シェーンコップ×女性ヤン

魔女の約束 4

 夕食も取らないまま、満ち足りて眠りに落ち、明け方にはほんの少しまだ間のある頃に目覚めて、ふたりはもう一度抱き合った。2度目よりは短く、1度目より戸惑いは少なく、ヤンはいつの間にかシェーンコップの体へ回す腕の輪の大きさを覚えて、揺れる躯に意識を添わせるやり方に慣れつつある自分に驚いていた。
 終わった後も、まだ眠るのが惜しいと言うように、シェーンコップはヤンの髪や頬に触れ続け、その指の動きの合間に、ためらいながら少しばかり訊きにくい質問を挟む。
 「私で、何人目ですか。」
 ヤンの目がはっきりと見開かれ、それから、困ったように、考え込むように枕へ顔を半ば埋めて、そこからちらりと横目の視線を投げて来る。
 「聞きたいの・・・?」
 「興味はありますな。」
 今日一気に詰めてしまった距離が、こんな問いもさせてくれる。自分の好奇心を品がないと自覚しながら、うろうろ迷うヤンの視線を、シェーンコップは灰褐色の瞳の先にきちんと捉えている。
 まさか数えるのに苦労する人数ではあるまいと思って、あるいは実はこれが──まさか──初めてなのを、何人と言って誤魔化すかと考えているのかと思っていると、ヤンが枕に吸い込まれそうな声で、小さく小さく答えた。
 「ふたり・・・半、かな。」
 「はん?」
 「・・・ちゃんと、できなかった時があったから・・・。」
 シェーンコップが黙ってヤンを見つめていると、ヤンはそれに耐え切れなくなったように、そこからぼそぼそそのふたり半とやらについて話し始めた。
 最初は士官学校の時の、宇宙船育ちで地上のことは右も左も分からないヤンに、何かと親切にしてくれた同期生だったと言う。思春期特有の好奇心だったのだと、とヤンは付け加えた。その口振りと頬の赤さで、少なくともヤンの方には好意があったようだとシェーンコップは読んだ。そう思って、少しだけ胸が疼いた。
 「コンドームが上手く着けられなくて、ああいうのって、練習がいるもんなんだねって・・・」
 迷いの一切ないシェーンコップの手指の動きを思い出しながら、まだ頬を染めたまま、ちょっと責める口調でヤンが言う。手際の悪さのせいの、あのばつの悪い間には覚えのあるシェーンコップは、ヤンに向かって人の悪い笑みを浮かべて見せた。
 「向こうも初めてだったわけですか。」
 「・・・うん、そう。」
 その同期生とは、2、3度好奇心が続き、けれどそれきり、進展もないまま終わったと言う。その後その男は恋人を作り、ヤンは再び本を友人にする日々に戻り、士官学校を卒業して、例のエル・ファシルの件が起こる。
 うまくできなかった”半”とやらは、そのエル・ファシルの後のことだった。
 「大学生で、戦争の英雄についての論文を書いてるって言って、わたしに取材したいって言って来て・・・」
 「貴女がそんな取材を受けるなんて、珍しい話ですな。そんなにいい男でしたか、そいつは。」
 嫉妬している振りを大袈裟に見せながら、実際の嫉妬は押し隠して、シェーンコップはにやにや先を促す。ヤンは唇を尖らせた。それでも話をやめなかった。
 軍人でない男、しかも自分より年下の男が珍しかったのだ。大学へ行きたかったヤンは、大学生と言うものが羨ましく、自分が得たかもしれない空気に触れてみたい気持ちも強かった。それで会うことを承諾し、そして学生の方も、女性の軍人ですでに少佐と言えば天然記念物に等しい、時の人と言うヤンに、研究の材料と言う以上の興味を持ったらしく、取材の少し後でヤンに個人的に連絡をして来て、論文がそろそろ仕上がるからその報告も兼ねて食事でもと、学生らしい不器用さで誘いを掛けて来た。
 ごく自然に、食事の後に酒でもと言うことになり、その男の不幸は、ヤンのうわばみ具合を知らなかったことだった。ヤンのペースに巻き込まれ、酔い潰れ、ヤンは男を抱えて男の宿まで連れ帰り、介抱の名目でそのままそこにとどまる羽目になった。
 「・・・なんて言うか・・・酔ってると無理だって分からなくて、わたし、何もできなくて、それで向こうが怒り出して──」
 ヤンが、言い難くそうに話すのに、シェーンコップは思わず目を細めた。微笑ましい思いからではなく、半ばは嫌悪でだ。思わず真顔になるシェーンコップに気づかずに、ヤンは先を続けた。
 「しょうがないから、途中でやめて放って帰ったんだけど、その後で手紙が来て、わたしがどんなに面白みのないつまらない薄情な人間かって・・・わたしみたいな人間が英雄って呼ばれるのは、同盟の悲惨な未来を象徴してるって書いてあった。それについては反論はなかったんだけど──」
 「そいつは、今どこにいるんですか。」
 ヤンが最後まで言うのを待たずに、シェーンコップは声をかぶせながら、ヤンの肩へ掌を置いていた。問い詰める口調になるのを止められなかった。
 「さあ──ハイネセンのどこかだと思うけど、その後で別に話も聞かないから、どこかで教授になったとか本を出したとかはないと思う。」
 「キャゼルヌ事務監は、その男とのことをご存知ですか。」
 ヤンが、まさかと言う風に首を振った。
 キャゼルヌが知っていたら、正当な制裁を加えたことだろうとシェーンコップは思った。今自分が、そうしたいと思っているように。
 閣下、と思わず、シェーンコップの声が低くなる。
 「もし貴女が、今もそいつをぶん殴りたいと思ってるなら、草の根分けても探し出しますよ。」
 もう一度、まさか、と言う風にヤンが首を振り、それから、振りではなく可笑しそうに声を立てて笑う。
 「そんなめんどくさいこと──訊かれるまで別に思い出しもしなかったし・・・いい思い出じゃないけど、別にいい、そんなこと、もう──。」
 言ってからヤンは枕へ顔を埋め、聞こえなければいい、声が吸い取られてしまえばいいと言う風に、ぼそりとひと言つぶやいた。
 「・・・あなたがいるから・・・。」
 言いながら、寝返りの間(ま)に紛らわせて、完全に向こうを向いて丸まったヤンの背へ、シェーンコップは自分の胸を重ねてゆく。
 「よく聞こえませんでしたが。」
 耳元で言ってやると、ヤンの背がいっそう丸くなる。ヤンの胸に腕を巻いて、もう一度言わせようとすると、ヤンは意固地に唇を真一文字に結んで、ただ顔を赤らめた。
 シェーンコップの腕を抱き寄せて、そこに口元を埋めるようにしながら、話を変えるために、まったく別のことを口にする。
 「明日、ほんとうに、届けを出すの・・・?」
 もう明日ではない。今日だ。けれどシェーンコップはそれを指摘はせずに、ヤンの耳元へさらに近く唇を寄せた。
 「私はそのつもりですが・・・嫌ですか?」
 ううん、とヤンが首を振る。
 「出すのはいいんだけど、キャゼルヌ先輩に、どう言おうかなって・・・。」
 「そのまま言うしかないですな。どうせ軍の個人データの変更の、どこかの段階で必ず事務監の耳には入りますから、我々の口からは聞いていない、と言うことになったら──」
 「──殺される。」
 ヤンが顔だけシェーンコップの方へ向けて、心底恐ろしそうにつぶやいた。シェーンコップは、思わず苦笑した。
 「殺されるなら私だけですよ、閣下。」
 自分に殴り掛かって来るキャゼルヌが、これ以上ない鮮やかさで脳裏に浮かんだ。シェーンコップはもう一度苦笑し、いかにも不安げな、心配げなヤンの髪を撫でた。
 「ご心配なく。新婚早々殺されるのはごめんですが、反撃はしませんよ。」
 キャゼルヌにとっては、ろくでなしの大学生とシェーンコップと、ヤンの相手として、どちらがどれだけましなのか。
 自分に決まっていると、シェーンコップ自身に自信はあっても、世間がそうとは見ないのは予想ができた。
 いい歳の大人ふたりが決めることに、外野が口出しをする必要はない。これはあまりに急で、軽率な決定なのだとしても。
 「もう少し寝ましょう。まだ時間がありますよ。」
 言いながら、眠るのを惜しがっている当の本人が、ヤンの額へ口づけて、眠りに誘う素振りを見せる。
 眠らせなかったのはそっちのくせにと、言いたげにヤンがシェーンコップをにらんで来た。そうする目の色にももう、隠しようもない潤みが浮かんで、この12時間ですっかり変わってしまったふたりは、隙間なく素肌を重ねて、まだ少し事の成り行きを信じ切れないまま、それでもヤンはじき寝息を立て始め、そのヤンの黒髪に唇を押し当てて、シェーンコップは聞こえないと分かっていて、聞こえないように、小声でやっとそれを告げる。
 「・・・好きですよ、閣下。」
 そうしてはっきりと言葉にして、自分の気持ちを確かめるように、言った瞬間に胸からつかえが取れたような心持ちで、シェーンコップはずいぶんと久しぶりの安らかな眠りを予感した。
 顔も名前も知らない、10年前の大学生の男を、夢の中で殴ろうと決めて、ヤンの髪に鼻先を埋めながらシェーンコップは目を閉じる。
 ヤンの寝息が、この世の何より美しい子守歌だった。

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