのための本の山を抱えて、ひと呼吸分不機嫌になった。なるほど、いつもあれこれ世話を焼く自分にではなくて、別の男のためにかとつい思った。思ってから、いやこれは自分の任務のうちだと思い直して、キャゼルヌの気分を損ねないのは、自分にも益があると考えた。
「構いませんよ、いつですか。」
できるだけ軽く言うと、ヤンが視線を迷わせ、決められないと言う表情を浮かべる。
「私の休みは明々後日ですが。」
「じゃあそれで。」
「木曜日ですね。」
確認するように言うと、案の定ヤンは黒い瞳を上へ押し上げて、
「木曜日?」
「木曜日です。」
今日が何曜日かも思い当たらないようだった。やれやれとシェーンコップは苦笑を噛み殺す。
「何時?」
「午後の方がいいですか。」
「・・・3時なら、仕事を抜けられるかな。」
「ではそれで。木曜の、午後3時に。場所はまた後で。」
これ以上、要塞司令官を仕事を放って通路に立たせておくわけには行かず、シェーンコップはそれだけ決めると、もう立ち去るために本をヤンの方へ差し出した。
ヤンはそれを見て、慌てて万年筆をシェーンコップの胸ポケットへ戻す──その手元を、シェーンコップが微笑ましげに見下ろしていた──と、どさりと本を自分の方へ取り返し、また軽く唇を突き出した表情で、
「・・・ありがとう。」
伏せ目に、小声で言う。本を運んでくれたことにも、買い物に付き合ってくれることにも、両方にだった。
いいえ、とシェーンコップは短く返して、くるりと背を向けた。確かめるように胸のポケットを押さえた動きはヤンには見えず、再び抱えた本の重さに今さら驚いて、ヤンはよろけながら執務室へ入る。
木曜日の午後3時、とぶつぶつ言いながら机へ進み、やっとそこへ本を置いて、しびれた腕を振りながら、どの本から読もうかと本の山を撫で掛けて、その向こうに大きな紙コップを見つけた。
シェーンコップが置いて行ったに違いない、紅茶だった。
ヤンのために持って来て、冷めないうちにと自分を探していたのかと、ヤンはあちこち跳ねた髪の中へ指を差し込み、あーあーあーと言いながらかき混ぜる。
あの男は、どうしていつも、と思って、ヤンは本の山越しに、体と腕を一緒に伸ばして、紅茶の紙コップを取り上げる。まだ十分にあたたかかい。
木曜日の午後3時、と、紅茶へ口をつけながら、確認するように思った。