魔女の約束 2
どこかで待ち合わせとなると、ヤンが遅刻して来るのは目に見えていたので、一度官舎に戻ると言うヤンを、シェーンコップは迎えに出向いた。木曜日、きっちり3時にドアベルを鳴らし、シェーンコップの声も聞かずに、勝手に入ってと中から声がやって来る。
せめて誰が来たか先に確かめてくれと思いながら、中へ入って、すぐそこでヤンがスニーカーを引っ掛けているのへ向き合って、靴紐を結ぶのを手伝った方がいいかと、片足で一生懸命かかとを靴の中へ収めようとしているヤンを見て、シェーンコップはすでに頭痛を覚え始めていた。
ごく普通のジーンズ。まあいい。暗いグレーのカーディガン。野暮ったいのは仕方がない。その下の白いシャツ。合わせからすると男物で、サイズは少なくともふたつ大きい。首が余り、肩がもたついているのが上着の上からでも分かる。袖も同じだ。胸回りがそれでもやや危ういのを素早く見て取って、カーディガンの前を閉めろと言うべきかと、シェーンコップは迷った。
単なる部下と上官、いくら普段が気安いとは言え私服にまで口出しするのはやり過ぎだと、口をつぐむ。キャゼルヌやアッテンボローなら、容赦なくひと言言うのだろうとは思いながら。
シェーンコップの方は、特に気にしたわけでもなく、適当にあるものを引っ掛けて来たと言う風に、チノパンに黒のゴルフシャツ、上着も黒、今日は至って地味だった。
並ぶと、軍服の時以上に関係の分からない組み合わせだろうなと、先に玄関を出るヤンの背を、シェーンコップは習慣のようにかばった。
どの店と、ヤンは見当さえつかないと言うから、大きな文房具店の入ったデパートへ、自動運転のランド・カーで向かう。
互いに、それぞれのドアの近くへ腰を落ち着けて、それぞれの窓の外を眺めながら、間にはきっちりひとり分をスペースを隔てていた。
「そのシャツは、ご自分のですか。」
組んだ足の方向へ体をやや向き気味に、ヤンの方を見ずにシェーンコップは訊いた。サイズが合っていないようだがと暗に指摘して、ついでに、もしかすると以前親しかった誰かの持ち物かと、訊きたい気持ちもあった。
ヤンは襟元を指先で引っ掛けるようにして自分の胸元を見下ろし、
「これ? 父さんの。」
ヤンの答えに、シェーンコップは思わず顔をそちらへ振り向けた。
「提督の、お父上の?」
「そう、死んだ時に荷物を整理して、着れそうなのはそのまま取っておいたから。」
と言うことは、とヤンの経歴を思い出して、それが少なくとも15、6年程度前の服で、それを今も着ているのを、父親思いと受け取ることもできたけれど、ヤンに限ってそれはない、とシェーンコップは内心で首を振る。
着れれば何でもいいと、無頓着にも程がある。大きな胸ポケットが、女性の胸回りではどうしても不格好になると言うのも、一向に構わないのか、気づいてすらいないのか。
親なし子同然、祖父母に育てられた自分も大概だけれど、母親を早くに亡くし、父親にもあまり構われていた風もないヤンの、これはやはり育ちの問題なのか。自分が過去に付き合った女たちの顔をあれこれ思い浮かべて、ヤンと女同士の話し合いでもさせるために呼び出してみようかと、シェーンコップは馬鹿馬鹿しいことも考える。
とは言え、軍隊と言う場所で、分かりやすく女と言うものを出せば即餌食になるのは目に見えている。ヤンのこの振る舞いは、それに対する無意識の防御と受け取ることもできて、少なくともヤンは、身なりに構わない、男か女か分からない、緊張感のまったくない態度で、周囲を煙に巻いていることは間違いなかった。
キャゼルヌが、ふにゃふにゃしたと称したこの見掛けで、中将になり、艦隊司令官になり、敵味方なく魔女と恐れられて、何万人を一瞬で殺すのに躊躇がないとは誰も信じないだろう。できるだけ被害を少なくしたい、常にそう思って行動しながら、必要とあれば味方を見捨てることも厭わない。そのたび受けるはずの精神的な傷と、一体どう向き合っているのだろうかと、シェーンコップはまた窓の方へ顔を向けながら考えた。
女の方が、案外神経はず太いのかもと、思ったところで車が止まり、扉がゆっくりと開く。繁華街が珍しいように、ヤンがきょろきょろと車を降りた。
平日の午後、それほどの混雑でもなく、ヤンはよそ見もせずに真っ直ぐ万年筆を目指し、ガラスケースに並べられた色も形も美しい文房具へは目を輝かせて、こういう場で店の人間が話し掛けるのは主に連れの男の方──体が大きいか、見映えが良い方──と相場は決まっていて、まるでシェーンコップの買い物のように、冴えないヤンは無視される。
シェーンコップは陳列棚の向こうは滅多に見ず、ヤンの方ばかり見ていた。ことさらいつもの口調を崩さず、ヤンに向かって敬語を使うのに、やっと店の人間がふたりの間柄を悟ったか、ヤンへ丁寧に話し掛け始め、ヤンの方はこういう扱いが常と言う風に、それが別に気に障っているわけでもなさそうだった。
数本取り出された万年筆を1本1本手に取り、けれど持ち具合はシェーンコップに確かめさせて、
「わたしの手に合わせると、先輩にはきっと細過ぎるから。」
なるほど、それで一緒に来いと言ったわけかと、シェーンコップは試しに自分の名を殴り書きしながら、その続きにこっそりヤンの名前を書き掛けて、やめた。
どれがどう違うと分かるほど、シェーンコップもこの手の品に詳しいわけでもなく、指先の馴染み具合で数本選び、その中から、キャゼルヌが好みそうなのをヤンが選ぶ。替えに、ブルーのインクをつけてもらった。
あっさりと目的の買い物は終わり、今は何時かとふたりで同時に時間を確かめる。ふとヤンがシェーンコップの腕時計へ目を止め、それ、と小声で指差す。
「・・・あの、もしまだ時間があるなら、時計も見たいんだけど・・・。」
「今度は誰用ですか。」
シェーンコップにそう問われて、なぜかヤンは顔を赤くし、ひどく照れた風に、
「・・・自分の・・・。」
と、さらに小さい声で答えた。
カーディガンの袖からはみ出した、長過ぎるシャツの袖を、わざわざデザインをぶち壊すようにたくし上げているヤンの腕時計は、ヤンの細い手首が折れるかと思うような大きさで、ひどく傷んだ革のベルトも明らかに太過ぎ、端が余り過ぎている。自分で買った物なら趣味が悪過ぎるし、誰かからもらった物なら相手のセンスを疑う代物だった。
他人の持ち物にいちいち口出すする趣味はないシェーンコップでも、父親の物だったと言うシャツ同様、ちょっとそれはどうかと言いたくなる。
そうして、ふと思いついて、
「それももしかして、お父上のですか。」
まさか形見のつもりかと思いながら訊くと、そう、とヤンがあっさりうなずく。
「手巻きだから、どうしても時間が狂って──。」
普段の遅刻癖をそれのせいにしたいように、ヤンがぼそぼそ言う。
「分かりました、行きましょう。」
それ以上ヤンには何も言わせず、シェーンコップはヤンの肩へ腕を回した。
「貴女が欲しければ貴女が好きに買えばいいんです。貴女が何を身に着けようと、文句を言う奴はいないでしょう。」
たかが腕時計ひとつ、欲しいと思って買うのに一体何の支障があるのかと、シェーンコップは思わず強い口調で言う。文句を言う奴、と言う部分で自分を棚上げしたことはこの際忘れることにした。ヤンはシェーンコップの左側でちょっと肩を縮めるようにして、
「・・・でも、選ぶような時間もないし、今あるので不便もないから別にいいかなって──。」
それで私服が亡くなった父親のお下がりかと、シェーンコップはヤンの自身への無関心ぶりにちょっと腹を立てて、いっそ腕時計だけと言わず、服もひと揃い今すぐ買ってしまえと、腹の中で毒づいた。
「あなたの腕時計、いつもいいなって思ってたから、もし一緒に選んでくれたらって──」
乗り込んだエレベーターの中で、他に誰もいないと言うのに、シェーンコップはヤンと体のくっつくほど近くへ立ったまま、ヤンが珍しく見せる照れくさそうな表情を見下ろしていることができずに、天井近くのカメラの位置を確かめる振りで、視線をそちらにそらした。
私物に対して自分の好みがどうのと言うことそれ自体を恥ずかしがっているように、本と歴史と紅茶以外の物に関心がある素振りのヤンは、奇妙に可愛らしかった。
ヤンが自分の腕時計を見ていることに気づいていなかったシェーンコップは、何ならひとつ差し上げましょうかと、言いたい気持ちを抑えて、他の女相手なら、揃いにするかと叩ける軽口も今は出て来ない。自分の固い横顔を意識して、ヤンに向かって、もっと優しい顔をしてもいいだろうと思った。
時計の売り場で、ヤンはちょっと気後れしたように足を止めた。
陳列棚には腕時計だけではなく、色とりどりの宝石のたっぷり使われた指輪やネックレスも並んでいて、ここにふたり連れで入るのは、明らかに何らかの目的があってと思われそうだった。
カウンターの中の、売り物に合わせて華やかな服装の女性店員が素早くシェーンコップへ視線を止め、服装の地味さなど問題にしないその造作を、客に対する以上の関心で見つめて来る。それから、隣りにいるヤンを見て、この組み合わせの異様さへ咄嗟に抱いた違和感を、仕事用の笑顔できちんと隠したのはさすがだった。
シェーンコップは、売り場の派手な明るさに戸惑ったようについ肩を丸めるヤンの背筋へ掌を添え、宝石の類いには目もくれず、ヤンのために腕時計を探した。
明らかにこの手の買い物に慣れてはいず、けれど自分の好きなものの好みははっきりしているヤンは、選ぶのを手伝えと言う割りに案外ぐずぐずせずに、シェーンコップに示されて、並んだ腕時計からこれと指差すのに時間は掛けない。ヤンの迷いのなさに、シェーンコップの方が驚いた。
装飾品としてのそれではなく、きちんと時間を見るための、まずは機能が先となれば、華美なものやデザイン優先のものは即除外、いわゆる女物の時計で女性店員が見せるどれにもヤンは首を振り、ごくごく普通の、地味な時計をひとつ選ぶのに15分と掛からなかった。
女連れの買い物は1日掛かりと思っていたのに、まだ店へ入ってから2時間も経っていないのが信じられずに、これではついでに夕食をと言うことにはならないなと、シェーンコップはこっそり頭を掻いた。
父親のだと言う手巻き時計を外し、買ったばかりの時計を着けて、ヤンは腕を伸ばし揃えた指先を反らすようにして、ちょっと嬉しそうに微笑む。
ヤンの華奢な手首に、針や数字のくっきりと見える真新しい文字盤は大き過ぎず小さ過ぎず、革の黒が少し重いようにシェーンコップには見えるけれど、ヤンはそれでいいと、ガラスのカウンターの上に手を置き、見せびらかすようにシェーンコップを振り仰いだ。
シェーンコップは思わず、ヤンの手の隣りへ自分の手を置き、大きさを比べるように、小指と小指を揃える。そうして並べると、ヤンの小指はまるで小枝のようで、シェーンコップがつまみ上げただけで折れそうに見えた。
向こう側の親指が、やっとシェーンコップの小指くらいだ。重ねれば、体と同じにすっかりシェーンコップの掌の中に隠れてしまう、ヤンの小さな薄い手だった。
小さいですな、ともう何度か言った同じことを改めてまた言うと、ヤンは新しい腕時計ですっかり上機嫌のせいか、気を悪くもせず、ふん、と言っただけだった。
時計の向こう側に並んだ指輪へ、シェーンコップは立ち去る前にちらりと視線を流し、ヤンもつられたように同じところを見たけれど、特に興味が湧いた風でもないのを、シェーンコップは残念に思った。
ヤンはこれからどうするとも言わず、当然のように店の外に出て、数歩先に足取り軽く進んでから、不意につんのめったように前に転び掛けた。
シェーンコップは慌てて腕を伸ばして、何もないところでも転ぶのが特技の上官を抱き止め、倒れないように支えてやる。
新しい腕時計くらいでそんなに浮かれるなと、ヤンの体を真っ直ぐにしてから、
「気をつけて下さい。」
とちょっとたしなめるように言って、まだ腕は離さない。
見ると、スニーカーの靴紐がほどけている。これの端を踏んだせいかと思って、シェーンコップはヤンの足元へ膝を折った。
私服の時にシェーンコップにそんな風にされるのは、軍服の時とは勝手が違ってか、ヤンが慌てて足を引こうとする。
「自分で、やるから──」
「それでまた転ぶんですか。いいからじっとしてて下さい。」
くたりと路面に落ちた靴紐を取り上げ、シェーンコップは丁寧にそれを結んだ。もう一方も、結び目が縦になっているのを見て、ついでだとそれもほどいて結び直す。
ちらほら通り過ぎる人たちが、ふたりを避(よ)けてゆく。人並みの中でそこだけ時間が止まったように、シェーンコップはわずかの間、動かずにそのままでいた。
ヤンへ向かって片膝を折った姿勢は、ただの偶然だったけれど、そこからヤンを見上げて、履き古しのスニーカーをまた見下ろして、自分の半分しかなさそうなヤンの小さな足へ、思わず掌をかぶせた。
「シェーンコップ?」
ヤンが訝しげに声を掛けて来る。
2時間ばかり、軍人ではなく、私人として一緒にいたせいかもしれない。ヤンが自分で身に着ける腕時計を、一緒に肩を並べて選んだせいかもしれない。並べた、大きさの違う手の向こうに、指輪が並んでいたせいかもしれない。
自分たちは今、任務ではなく一緒にいるのだと思って、シェーンコップはゆっくりとヤンへ向かって上向いた。ヤンがシェーンコップを見下ろしている。いつもとは逆だ。
「提督──。」
声が震えているのが、自分でも可笑しかった。
新しい腕時計を着けた方のヤンの、小さな手を取り、逃さないように握る。ヤンの黒い目が大きく見開かれ、部下の、いつもと違う振る舞いに明らかに戸惑っている。
困惑しているのは、シェーンコップも同じだった。
ヤンの目を真っ直ぐに見て、瞬きを止めた。ヤンも自分を見ているのを確かめて、シェーンコップは、自分たちが今こうして見つめ合っているのを、ひどく重要なことだと感じていた。
今口を開いたら、俺はとんでもないことを言い出すなと、思った。思いながら、唇がもう動いていた。提督、と呼び掛けた後は止まらなかった。そうして、シェーンコップはついに言った。
「結婚しませんか──。」
一体どこから出て来たのか、あまりの唐突さに、言った当人がいちばん驚いて、ほんとうに、時間が止まったように思えた。
「結婚て、誰が?」
ヤンが眉を寄せて訊く。
「貴女です。」
シェーンコップはためらいもせず答えた。
「わたしと、誰が?」
「私です。」
やっとヤンの目が大きく見開かれ、信じられないものを見たとでも言いたげに、まじまじとシェーンコップを見つめて、黒い瞳を動かしもしない。
「・・・ポプランと、何か賭けでもしてるの。わたしがどんな反応をするとかそういう──」
シェーンコップはいかにも心外なと言う表情を浮かべて、慌ててそこから立ち上がった。ヤンの手は取ったまま、動いてもヤンが逃げないのを見て、その手を両手で包み込んだ。
「そこまで貴女に信用がないとは思いませんでした。私を信頼すると、最初におっしゃったのはそちらでしょう。」
「信用も何も、どうして突然あなたとわたしが結婚する話になるの。それとも帝国では、時計を買ったら結婚したいって言うこととか、そんな話でもあるの。だったら誤解だからごめん。」
本気でそう思っているようにヤンが言う。シェーンコップも、数分前に戻って、自分が言ったことを確かめたくなった。言った言葉は取り戻せないし、取り戻す気もさらさらないのだけれど。
「話をしましょう。提督、我々はちゃんと話をする必要がある。」
有無を言わせずヤンの手を取ったまま、シェーンコップは通り掛かったランド・カーを止め、強引さはいつものことにせよ、常にないシェーンコップの力の強さに、ヤンは引きずられるように車の中に放り込まれた。
「いちばん近い、ドライブスルーのあるコーヒーショップに行ってくれ。」
坐った途端そう運転席に向かって声を投げ、車が走り出すと、シェーンコップは腕の長さ分は距離を保って、ヤンの方へ向き直る。
「結婚と言ったのは、そうすれば貴女にも私にも都合がいいからです。」
いつもの、任務の話をする時の声と表情を取り戻して、至って事務的にヤンにそう告げる。ヤンは明らかに鼻白んだ顔つきで、さっきまでの上機嫌はきれいに消え失せていた。
「都合がいいって・・・あなたの言う結婚って、そういうものなの。」
「私の両親は家同士の約束で結婚しました。実際に夫婦になるまで、私の母は父の名の綴りもろくに知らなかったそうです。世の中の夫婦がすべて、愛だの恋だので結ばれるわけじゃありません。」
ふたりは、見つめ合うと言うよりは睨み合って、結婚と言う言葉に不似合いに、車の中は殺伐とした空気に満たされていた。
「あなたのご両親のいきさつは知らないけど・・・わたしたちが結婚すれば都合がいいって、どういうこと。」
ヤンが、部下たちに自分の言うことを伝える時の、低めた音を出す。この声は、常に底光りのする黒々とした瞳とともに使われ、そうすると、すっと周囲の温度が2度低まったように感じられる。まるで作戦会議の最中のように、シェーンコップは思わず背筋を伸ばして、唇の端を知らず引き締めた。
触れれば切れそうなふたりの間の空気をぶち壊すように、ランド・カーが、指示通りコーヒーショップのドライブスルーにゆっくりと入り、そこへ据えられたスピーカーから、注文をどうぞと能天気な合成音声が聞こえて来る。
シェーンコップは救われたように、そのスピーカーへ向かって、ヤンのための紅茶と、自分のためにコーヒーを注文した。
「紅茶は湯を熱くしてくれ。」
いつもヤンのためにはそう言うように、つい習慣でそう付け加えて、それでふっとヤンの表情が少しだけやわらいだのに、シェーンコップは内心でほっと息をこぼした。
ヤンに紅茶を差し出し、ヤンが嫌がらずにそれに口をつけたのを見てから、シェーンコップは再びランド・カーへ指示を出した。
「適当に2時間ほど、車の少ないところを走ってくれ。」
ヤンはかすかに唇を尖らせたけれど、シェーンコップに反論はせず、確かに邪魔なしに話をするなら車の中が最適であることには同意して、車が再び走り出すのを止めずに、黙ってまたひと口紅茶を飲む。
車の速度が落ち着くと、紅茶を膝の上に置いて、
「それで──都合がいいって言うのを、説明してくれないかな。わたしにも分かるように。」
ヤンの声音は完全に勤務中のそれだった。
シェーンコップはちらりと床へ視線を流し、さっき自分が結んだヤンのスニーカーの靴紐の、蝶結びの輪の大きさの揃い方に、几帳面と言えば聞こえはいいけれど、自分は結局ただの小心者ではないかと、いやな方へ気持ちが傾くのを止められない。
もったいぶった言い方や、芝居がかった言い回しで、相手を煙に巻いたり適当に言いくるめたりするのは十八番のはずなのに、ヤンへ向かうと小さな本音を止められずに、今もコーヒーを持つ手がわずかに震えているのが分かる。
それを車の振動のせいと、ヤンが見誤ってくれるといいがと思いながら、シェーンコップは、やっと考えをまとめまとめ口を開いた。
「貴女が毎日家に帰った後で、ひとりでいる間に、寝ている間に何かあったらと心配するのが面倒なんです。貴女だって、いつもいつも高いところに手が届かなくて、いちいち誰かいないかと回りを見回すのが面倒でしょう。」
俺は何を言ってるんだと、シェーンコップは思った。ヤンも恐らく同じことを思ったろう。
女はいつも、シェーンコップに近寄って来て、シェーンコップを口説くのが常だった。女の口説き方なら、ポプランの方が何倍も慣れている。互いのやり方にけちをつけるだけではなくて、少しはあいつのやり方に耳を傾けておくんだったと、シェーンコップは思った。思いながらまた、俺は何を言ってるんだと思った。
「でも・・・高いところは、踏み台とか脚立とかあるし──」
ぼそぼそ歯切れの悪いヤンの声が、私人のそれに戻っている。
「貴女じゃあ、上がって、足を踏み外して落ちるのが落ちですよ閣下。」
洒落を言ったわけではなかったのに、ヤンが真顔の一瞬後に、こらえ切れないと言う風に吹き出して、慌てたように膝の上の紅茶のカップを両手で支える。
「ちょっと待って、わたしのドジが心配だから結婚するの? 結婚て、もう少しこう、互いに思いやって一緒に生きて行こうとかそういう──」
「貴女を、放っておくのが心配なんです。貴女が言う思いやりとは違うかもしれませんが、私はいつだって貴女のことを大事にして来たつもりですがね。」
シェーンコップがちょっと苦しげに、ひどく真剣に言ったのに、ヤンは突然頬でも張られたような表情を浮かべて、それからふっと視線が遠くなったのは、シェーンコップが自分をどう扱って来たか、それをひとつびとつ思い出していたせいだった。
今手の中にある紅茶の確かな熱さも、シェーンコップの言う、ヤンに対する思いやりのひとつに違いなかった。
車は繁華街を離れて、いつの間にか人通りのない住宅地をゆっくりと走っている。シェーンコップの向こう側に、よく手入れされた芝生の庭たちを眺めて、ヤンは子どもの頃に常に見ていた宇宙の闇のことを思った。
上官と部下として、シェーンコップの言う思いやりのある態度は、あくまで任務の一部だと思って、それでも、気に食わない人間をああも丁寧に扱うことはしないだろうと、自分に引きつけて考えれば、そこには確かに、人としての好意があったことは間違いがない。男と女の間のそれとは思わなくても、シェーンコップが自分を大切に思ってくれている──上官として──ことは否定できなかった。
そうしてヤンは、自分自身も、そのシェーンコップの、自分と言う人間──女ではなく──に対する好意に甘え切っていたのだと改めて自覚して、この男は、自分が死ねと命令すれば即座に自分の首にナイフの刃を走らせるだろうと思った。
そんなことはさせたくないし、して欲しくもない。この男には死んで欲しくない、自分を死なせないために行動しているこの男を、絶対に死なせたくないのだと言う自分の本音に、ヤンは初めて気づいている。
ヤンは愕然となった。
「提督、貴女にとっては急かもしれませんが、私には──」
わずかに自分の方へ膝を進めて来たシェーンコップが、指に怪我をした自分の肩に乗せた、大きな上着の重さを思い出しながら、ヤンはシェーンコップのその先を柔らかく遮った。
「あのね、シェーンコップ──」
何を言うつもりが自分でも分からず、とりあえず開いた口が動くまま、ヤンはとりとめもなく話し始める。声はあくまでのどかに、けれど言葉にしながらヤンは、自分の胸の底が止められずに震えているのを感じていた。
「わたし、新品のシャツが嫌いなの。」
シェーンコップに負けない唐突さで、ヤンが言う。今度はヤンが、自分は何を言っているんだろうと思う番だった。そう思いながら、止めずに続けた。
「新しいシャツは肌触りが固いし、自分で選んで買うのも、どれを買っていいのか分からないし、見ても欲しいとも思えないし、普段はどうせ軍服だし、父さんのシャツもあるし、別に服なんていらないの。ほんとに。服を買うなら本の方が先なの。分かるでしょ。」
話の繋がりが分からずに、シェーンコップは呆気に取られながら、それでもはあ、とヤンの話に相槌を打つ。
ヤンは、珍しく考え考え、しどろもどろな話し方をしている。自分でも、言葉の先がどこへ続くか分からず、言葉にしながら、初めて自分の思うことに気づいている。誰にも告げたことのなかった、自分自身すら自覚のなかった本音が、あちこちに寄り道して角にぶつかりながら、ヤンの舌の上を不様に滑ってゆく。
「女物のシャツは窮屈だし、デザインが好きじゃないし、それなら父さんのシャツの方がいいし、ずっとそれで別に不便もなくて──」
シェーンコップは手元に目を伏せて話し続けるヤンの、形の崩れ掛けた着古しのシャツの胸元へ目を走らせて、理解はできるがそれはどうかと思いはした。けれど黙って続く先を聞いた。
「でも、さすがに父さんのシャツも古くなってて、でも新しい服はいやで、それで、どうしたらいいかなって思って・・・思って・・・」
「どうしたらいいと、思ったんですか。」
言い淀んだヤンの、言葉の先を誘うように、シェーンコップは静かに訊く。
ヤンは膝にあった手を持ち上げ、恐る恐る、生まれたての獣の仔にでも触れるように、シェーンコップのシャツの胸元へ掌を当てた。自分からこんな風にシェーンコップに触れたのは、思い出す限り初めてだった。
その手が、偶然、買ったばかりの腕時計をつけた方であることが、今はひどく意味深いことのように思えて、シェーンコップはヤンのその手をじっと見下ろしてから、ヤンを驚かせないように、そっと自分の掌を重ねた。
「・・・あなたのシャツなら、いいかなって、思ったの・・・。」
重なった手へ視線を当てて、消えそうな声でヤンが言う。
路上でそうしたように、シェーンコップは重ねた掌をそのまま、ヤンの手を握る。力の加減ですぐに折れそうで、シェーンコップはこわごわヤンの手に触れていた。
「私のシャツでいいなら、どれでもお好きにどうぞ、提督。何なら、腕時計も使いますか。」
照れ隠しのように唇を突き出して、ヤンがかすかにうなずいた。
「結婚したら、私のものは全部貴女のものですよ、閣下。」
「全部?」
「全部です。」
ヤンの視線がちらりとシェーンコップの腕時計へ流れ、悪くない、と思ったのがはっきり頬の辺りへ浮かんだ。
「私を、貴女の、一生の部下にして下さいますか。たとえ退役しても、私の上官でいて下さいますか。」
「部下でいいの。」
「その方が、私をこき使うのに、貴女の心が痛まないでしょう。例えば、夜中の3時に蜘蛛を追い払うのに、私を叩き起こすとか──。」
蜘蛛と聞いた途端、ヤンの頬がこわばった。それからすぐに赤くなったのは、多分、悲鳴を上げてシェーンコップにしがみつき、晒した醜態を思い出したからだろう。
「変なの、わたしみたいな首から下は役立たずの部下でいたいなんて、面倒事を一生背負い込むだけなのに。」
弱みを突かれた反撃か、ヤンが精一杯憎まれ口を叩く。それを可愛らしいものでも見るように眺めて、シェーンコップは皮肉も毒もない笑みを浮かべた。
「面倒事はお互いさまですよ。家庭を築くのは艦隊の指揮と同じです。貴女は司令官卓にふんぞり返って、全力で智略をめぐらせて下さればよろしい。貴女ができないことは、できる部下にさせればいいんです。いつだって貴女はそうして来たでしょう、ヤン・ウェンリー司令官閣下。」
それから、声の響きを部下のそれではなく、ただの男のものに変えて、シェーンコップは握ったままのヤンの手を、自分の膝の上へ引き寄せた。
「イゼルローンが──ヤン艦隊が、ローゼンリッターの家になったように、貴女もどうか、私の家になって下さい。祖国のない私の、帰る場所になっていただきたい、それが私の望みです。」
言いながら、そうだったのかと思って、シェーンコップは目の前の女(ひと)を、これまでのどの時よりもいとおしげに見つめた。
シェーンコップに見つめられて、その視線を受け止めて、ヤンが浅くうなずくのに、
「そのためなら、シャツや腕時計なぞ、安いものですな。」
つい、いつもの調子もちらりと顔を覗かせる。
ヤンはむっとした振りで、シェーンコップの膝から自分の手を抜き取り、ぐるりと車の天井を見渡して、
「どうせ全部冗談で、この中にカメラでも仕掛けてあって、明日みんなで見て笑うんでしょ。分かってるんだから。」
逃げたヤンの手を追いかけて、シェーンコップはまたそれを自分の方へ、うやうやしい仕草で引き寄せて、どんな人間も絶句せずにはいられない、とっておきの笑みを浮かべて見せた。
「そんなに信じていただけないなら、これからすぐ届けを出しに行きますか。もっとも今日は、もう役所は閉まってしまいましたが。」
ちらりと腕時計を見て、シェーンコップが残念そうに言う。それを振りだと思ったヤンは、煽るように言った。
「だったら、明日の朝いちばんで役所に行けば? どうせ会議はない日だし、少しくらいの遅刻だったら──」
「そうしましょう。明日の朝、お迎えに上がります。」
暗闇で突然妙なものでも踏んづけたような声を、ヤンが上げた。
「何か、不都合でも?」
シェーンコップが生真面目に──今度こそ振りだ──、けれどヤンのための笑みは消さないまま訊く。
吐いた言葉は取り返せない。ヤンはしっぺ返しを食らって、言葉に詰まる。
シェーンコップはひとり楽しそうに、ここが車の中でなければ、取ったままのヤンの手を引いて優雅に踊り出しそうに見えた。
「・・・ほんとに、本気なんだ。」
ヤンは呆れたように言って、観念したように取られた手をもう取り返そうともせず、自分はあくまで冷静だと見せつけるように、わざわざぬるくなった紅茶を片手でゆっくりと飲む。
「私はずっと本気でしたよ、多分、貴女が私を信じると、そう言って下さった最初から──。」
紙コップの離れた、紅茶に濡れたヤンの唇へ、シェーンコップのそれが近づいた。
ヤンは鼻先に立ったコーヒーの匂いへ、生まれて初めて顔をしかめずにいた。
唇が離れても、触れ合った前髪は離さずに、シェーンコップはヤンの額に自分の額を重ねたままでいる。
伏せられた灰褐色の瞳を縁取る、髪と同じ色のまつ毛の濃さに驚いて、ヤンはそこでやっと、かすかに全身を震わせながら目を閉じた。
シェーンコップが、ヤンの手を改めて握り、
「小さいですな・・・。」
いつもならそこにあるからかいの響きはなく、シェーンコップはただいとしさだけをこめてヤンの小さな手に触れ、見なければ親指とも信じられないその骨細さを、いつまでもいつまでもなぞっている。
ふたりを乗せたランド・カーは、ゆっくりと街中へ戻り始めていた。