魔女の約束 3
ランド・カーの中で、シェーンコップは取ったヤンの手を結局離さないまま、つい調子に乗ってこれからシャツを見に来るかと訊くと、ヤンがあっさりうなずいたので、車はするりと向きを変え、夜になり掛けの路上をまた滑らかに進み始めた。最初の最初から、深く考えた提案ではなかったのに、いつの間にかこんなことになって、今も自分のクローゼットの中を検分して、無邪気に気に入ったシャツを探しているヤンの背後で、シェーンコップはヤンを驚かさないようにそっと腰の辺りへ腕を巻いて、今まで何度か他意なく抱きしめた形とは違う姿勢に、やっと懐いた生きものにでもそうするように、ヤンの髪にあごをこすりつける。
シャツ探しを妨害されて、ヤンはまだ伸ばした腕を引き寄せないまま、それでももうシェーンコップの腕から逃れようとはせずに、じきにそこで体を反転させ、シェーンコップへ自分から腕を回して来た。
ヤンは、素肌のシェーンコップの腕が珍しくて、肘の辺りへ置いた掌を上へ滑らせて、半袖の内側へ指先を滑り込ませる。筋肉の盛り上がる二の腕は、袖にほとんど余裕はなく、その硬さに改めて驚きながら、自分を痛めつけるためには絶対に動かないこの腕の、見えない優しさへ向かって、うつむいて頬を染めた。
シェーンコップは、ざらりとしたシャツの上からヤンの背中を撫で、最初から外に出たままのその裾から、手を忍び込ませたいタイミングを計っている。
嵩張る軍服の上着のない互いの体は、いつもよりずっと隔てが少なくて、ヤンはともかくも、シェーンコップはたまに見るシャツ姿のヤンから想像していたその下の線へ、今は直に触れてみたくて仕方なかった。
ランド・カーの中で交わした、触れるだけのキスをもう一度仕掛けて、先を急ぐつもりはなかったのに、ヤンが唇を開いて応えて来ると後は止められずに、気がつくと半開きのクローゼットの扉にヤンを押し付けるようにして、ほとんど中へ倒れ込みそうになっている。
ヤンがシャツの背を引っ張って、一旦停止の合図をして来たのにも、シェーンコップはしばらく気づかなかった。
待って、とヤンが唇をずらして必死に言うのに、シェーンコップはやっとヤンから少し体を離し、腕の力をゆるめた。
ヤンはそっぽを向き、赤くなった顔を隠すように手の甲で口元を覆い、
「少し、手加減して・・・。」
こもった声で、いつもの毒をやや含めてつぶやく。すいません、と思わず言って、シェーンコップはようやくヤンから腕を外した。
シェーンコップはヤンの手を取り、また少年めいた仕草でヤンの額へ自分の額を重ね、けれどそれ以上は何もせずにいると、黙ってそうしているのに耐えられなくなったように、ヤンがシェーンコップの腕へ触れて来て、ひどく不器用に唇を重ねて来る。
男っ気のなさをキャゼルヌが嘆いていたそのまま、子どものようなキスを、本人は仕掛けているつもりなのかどうか、シェーンコップは却ってそれに煽られて、つい強引にヤンの腰を抱き寄せた。
荷物のようにヤンを抱え上げて、さすがに投げはせずにベッドに下ろし、のし掛かりながらシャツを首から抜くと、胸の辺りを横目に見たヤンが、頬を染めるより先に眉を寄せる。シェーンコップは、何か、と体の動きを止めて、そこからヤンを見下ろした。 「傷・・・。」
小さな声で言って、小さな指先が肩や胸に走る傷跡をなぞる。ヤンの指の幅よりも大きなそれへ、明らかに痛々しそうにもう一度眉を寄せて、ヤンは慰めるようにシェーンコップをそこから抱きしめに来た。
シェーンコップはヤンの鎖骨の辺りへ額と頬をこすりつけて、そうしながらシャツの裾から両手を差し入れ、背中に触れた。この間、外れてしまったとヤンが困っていた下着のホックを、今日はそっと外して、シャツの下で泳ぐそれを肌から手を滑らせて浮かせながら、前へ移した両手の中へ、解放されて自由に呼吸を始めた乳房を包み込む。掌からあふれそうになる弾力へすべての指を押し付けた後で、指の間に、まだ眠ったままの小さな突起を挟むようにすると、ヤンの肩がびくりと震えた。
目の前に膝立ちになったヤンの、シャツのボタンをシェーンコップが下から外し始めると、手を貸すようにヤンは上からボタンを外し、みぞおち辺りで出会って、指先が触れ合い、シェーンコップはヤンの指を取ると、うやうやしい所作で口づける。特別な色も匂いもない、何もしてない小さな爪の指先へ、シェーンコップは恭順を示す仕草をした。
下着ごとシャツを肩から剥ぎ取り、剥き出しになると白さの目立つヤンの上体へ、シェーンコップは再び額をこすりつけて、それからそっと自分の下へ敷き込んだ。
軍服の上から見ていた時よりも、実際にこうして素肌のまま抱くと、いっそう嵩が減る。小さな体はシェーンコップの腕の中で泳ぐようで、自分の重みで押し潰さないために気を使った。
首や肩は薄いくせに、二の腕と胸の辺りの肉付きがアンバランスで、こんな風に見下ろすと、少女と女が同居しているような眺めに、シェーンコップは一瞬怯んで、少なくとも見た目ほどこの女(ひと)は子どもではないのだと、自分に言い聞かせなければならなかった。
掌が、ヤンの素肌を滑る。シーツの光沢に負けないその照りが、まったく手触り通りで、手指を押し付けると、どこまでが自分の手か分からなくなるすべらかさに驚きながら、シェーンコップはヤンを抱きしめた。
ヤンは、お返しにと、シェーンコップに触れようとして、背中へ回す腕の長さが足りず、自分の掌に余る肩甲骨の大きさと盛り上がりにこっそり驚いて、腕を巻けばいっそう増す男の体の嵩に、手足を縮めたいような心地になりながら、こすり合わせる首筋から立つかすかなコロンと汗の混じった匂いに、同時に安堵もしている。
隔てなく躯を寄せて、そうされるままジーンズも剥ぎ取られて、もう長い間誰にも見せたことのない素足へシェーンコップが掌を滑らせて来るのに、人間の掌はこんなに熱いものだったかと、ヤンは間遠な瞬きの間に考えた。
どこに触れても、筋肉の感触がヤンの指先を弾き返す。時折指先に傷跡を見つけて、ヤンはそのたび大きさを測るように中指を押し当てて、もうとっくに塞がっているひとつびとつが、知らない男の過去を思い知らせて来る。自分の体に残るのは、これに比べればせいぜい引っかき傷程度だと思いながら、その、傷跡のほとんどない自分の素肌へ男が唇を滑らせて来るのに、何度か喉を反らして耐えた。
見られることにも触れられることにも慣れていない膚が、シェーンコップの大きなぶ厚い掌に向かって、ゆっくりとほどけてゆく。
下着に手を掛けて、シェーンコップの下で、じたばた自分でそれを取り去りながら、こんなことになると分かっていたら、もう少し見映えのする可愛らしいのを選んで来たのにと、遅まきながら考えて、シェーンコップの目には触れないうち──すでに遅い──にと、ベッドの端から放る。
シェーンコップも、ヤンに合わせて裸になりながら、ヤンの視線を避けてヤンの上へまた躯をかぶせた。
脱いで脱がせた服がベッドの周囲に散らばり、その乱雑ぶりに合わせたように、ふたりの呼吸は最初からきっちりとは重ならず、手加減しろと言われた通りに、シェーンコップはヤンの様子を窺い窺い触れ、ヤンは、こんなことは慣れ切っているはずのシェーンコップが何もかも上手くやってくれると期待して、触れる肌と掌の熱さには互いに煽られながらも、進行具合はぎくしゃくと、なめらかには程遠い有様だった。
上に乗る躯の重みを愉しめるほど、ヤンはまだ没頭もできず、シェーンコップが触れる端から、何か自分に瑕瑾でも見つけるのではないかと言うかすかな怯えで体の力が抜けず、いつもの癖で考え始めると目の前のことには集中できなくて、欲情ばかりは強まるのに、生贄のために殺される生きものの心境から抜け出せず、シェーンコップは辛抱強くそんなヤンを和らげながら、けれど余裕を失いつつある自分をどこまで引き止められるかと、こちらも心中は決して穏やかではなかった。
もう大丈夫かと、十分時間を掛けたつもりでヤンの膝を開き、そこへ這い入って、どこを見ているか分からないヤンへ、ちゃんとコンドームのパッケージを見せながら、そこから先へ進む許可をきちんと得ようとした。
ヤンは何でもいいからさっさとしてくれと言う素振りで、抱き合うだけでは終わらないことに、心の片隅で怖気づきながら、良かったとは口が裂けても言えない過去の数少ない経験に、またひとつこれも加わったらどうしようと、今日突然自分に結婚の申し込みをして来た男を、どんな顔で見上げればいいのかも分からなかった。
痛いだの苦しいだのは覚悟して、精一杯開いた脚の間にシェーンコップを抱き寄せて、終わった後には結婚は撤回されるかもと思った瞬間、衝撃が来た。
痛いと言う声さえ出ずに、体が勝手にずり上がる。押し込む動きに躯は馴染んでは行かずに、ただそれから逃れるように、ヤンは結局頭をヘッドボードに打ちつけて、それを見たシェーンコップはそれ以上動くこともできずに、ただヤンをそっと抱きしめて、待った。
「・・・痛いですか。」
「痛いとか、じゃ、なくて──」
泣きそうな声で、ヤンが答えて来る。戦車のキャタピラにでも巻き込まれたように、これを平然と受け入れる女たちがいると言うことが、ヤンには信じられなかった。
黒い髪の女の躯が特殊だと言うのは、こういう意味ではないのだろうけれど、シェーンコップは押すも引くもできずに、中途半端な位置でヤンの躯が開くのを待ちながら、撤退を思いつかない自分の、ヤンへの執着に少しばかりうんざりしている。
ヤンの、丸みを帯びた下腹が震えているのが苦痛のせいだと思っても、じりじり先へ進むうちに何とかなるのではないかと、思い切れないまま、シェーンコップは狭さに勝てないくせに、一向に萎える様子もない自分に半ば呆れて、初めての時に、相手の女の手に触れられた途端に果ててしまった記憶をわざわざ掘り起こして、ヤンから身を引こうとした。
冷や汗で冷たくなったヤンの内腿から、ほとんど不承不承に躯を外し、けれどヤンを抱きしめたまま、シェーンコップは慰めるようにヤンの額や頬へ軽く口づけを繰り返す。
ごめん、とヤンが下で言うのに、気にしてませんと返すか、貴女のせいじゃありませんと言うか、迷って結局、手加減のできない自分が悪いのだと言うことに思い至って、また詫びるヤンを黙らせるのに、シェーンコップは少し深く唇を重ねた。
しばらくヤンの髪を撫でて、少なくともヤンが自分を怖がらずにしがみついて来るのにはやや安心して、シェーンコップはみぞおち辺りへ押し付けられたヤンの胸の弾力を惜しがりながら、
「紅茶を淹れましょう。」
と、できる限りの優しい声で言った。
うなずいたヤンがシェーンコップから離れ、体を隠しながら起き上がり、
「シャワー、借りてもいい?」
シェーンコップに背中を向けながら、小さな声でばつが悪そうに訊く。
肉付きの薄い背中から、小さな腰へ向かって降りる線の貧相さが、華奢などと言う優美さ抜きのまさに壊れもののように見えて、シェーンコップは自分のしようとした無茶に、ふた呼吸分、自己嫌悪に陥った。
シェーンコップの目を気にして立ち上がれないのか、ヤンはまだそこでぐずぐずしている。
シェーンコップは勢いをつけてベッドから出ると、ヤンに分かるように背中を向けた。ヤンはシェーンコップの視線を避けて、床から素早く服を拾い上げ、ぱたぱた小走りに部屋を出て行く。バスルームのドアの開閉の音へ耳を澄ませてから、シェーンコップはそこで両手で顔を覆い、小さな小さな声で自分を短く罵った。
聞かれても、多分ヤンはその類いの帝国語は分からないだろう。
ここまでがあまりに思い通りに進み過ぎたのだと思って、女絡みの失敗にはあまり縁のないシェーンコップは、さてこれをどう挽回するかと、自棄のように考えながら、とりあえずはヤンの紅茶のためにのっそりと立ち上がる。
シャワーの水音をBGMに、シェーンコップはやっとキッチンへ向かおうと裸の肩を回した。
薄暗い床に、自分の黒いシャツが見当たらず、シェーンコップは下着とチノパンだけ拾って、手早く身に着けながらキッチンへ行った。
シャワーの水音の間に湯を沸かして、洒落たティーカップなどないから、普段使いのマグだけれど、湯を注いできちんと温めることにした。
水音が途切れたところで、また別に湯を沸かし、これもごく普通のティーバッグを放り込んで熱い湯を注ぐ。
紅茶の支度をしながら、ヤンのところには道具が揃っているのだろうかと考えながら、紅茶紅茶とこだわる割りに恐らく、時間を計る砂時計など持ってはいないだろうと決めつけて、一緒に道具を買いに行くことなど考えているのは、もちろん結婚した後に一緒に暮らすと言う前提の話なのだけれど、さて、その結婚とやらはほんとうにできるのかと、さっきの自分の不首尾へつい心が傾く。
そろそろかと、紅茶とヤンの両方のことを考えながらティーバッグを引き上げようとした時に、思った通りぺたぺたと小さな足音がこちらへ向かって来るのに、シェーンコップはシンクの傍から振り向いて、キッチンとリビングを簡易に区切るカウンターの向こうに、自分のシャツを来たヤンが立っているのを見た。
自分のシャツを、誰かが着ているのを見るのは初めてではないのに、肩の落ち具合や首回りの余り具合や、肘まで覆う袖のたるみ具合や、デザインもサイズも何ひとつ合っていない、趣味の悪いワンピースと言った風を、みっともないと思わずにそれを可愛らしいとまず思った自分の、重症の度を、シェーンコップは改めて思い知った。
シャツの、平たい味気ない黒さが、ヤンの、湯を浴びた肌の照りと黒髪の艶を必要以上に映えさせて、動くとかすかに現れる体の線で、シェーンコップは淹れた紅茶のことをすっかり忘れている。
よじ上るように、背の高いスツールへ腰を下ろすヤンが、じっと自分の手元を見ているのに気づいて、やっと紅茶のことを思い出し、シェーンコップは平静な振りでそのひとつをヤンの前に置いた。ひとつを手にカウンターの端を回り、我ながらぎこちなく、ヤンの隣りのスツールへ坐った。
ヤンは熱いマグをそっと両手で持って、紅茶があれば落ち着くのか、ほっとした表情を浮かべてそれへ唇を寄せる。それを見て安心したシェーンコップも、ヤンへ横顔を向けて、紅茶をひと口飲んだ。
ちらりと見るヤンの剥き出しの腿や、膝の丸みや、思った以上に小さく見える爪先や、半時間前にはそれに触れていたのだと思うと、また様々複雑な思いに囚われて、そこへ手を伸ばして良いものかどうか、シェーンコップは似合わない迷い方をしている。
ヤンに限って、こんな時に男を慰めるような言葉を知りはしないだろうし、そもそも半時間前の台詞から察すれば、自分のせいだと思っているのが明らかで、それについて反論したところで、ヤンが素直に信じて慰められてくれるとも思えなかった。
そしてシェーンコップも、改めてヤンに手を伸ばして、それを拒まれるのが恐ろしくて、明日結婚の届けを出せばいいと言ったことも、どこかの時点で考え直そうと言い出すのではないかと、どこかで順番の狂ってしまった今までの手順──まったくの、無計画──について、やり直せるものならやり直したいと、無理なことを考えている。
ヤンは居心地悪そうに、あちこちをちらちら見ながら──はっきりとシェーンコップの裸の上半身からは視線を外して──、妙に忙(せわ)しく紅茶を口元へ運び、空に近かったことに気づかなかったのか、ちょっと驚いたようにマグの底へ目を見張って、決まり悪げにそれをそっと元に戻す。
「もう1杯淹れましょうか。」
少なくとも居心地の悪い無言から救われた思いで、シェーンコップがそう声を掛けると、ヤンも同じ思いだったのか、浅く頷いてマグをシェーンコップへ差し出して来る。そうして、それを受け取ろうとしたシェーンコップの指先がヤンの指に触れ、咄嗟に引こうとしたヤンの手を、シェーンコップは思い掛けない素早さでとらえていた。
掴んだ中に、小指もあって、シェーンコップはいつもと同じ調子で、けれどいつもとは絶対に違う声音も含めて、いつもと同じようにつぶやいた。
「小さいですな・・・。」
ヤンはそれ以上手を引かず、むしろシェーンコップの手へ自分の指先を与えるようにしながら、顔を赤くして目を伏せる。
シェーンコップはヤンの方へ体を傾け、もう一方の手はヤンの膝へ乗せて、下からすくい上げるようにヤンの唇へ触れた。
ひとつひとつ拒まれないことを確かめながら、手を握り、膝に触れ、触れているだけの唇はもう少し強く押し当てて、ずれた唇の間から歯列が覗くと、シェーンコップは舌を差し出してヤンの唇の裏側をなぞった。
膝の丸みへ掌を添え、膝裏へ指を差し入れて、シャツの裾に隠れている辺りへも指先を忍ばせてゆく。冷たい腿の奥へ指が進もうとしても、ヤンはそれを拒みはしなかった。
唇が開いて、紅茶の香りのする舌が触れ合うと、少しばかり強引にヤンの口の中へ入り込んで、シェーンコップはヤンの舌を奥から拐った。
ヤンの首筋やあごから、自分の使う石鹸の匂いがした。水にまだ湿った耳の裏側や髪の生え際へいつの間にか指先が移動し、シェーンコップは膝にあった手でヤンの腕を撫で上げて、その袖口から肩まで侵入していた。
肩からさらに無理矢理手を差し入れると、そこからはとつぜんふっくらとした肉付きが指先に触れ、けれど胸にまで触れるには袖のスペースが足りない。
さすがに諦めて手を引き抜くと、ヤンの方からその手を握りしめて来た。
少し物足りない風でも、今は手指の触れ合うだけでも十分で、指の1本1本に触れ、拳になる辺りの骨の小山の峰をたどって、それから柔らかく盛り上がる親指の付け根に指先を押し付けるようにして、大きさの違う手がふたつ、本体よりは多少ましに、親密に重なっている。
唇は滅多と外れずに、ヤンは慣れないなりに、シェーンコップのするように舌を動かして、シェーンコップが自分の唇の方へヤンの舌先を引き寄せると素直について来る。軽く噛み付くと、それが思い掛けないとでも言うように、その時だけは開いた目を大きく見張った。
首筋や脚に触れているだけでは我慢できなくなって、シェーンコップはつい椅子から滑り降り、ヤンを抱え上げた。大きく開いた脚の間に体を割り込ませて、驚いて首にしがみついて来たヤンをそのまま抱き上げて、ヤンは大きな樹に止まった小さな虫さながら、落ちないようにシェーンコップに手足を絡みつかせて、そしてそうはしなくても、シェーンコップは軽々とヤンを運んで、向かうのが再び寝室と悟ると、ヤンの顔に不安がちらついたけれど、シェーンコップは足を止めなかった。
乱れたままのベッドへまた降ろされて、腹の辺りまでまくれ上がりそうになったシャツの裾を慌てて押し下げ、ヤンは今度はシェーンコップから真っ直ぐの視線を外さなかった。
抱き上げた時に触れて、下着を着けないでいるのは分かっていたけれど、ヤンがきつく閉じた膝へはあえて触れようとはせずに、シェーンコップはゆっくりとヤンへ体を重ねて、小さな頭を抱え込みながら、長い指の間に飽きもせず黒い髪を梳き続ける。
眉も髪の生え際も鼻筋も頬も唇もあごも、視界に入る先から唇を落とし、律儀にとめていたシャツのボタンはこっそり外しはしても、シャツの裾から手を差し入れることはまだしない。
大きく開いた襟の中へ顔を埋めて、鎖骨から首筋へ上がり、耳朶へ触れると、はっきりとヤンの全身が震えた。噛んで、舐めて、複雑な線をすべてたどった。軟らかいくせに固い耳の、裏側も表側もなめらかな付け根の辺りも、すべて舌先でなぞって、しなやかに鼻先をくすぐる黒髪へも、不意に思いついたように噛み付いてみる。
重なる体の間で、黒いシャツは勝手にめくれ、ヤンはシェーンコップに触れられ、自分も触れ返すのに無我夢中で、そのことに気づいていなかった。気づいていても、今さらもどうでもいいと思ったのかもしれない。
ヤンの体を裏返し、背骨へ唇を落とした。そこから、肩の近くまでシャツをまくり上げて、また黒と象牙色の対比へ視線を奪われながら、ヤンにまつわりつくその味気ない黒が、自分のシャツと思うとさっさと剥ぎ取るのもためらわれて、ただ体を覆う布と言うだけのそれなのに、今日の半分、自分の体温になめされ、今はヤンの上がった体温を吸い取って、ふたりが確かに今一緒にいるあかしのように、重なったふたり分の汗にも湿り始めていた。
少し長く、ヤンの膚を探る。柔らかく滑らかなそれは、自分の指を押し付けただけで跡の残りそうに、シェーンコップはそれを恐れながら、けれど二の腕の内側や脇腹の辺りへ、わざと唇の跡は残して去った。
一度目よりは反応が深く、後ろから抱いて前へ回した腕の中に、押し潰すように乳房を抱き込むと、掌の熱が弾力に跳ね返され、尖った頂きが指の腹へ触れて来る。触れれば触れるほど硬さを増すそれへ、シェーンコップはヤンの体をまた返し直して唇を寄せた。
舌と歯列が触れると、はっきりとヤンの背中が反り、弓なりになった背へ腕を差し込んで持ち上がったヤンの腰へ掌を押し当て、熱い腿裏から、そこは常に冷たい腿の内側へ、指先を忍ばせてゆく。
熱さに耐えられなくなったのか、ヤンはいつの間にかシャツを首から抜き取り、まだ左腕にまつわりつかせながら、耐えるように生地を握り込んでいる。立てるほどの長さのない爪が、それでも食い込んで血の気を失っていた。
全身の筋肉が弛緩を繰り返し、シェーンコップの唇の間で、尖りの硬さは限界を迎えたように、また唇をあごの方へ戻しながら、腰からたどって奥へ滑り込んだ指先が、柔らかくて熱い襞の連なりへ分け入ろうとすると、途端にヤンの闇色の瞳に正気が戻った。
嫌がるならやめようと、指の動きを止めて、けれどヤンはシェーンコップから視線を外しはしても、やめろとは言わずにただ目を伏せ、シェーンコップは改めてヤンの膝を正面から割ると、羽毛の触れるようなかすかさでヤンの内腿を撫でて進んだ。
ほとんど拷問のような慎重さで、ヤンに触れ、熱さを確かめて、なぞるだけの指先をやっとわずかに沈めると、門前払いとでも言いたげな狭さが、それでももっとと言うように応えて来る。そっと進める指先に、最初の時よりは友好的な反応を感じて、シェーンコップはただ歯を食い縛るヤンを見下ろしながら、辛抱強く先へ行った。
指の数を増やして、ヤンが肩を縮めたのに、シェーンコップは柔らかく唇を塞いで、怯えをなだめた。触れてゆく奥から熱はあふれ続けて、全身が筋肉と粘膜だけになったように、唇の間で動く舌と同じに、シェーンコップの指が動く。シェーンコップは、ヤンの声をそうして吸い取り続けた。
すでに一度見せてしまった素の姿に羞恥は確実に減り、躯の奥の熱さを、シェーンコップが揶揄するよりも歓迎するように動くのに励まされて、ヤンは消え入りそうな声で、その先を自分から促した。
開いた膝の間にシェーンコップを引き寄せて、ぶ厚い体が自分を覆い、それに圧倒されながら、今この場で敗けるのを怖がっているのは実はシェーンコップの方なのだと読み取れるはずもなく、死刑の執行よりはましな心持ちで、ヤンは精一杯シェーンコップの前に躯を開いた。
衝撃は、一度目も二度目も大した差はなく、それでも、連なる骨と骨の間を分け入るような感覚は消え、少しはましにシェーンコップが中を進んで来る。自分が苦しければシェーンコップもまた苦しいのだろうと、想像力が働くのは苦痛からの現実逃避だ。
それならやめるとはふたりとも言わないのは滑稽ではあったけれど、そう言えば、作戦以外で何かを一緒にすると言うのは初めてではないかと、ヤンはなぜかそんなことを考えていた。
痛いのも苦しいのも、恐らくひとりでは耐え難いだろうし、相手がシェーンコップでなければ、耐える気にはならないだろうと思えた。
こんな風に躯を触れ合わせて、上手く行っているのかどうかも良く分からず、それでも上でシェーンコップが、ヤンに向かって確かに気遣う色をたたえて、動きながらいたわるように頬や額へ口づけて来るのに、ヤンは何とか躯を和らげて応えようとした。
嵐の中を通り過ぎる小舟のように、ただ揺すぶられるままにあちらへ傾きこちらへ戻り、白い波にさらわれて何度か呼吸を止めながら、ヤンは知らずにシェーンコップのシャツを引き寄せ、それを噛んでいた。近寄るたびそれがシェーンコップとすぐに分かる軍服と、同じ匂いがして、自分を護るために常に傍にいるこの男の、今は剥き出しの素肌に流れる汗を掌に感じて、誰もそこへはたどり着かなかったひそやかな奥へ、苦しげに入り込んでいるのは、自分がそれを許したのだとヤンは思った。
そうして、何もかもが白っぽく熱した、右も左も見分けのつかない溺死直前の脳の中で、嵐は終わり穏やかな波間へ引き戻される。手足を投げ出した力の入らない体を、波が洗ってゆく。
シェーンコップが何か言ったけれど、ヤンはぼんやりとそれをただ聞き、聞き取りはしなかった。
ひとりになった躯が不意に軽く、肌を撫でる空気が少し寒く、ヤンは手足でも失ったような物足りなさで、首をねじって隣りのシェーンコップを見た。
掌を乗せた胸の左側が、皮膚が持ち上がるほど大きく脈打ち、死んだように横たわりながら、体は確かに生き生きと全身に血を巡らせている。戦車に轢かれたような有様が、不思議と不快ではなく、苦痛が必ずつらいものではないのだと初めて知って、ヤンは自分の首へ額を寄せて来るシェーンコップを抱き寄せ、礼を言うように、汗に湿った後ろ髪を丁寧に撫でた。
千語を互いに出し尽くしたように、何もかもを言い尽くしたように、語り合った覚えもないのに、自然に合わさる呼吸の中に、恐ろしく深く通じ合うものがあった。
誕生日がいつだったとか、好きな色は何だったとか、熱過ぎる紅茶よりはぬるいコーヒーの方がまだましと思っているとか、そんなことはもう伝え合う必要もないように思えた。
シェーンコップの頭を抱え込み、ヤンは汗に濡れた男の髪の匂いへ鼻先を近寄せ、シェーンコップは汗のたまった胸の谷間へ顔を埋め、その柔らかな弾みに打ちつける鼓動へ向かって目を閉じる。
サイドテーブルに仲良く並んだ、大きさの違う腕時計が示す時間を確かめるまでもなく、明朝の迎えと言う約束はこのまま反故になると、ふたりとも言わずに悟っていた。