魔女の約束 5
翌朝、悠長に朝食などと言っている場合ではない時間に、まずシェーンコップが目覚め、ヤンを叩き起こし、着替えのために一度ヤンが官舎に戻る時間を何とかねじ込んで、ふたりは呼び出したランド・カーへ乗り込んだ。ヤンが支度には時間を掛けないのが幸い、開いたばかりの役所へ真っ直ぐ駆け込み、そうする間、ごく自然にふたりの掌は重なって、煩雑な書類の記入の合間も、手が空けばすぐにどちらかがどちらかの手を取っている。
こんな面白くもない作業も、ひとりで悩むのでなければ案外楽しいものだと、これはどうするあれはどう書くとふたりで額を突き合わせながら、ヤンはそのたびシェーンコップを盗み見ながら思った。
20分後には受理された届けの、コピーを手に外へ出る。これだけかと、あまりの簡単さにふたりで揃って拍子抜けして、ランド・カーに戻る前に、昨夜の夕食兼今朝の朝食に、紅茶とコーヒー、それにクリームチーズをぶ厚く挟んだベーグルを移動式のコーヒーショップで買い、もう遅刻は決定だったけれど、それでも急いで車に乗り込む。
さて、と軍服の胸元からベーグルのくずを払い落として、ヤンが固い横顔を見せた。
「じゃあ、キャゼルヌ先輩のところに──。」
まるで、同盟側の大敗の報告でもしに行くような声の低さで、ヤンは小さなあごを襟元へ埋めるように目を伏せる。
シェーンコップはくすりと笑った。
ヤンの落ち着かない、不安そうな態度とは裏腹に、シェーンコップは、ヤンが蜂蜜を練り込んだベーグルが好みなのかとのんきに考え、届けは済んで、今この瞬間、書類の上では結婚したことになっている自分たちが、まだ互いの好きな色も知らず、ヤンはきっと自分の誕生日も覚えていないだろうと、そんなことを思っていた。
とんでもないことをと、キャゼルヌだけではなく、この事を知ったすべての人が言うだろうことを思い浮かべて、他人の思惑に無頓着な普段のヤンを見習い、シェーンコップは心の中から雑音を締め出した。
黙り込んだヤンの手をまた取り、小さいですなと、いつもなら口に出すことを思うだけにして、ヤンの指先へそっと口づける。ヤンはまた照れたように顔を赤くして、別の方向へ目を伏せ、シェーンコップに手を預けたままでいる。
後でと言えばまた後回しになると、ふたりはさっさとキャゼルヌの執務室へ向かった。
無闇に広々とした、そのくせ壁紙と床の色のせいで薄暗い雰囲気の、重々しい空気のその部屋で、空気の重さに負けないほどどっしりとした机の上の、書類の山の向こうから、キャゼルヌが、ふたり揃っての入室に、物珍しげな表情を投げて来る。
「何だ、どうした、予算の話なら今は無理だぞ。」
声はいつもの調子だ。ヤンとシェーンコップは顔を見合わせて、そしてシェーンコップが目配せすると、ヤンはシェーンコップから手渡された、婚姻届のコピーを、そっとキャゼルヌの目の前に差し出した。
ふたりの名前の揃って記入された書面を見て、それから書類の名目を見て、いちばん下の、受理済みのスタンプを見て、キャゼルヌの、紙に触れた手がはっきりと震えたのが見えた。
「おい、朝から何の冗談だ。」
「いえ、あの、冗談じゃなくて──」
ヤンが言い掛けてから言葉に迷ったのを、シェーンコップが引き取る。
「ついさっき、届けを出して来たばかりです。本物ですよ、キャゼルヌ事務監どの。」
おまえに訊いてるわけじゃないと、キャゼルヌの緑色の瞳がシェーンコップを睨みつけた。散々苦渋を舐めて来た、本物のエリート軍人のひと睨みだった。シェーンコップは怯みもせず、いつもの不遜な態度を面に出して、そっとヤンの背中で、震えているヤンの手を取った。
「説明しろ、ヤン、お前だ。」
指でも突きつけそうに、キャゼルヌが凄んだ声を出す。なるほど、上層部とやり合う時には、この男はこんな表情と声を使うのかと、自分とはタイプが違うと思っていた男に、シェーンコップは妙な親近感を抱きながら、隣りで口ごもるヤンを見下ろす。
「説明も何も、その届けの通りです先輩。わたしたち、結婚しました。」
背中で握られた手に励まされてか、ヤンがやっと胸を張るようにして、きっぱりと言う。
キャゼルヌは絶句し、もう一度届けの紙に視線を当て、突然愛娘がもう妊娠してるのと、見るからに頼りないげな職無し男を連れて来て対面させられた父親のような、絶望の表情を浮かべた。
おいおい、俺は、それよりはもうちょっとましだろう。シェーンコップは頭の片隅で思いながら、またヤンの手を握る。ヤンが、合図のように握り返して来る。ふたりはもう、りっぱな共犯者だった。
「おまえら・・・一体いつ、そんなことに・・・」
「いつって言われても・・・昨日、急に、そういうことになって──」
ヤンがまた、気弱に言い返す。
「おまえらふたりで、飲み比べでもやったのか。」
頭痛がすると言う風に、片手で両方のこめかみを揉み込みながら、キャゼルヌがいつもの毒を投げて来る。
「いえ、完全に素面でした。我々、大人ふたりで出した結論です。」
ヤンを騙したわけではないし、ヤンも誤魔化されたわけではないと分からせるためにそう言って、シェーンコップはわざと厳しい表情を浮かべて見せて、もう隠しもせずヤンの肩を抱き寄せた。
キャゼルヌの頬に、奥歯を噛んだ線が走った。
書類を放り、キャゼルヌは前に手を組んで、しばらくそこに顔を伏せて何も言わない。
沈黙と言うものがヤンの髪よりも黒く、ローゼンリッターの装甲服よりも重いものだと、思い知らせるように、キャゼルヌは背中を丸めて動かない。
宇宙に放り出されたように、部屋からすべての物音が消え、居心地悪そうに、ヤンがもじもじとかかとをすり合わせるような行儀の悪い仕草をして、シェーンコップはそれを見咎めて、提督、とヤンの耳元で注意した。
そのふたりの様子にキャゼルヌがとうとう折れたように、姿勢を変えずに顔を伏せたまま、
「──式はいつだ。」
と突然訊く。
それが聞き取れなかったヤンが、え、と聞き返し、苛立ちを隠しもせず、キャゼルヌが同じ質問を繰り返す。言葉の終わりが、部屋中に伝わるほど震えていた。
「それはまだ──」
と、シェーンコップが言い掛けると、今度はヤンがそれにかぶせて、
「しません。」
ときっぱり答えた。
え、とシェーンコップはヤンを見下ろし、見下されて、不思議そうにヤンはシェーンコップを見上げ、ふたりで顔を見合わせて、戸惑いをそこに刷く。
「しないんですか。」
「え?したいの?」
「そりゃあ、考えはしますよ。」
「え、あんな面倒なの、したいの?ほんとに?」
ヤンは真顔でシェーンコップを問い詰め始めた。
「貴女はしたくないんですか? ドレスを着たいとか──」
突然司令官の声と貌(かお)を取り戻して、ヤンが冷たい声で遮った。
「わたしがあんなもの着たがると思う? 時間の無駄でしょ。」
その時間の無駄を、10年前にやったキャゼルヌを前に、ヤンが無神経に言い放つ。さすがにキャゼルヌを気にして、シェーンコップはちらりと視線を流し、ヤンを止めるように、背中の手を再び握った。
「おまえら・・・。」
机の上で届けの紙を滑らせ、ふたりへ戻しながら、キャゼルヌは驚愕と落胆と絶望の入り混じった表情を、もう掌の向こうに隠すこともせず、口元と目元に諦めを浮かべて、
「名前が変わったらおれに知らせろ。もっとちゃんと話をまとめてから聞かせに来い。」
そう言われ、書類を取り返しに1歩前に出たシェーンコップの後ろで、
「名前は変えません。同じような位置に同じ名前があるのもややこしいし、わたしの姓名の順とか、めんどくさくなるだけですから。」
これもきっぱりとヤンが言い放つ。え、とシェーンコップとキャゼルヌは揃ってヤンを凝視して、それから、ふたりはヤンを置き去りにして思わず見つめ合い、やれやれと言う気持ちを確かにその時分け合った。
キャゼルヌは、何か、同情めいた色の視線をシェーンコップに当て、けれど一瞬後には緑の瞳からあらゆる感情を消して、
「もういい。」
追い払うように手を振った。
キャゼルヌの態度は決して友好的ではなく、それでもヤンはほっと肩の力を抜いて、シェーンコップとまた肩を並べて部屋を出て行こうとした。
「シェーンコップ、お前さんは残れ。まだ話がある。」
体を横向きに、ふたりを見ずにキャゼルヌが言う。ふたりは足を止め、シェーンコップは不審気にキャゼルヌを見、ヤンは心配気にシェーンコップを見上げた。
ヤンは思わずシェーンコップの上着の袖を掴み、自分の体を前に出して、シェーンコップをキャゼルヌから守ろうとする素振りを見せた。シェーンコップは苦笑しながらそのヤンの手を上着から取り上げ、大丈夫ですよと微笑んで見せる。キャゼルヌは、そのふたりのやり取りを忌々しげに横目に盗み見ていた。
動こうとしないヤンの背中を押して、シェーンコップは言われた通りひとりその場に残る。ヤンが重たいドアの向こうに消えるのを見送って、またキャゼルヌの机の前へゆき、今度は礼儀正しく背筋を伸ばした。
くるりと椅子を回して正面から向き合うと、キャゼルヌは椅子の背に自分の背中を伸ばす。
「シェーンコップ、貴官、一体何を企んでる──?」
生真面目な声は、怒(いか)る父親のそれではなく、有能な軍人の、冷静なそれだった。
「企む、とは?」
シェーンコップも、大事な妹か娘を奪い去る無頼漢ではなく、一(いち)軍人として問い返す。
「ふざけるな、あのヤンと突然結婚だと? 一体何のつもりだ。何かおれが知らん、帝国側の動きでも掴んだか。」
「純粋に、大人ふたりが、永続的な関係を約束した、と言うだけのことですが、信じてはいただけないようですな。」
「信じないのはおれだけじゃないぞ。政府に知れてみろ、連中、真っ先にクーデターを疑うぞ。」
なるほど、とシェーンコップは思った。キャゼルヌの動揺は、大事なヤンを突然何の前触れもなく奪われたと言うことだけではないのだ。そっちのことかと、シェーンコップはしきりに浮かんで来る苦笑を押し殺して、素早く頭を巡らせた。
「提督と私が結婚しようとしまいと、連中は提督を疑い続けますよ。提督ご自身にその気がなくても、提督を担ぎ上げたい連中は確かにいる、それは周知の事実だ。」
自分もそのひとりだとは、もちろんおくびにも出さない。知らずに、冷たい笑いに唇にねじ曲がっていた。
「少なくともこの結婚の事実で、提督は公的にも私的にもローゼンリッターを手に入れたことになります。ローゼンリッターは、ヤン提督の意思に関わらず、実際的にヤン提督の親衛隊だ。政府がその気になれば、ヤン提督を害するのは簡単でしょう。ですがその後で我々がどんな行動に出るか、その程度を考える頭はまだ同盟政府にも残っているでしょう。」
「・・・シェーンコップ──。」
耳に届いた声の冷たさに驚いたように、キャゼルヌが目を見開いた。
「私と言う、公的な配偶者がいることで、提督には手を出しにくくなる。大事な伴侶を謀殺されれば、残された片割れがどれだけ嘆き悲しんで、そして怒り狂うか、あなたにだって想像はつくでしょう、キャゼルヌ事務監。ましてやその配偶者は、ローゼンリッターの13代目連隊長だ。」
自分の言葉の効果をまるで楽しむように、シェーンコップは、同盟政府がひそかに、あるいは大っぴらに恐れ続けた獰猛な獣の本性を、今は剥き出しにして、本音をひとつも隠さない。キャゼルヌがこわばった頬を、それがまだ自分のものであると確かめるように、指先で撫でた。
「それともうひとつ──。」
いつもの、もったいぶった調子で、シェーンコップは胸の前に腕を組む。ゆったりと進む声は、まるで舞台俳優のそれだった。
「私は亡命者ですが、自分で望んで同盟に来たわけではありません。その気があれば、今も帝国籍を主張できなくもない。さらに元貴族で、シェーンコップと言う家はまだ向こうに残っていると言うおまけつきだ。」
そこまで言ってから、まだ先の説明が必要かどうか、キャゼルヌを見た。キャゼルヌはシェーンコップを睨みつけて、重い口を開き、その先を引き取った。
「いざとなったら、ヤンを連れて逆亡命か。」
「私のことは分かりませんが、帝国の方が、よほど提督を丁寧に扱ってくれるでしょうな。」
キャゼルヌの無言が、それを肯定する。
「帝国に戻りたいとは思いませんが、提督のためなら、私は提督をないがしろにする同盟なんぞ今すぐにでも裏切りますよ。」
こんなことは、キャゼルヌ以外には言えない。ヤンに抱くのとはまったく違う、奇妙な信頼感だった。
シェーンコップの声と瞳の冷たさ──本気さ──に、キャゼルヌは背筋に悪寒を走らせ、こめかみの辺りに冷や汗の伝うのを感じた。
この部屋から、絶対にどこにも行かない、行かせてはいけない話を、シェーンコップは淀みなく続ける。
「仮にこの戦争に同盟が負けたとして、帝国が真っ先に苦心するのはヤン・ウェンリーの身柄だ。殺すか? それでは同盟の残存勢力の恨みを買って、統治をし難くするだけだ。再開戦の原因にならないとも限らない。それなら死ぬまで幽閉か? あの智力をそんな無駄にはしたくないはずだ。だがあのヤン・ウェンリーが、負けたと言って素直に帝国に与して従うか? では、どうします? ローエングラム侯は独身、提督も独身、それなら──」
「結婚か・・・。」
妙に明るく声を張るシェーンコップとは真逆に、キャゼルヌが、考えるのもおぞましい、と言う風に重く息を吐き出した。
「正式の結婚でなくてもいい、どういう形であれ、子どものひとりでも生ませれば、身動きできなくなります。子どものために帝国を守れと言われれば、提督も嫌とは言えなくなる。だが一応でも提督が既婚なら、多少は向こうも考えるはずです。他人の女房を盗む、しかも惚れてもいない他人の女房を、政治的思惑のために盗むなぞ、まともな男ならしたいはずがない。」
その程度に、ローエングラム候の人柄が真っ当であることは、同盟側にもちゃんと伝わっている。
もう冷笑も消して、シェーンコップはひどく真剣に話をしていた。まるでもう長い間考え続けていたことだと言うように、キャゼルヌに口を挟ませない流暢さだった。
「私程度が考えつくことだ、帝国もすでに誰かが──大方オーベルシュタイン辺りが思いついて、ローエングラム侯に進言していても不思議ではない。もしそうなら、いつ提督が帝国に拉致されてもおかしくはない、そうなってからでは遅い。提督と私の結婚は、あらゆる可能性に対する抑止力になる。これは同盟のためです。」
この男は、軍人などよりもよほど扇動家の方が向いていると、冗談ではなく本気でキャゼルヌは思う。断言したシェーンコップへ、同意の視線を投げながら、納得はしていない声音で、キャゼルヌはため息混じりに言った。
「今すぐ裏切るのにやぶさかでない同盟のために、ヤンと結婚したのか、お前さんは。」
「──表向きには、そういうことにしておきましょう。政府がクーデターを疑うなら、こちらはそう答える、そういうことです。」
「屁理屈だな。」
「その通りです、だが私の妄想だと一笑に付せることでもないと、事務監どのもお分かりのはずだ。」
政府は、ヤンとシェーンコップが結婚したと聞けば、様々な、自分たちに都合の悪いことを思い浮かべて青くなるだろう。
だが、とキャゼルヌは考える。同盟と帝国の両方に睨みが効いて、現実的にヤンを守る力があり、ヤンの配偶者としてはまったく不自然ではない──年齢的にも立場的にも──となれば、自然に選択肢は狭まる。結局それは、シェーンコップ以外にないと、結論せざるを得ない。
ヤンを守ることは、同時に同盟を守ることでもある。ヤンを同盟にとどめ、絶対に死なせないこと、この戦争に勝つために、それは必要不可欠だった。
ハイネセンへこのニュースが届いたら、ちょっとした騒ぎになるだろうなと、うんざりしながらキャゼルヌは考えた。そしてそれを黙らせる言い訳に、確かにシェーンコップの言ったそのままを伝えるのが、いちばん手っ取り早いことも確かだった。
同盟のため。嘘も方便だ。そしてそれは、確かに嘘でもないのだった。
キャゼルヌはもう一度ため息をつき、まだ朝だと言うのに疲れたと言う風に、ゆっくりと重たげに瞬きをした。
「シェーンコップ、まさかお前さんが、そこまでヤンに惚れてるとはな。」
そう言った瞬間、シェーンコップが撃たれたように肩を後ろへ引き、急に黙り込んだ。深く息を吸う気配があって、キャゼルヌは、ああ自分は図星を突いたのだと思って、シェーンコップの弱みを握ったと言う子どもっぽい喜びよりも、よりによってこの男が、と言う淋しさの方へ心が傾き、ヤンを守る自分の役目はとうとう終わってしまったのだと、椅子の背に自分の体を投げ出しながら、娘を見送る父親の気分を早々と味わっている。
「膝を折ってそう伝えて、素直に聞いてくれる方ではありませんので。」
悪あがきのように、シェーンコップが言った。それから、名状しがたい笑みを、キャゼルヌすら見惚れるほど美しく浮かべて、
「私はただ、やっと得た有能な、思慮深い上官を失いたくないだけです。」
ずるい男だと、キャゼルヌは思った。こんな風に微笑まれては、憎んで嫌うことすらできない。何しろヤンが選んだ男なのだから、キャゼルヌには、この男を嫌うと言う選択は、これから先存在しないも同然だった。
もういい、とキャゼルヌはぼやくように言い、行け、とシェーンコップへ手を振る。
シェーンコップはもう一度美しく微笑んで、同じほど美しい敬礼をした。くるりと背を向けて歩き出すのに、キャゼルヌは言い忘れていたことを思い出して、慌てて声を掛ける。
「シェーンコップ、言っておくが、ヤンを泣かせたら宇宙の果てでも追い詰めるからな、覚悟しておけよ。」
まるで猫に歯向かう子ねずみのように、それでも勝敗は最後まで分からないから、挑むようにそう言って、やれるものならやってみろと言わんばかりにシェーンコップがふっと笑ったのに、キャゼルヌは少々プライドの端っこをへし折られた。
「──提督の幸せのために、全力を尽くしましょう。」
顔だけ肩からこちらに向けて言う。
「微力じゃないのか。」
最後まで諦めずに、キャゼルヌは煽った。
「30年遅かった分をこれから取り戻すのに、微力では足りませんな。」
言いながらもう、シェーンコップは開いたドアの間から滑り出ていた。キャゼルヌはもう何も言い返さず、それを見送った。
通路に出ると、待っていたヤンがすぐに駆け寄って来る。殴られるかもと、本気で心配していたのか、シェーンコップの頬へ手を伸ばし、どこかに跡でもあるかと、眉を寄せてこちらを見上げる。
「大丈夫ですよ。ちょっとローゼンリッターの予算絡みの、内密の話があっただけです。」
もう自分に触れるのに、まったくためらいもないヤンの手へ、シェーンコップは頬をこすりつけるようにしながら、安心させるように言った。
キャゼルヌに向かって並べ立てた口からでまかせが、こうしてヤンと向き合うと霧散して、同盟も帝国も無関係の、ただのヤン・ウェンリーと言うひとりの女(ひと)に自分は惚れたのだと、シェーンコップはしみじみと思い知る。
それでも、戦争と言う場でなければ能力を発揮できない自分たちの、その片輪の具合の似通り方へ、互いに魅かれたのはそこなのだろうと、胸が疼くように考えた。
昨日と何が変わったとも分からないふたりの、けれど今はもう分かちがたく結びついてしまったそれは、例えば、並んだ肩の位置が昨日よりも近いことや、シェーンコップの掌が、ヤンの肩ではなく首筋や腰の辺りへ添えられていることや、ヤンが今では首を伸ばすだけではなく、背を反らすようにしてシェーンコップを見上げていることに窺えるのかもしれない。
シェーンコップは昨夜と今朝早く、散々そうしたように、ヤンの頬へ両掌を添えて、そこでそのまま唇を触れ合わせた。ヤンは驚いて、ふた拍の間シェーンコップから逃げようともがいたけれど、キャゼルヌに知らせた今、誰に隠す必要もないのだと悟って、そのままおとなしく腕を下げる。
黒髪の小柄な要塞司令官と、美丈夫の防御指揮官の堂々たる抱擁のシーンに行き合わせた人たちは、驚きながら彼らふたりを避けて、あるいは見ない振りをして通路を通り過ぎ、十分に行き過ぎた後で、そのことを先で触れ回った。
ヤンとシェーンコップが、ほんとうに結婚したのだと言うニュースに、当然ながらまたヤンのトリックではないかとか、ペテン師が今度は何をやらかす気だとか、魔女が味方まで騙してどうする気だとか、そんな噂がイゼルローン中を駆け巡った。
それをどこ吹く風と、照れるヤンと、一緒にいれば必ず手を取り、抱き寄せることを忘れずに、挨拶と言うには少々情熱的に過ぎる抱擁をして、シェーンコップはこれでもかと言わんばかりに、結婚の話はほんとうだと周囲に見せつける。
ムライが、水を差したくはないがと渋い顔をして、公私混同は避けられますようにとヤンへ苦言を呈して来たのに、後でこっそりキャゼルヌから、あれについてはこれこれこういう事情なのだと、シェーンコップがまくし立てたままを告げられると言う一幕も、ふたりの知らないところでありもした。あのシェーンコップが、同盟のことをそんな風に思ってまで、と、うっすら感激すらした風のムライ参謀長に対して、キャゼルヌが罪悪感を覚えたかどうかは誰も知らない。
アッテンボローは、このニュースに対してまずヤンのことを心配し、シェーンコップに対する不安は拭えず、それでも一緒に飲もうと誘ったキャゼルヌにあれこれ語られ、ふたりの──主にシェーンコップの──本気を知らされると、一抹の淋しさは拭えないまま、とりあえずこの結婚を祝福する気持ちにはなった。
ポプランは、そのアッテンボローと飲んだ時に、シェーンコップに対する不満を滔々と述べ、道理でずっと自分の連戦連勝が続いていて、それを自慢げに言いふらす自分を笑ってたのかあの不良中年、と大層な虎っぷりだった。
へえ、女遊びは控えてたのか、あの男。
そう言えば、飲みに誘っても仕事が忙しいと断られることが増えていたし、それももしかすると、ヤンと一緒にいるための言い訳だったのかもしれないと今になって思いついて、アッテンボローは、もう潰れてカウンターでうたた寝を始めているポプランの肩を叩き、不良中年どころか純情中年じゃないかと、こっそり小さな声でつぶやいた。
ローゼンリッターと言えば、シェーンコップの人となりをよく知らない下の方で、連隊の安泰のために元連隊長が司令官に身売りまでするのかと言う声がちらりと流れ、それに対してリンツ始め、シェーンコップと付き合いの長い隊員たちが、閣下はずっと提督に惚れてたろう、おまえら何を見てたと極めて冷静に言い、その後は、この大きな慶事に祝いはどうするかと言う話へ流れてゆく。
この手のことには極めて鈍感──ヤンと実は良く似ている──なブルームハルトが、こっそりリンツへ、シェーンコップの気持ちをいつ知ったのかと尋ねると、リンツはひと拍黙ってから、
「無事に生きて戻って会いたい人がいるのは大事なことだって、やたら言うようになったからな。」
「で、でも、閣下は、もっと迫力のある美人ばっかり相手にしてたじゃないですか。」
「寄って来るのがそういうので、自分から口説きたいのは違うタイプだったんだろう。」
考え込むように、ブルームハルトが黙る。
そんな風に言うリンツも実のところ、シェーンコップがまさか結婚するほど本気だったとは思わず、さらにあのヤンが、その申し出にYesと言うとはもっと思ってもみず、一体どうやったんですか閣下、と訊いてみたくてうずうずしていた。祝いは酒にして、酔わせて聞き出すかと、表情を変えずに考える。
このイゼルローンで、結婚と言うものから最も遠いと思われていたふたりが、よりによってお互いと結婚したと言うのはトール・ハンマー並みの衝撃だった。実のところ、最初からこのニュースを真っ直ぐ好意的に受け止めた人々の数は、決して多くはなかった。
軍人としてのヤンは、魔女と称されるだけあって、あれこれ策を弄して敵の鼻面を引き回すのが得意と思われていたし、シェーンコップは腕っぷしだけではなく、口先も油断がならないと知れ渡っていたから、ふたりで一体何を企んでいる、作戦のために結婚まで使うのかと、ふたりを人でなしのように言う声も上がり、これはキャゼルヌの頭痛の種になった。
そしてもうひとつ、これは意外でも何でもなかったけれど、一部の女性たちの、ヤンに対する口撃が予想以上の代物だった。
曰く、弱みを握ってシェーンコップを脅迫したのかとか、強引に妊娠に持ち込んだのではとか、実は魔女と言うのがほんとうに本当で、惚れ薬でも使ったのではないかとか、黒魔術の使い手なのではないかとか、聞けば呆れるほど幼稚な言い掛かりばかりだったけれど、何しろ女たらしと言うふたつ名で通っても来たシェーンコップが、よりによってあの司令官──彼女らが表現すると、武器倉庫の一番奥の壁みたいな女、と言う風になる──ととは、一体どうやってと、誰もが思わずにはいられないのだった。
それでも、彼女たちが寄ると触るとヤンとシェーンコップの噂をし、そこから少しずつ、中傷混じりにも、そう言えばもうしばらくシェーンコップを誘って誰も成功していないらしいと言う話になると、皆互いに顔を見合わせて、何となく口をつぐまざるを得なくなると言うことが増え、噂も少しずつ下火になってゆく。
下世話な噂が静まっても、自分にだけはほんとうのことを教えてくれと、惚れ薬の作り方やら黒魔術のやり方やらを問い合わせる手紙が続いたのにだけは、さすがにヤンも閉口したのだけれど。
あれこれ外野が言うのをいちいち正すのも面倒で、結局ふたりにできることと言えば仲睦まじさを隠さないと言うことで、これを口実にシェーンコップは見せつけるように以前以上にヤンの傍らから離れず、それについて嫌味でも言う輩がいれば、30年分を取り戻してるだけだと不遜にうそぶき、次第に、うちのシェーンコップ、私の提督と、ふたりが互いのことを言うたびにそこに含まれる響きの甘ったるさに、周囲が辟易し始め、同盟のための便宜上の結婚と言う建前はどこへ行ったのか、いつの間にやら、ふたりは大恋愛の末、皆の反対や反発を乗り越えて結婚したのだと言う話が出来上がっていた。キャゼルヌは頭を抱えたけれど、訂正する素振りも見せなかった。
1年の間に、要塞内での既婚率は跳ね上がり、出生率も上がり、特にそれはローゼンリッター内で顕著であり、明らかにそれは、いつ見ても仲睦まじい、要塞司令官と防御指揮官夫妻の存在によるものに違いなかった。
ヤンとシェーンコップの結婚は、速やかに注意すべき情報として帝国へもたらされ、誰が一体何をどう解釈したものか、次に同盟に知らされたのは、ラインハルトの結婚、そして妻である女性の妊娠の事実だった。
シェーンコップの指摘した通り、ヤンが既婚となっては、ラインハルトとヤンを強引に婚姻させてと言う計画が成り立たず、それならさっさとラインハルトに結婚を促して世継ぎを、と言う話が早急に進められたのかも知れず、あるいはこれを、ヤンがついに本気で総力戦を仕掛けて来る前触れと解釈したのかも知れず、あるいは単に、帝国へ報告されたふたりの新婚っぷりに、イゼルローン全体が当てられたように、帝国も当てられただけかも知れず、何はともあれ、伴侶を得て、じきに父親になることになったラインハルトは、同盟側に、
「我が子が生まれ、育つのをこの目で直に見守りたい。その時を戦場で過ごすのは真っ平だ。」
と言う言い分と共に、突然の無期限停戦を申し入れて来た。
青天の霹靂。戦局的に、その時絶対的に不利だった同盟がこのチャンスを逃すはずはなく、一部の政治家たちは、相変わらず強気に戦争の継続を望んだけれど、あの魔女すら結婚して幸せそうなのに、なんでみすみす不幸に陥る道を選ばなければならん、と言う空気には勝てなかった。
停戦の条件にイゼルローン返還が含まれていたため、ヤン艦隊は自分たちの家(ホーム)から去ることになったけれど、終戦の喜びは何物にも替え難く、誰も皆、退去の時には微笑みを浮かべて、それでも少しだけ淋しそうに、イゼルローンにさようならと別れを告げた。
ハイネセンへ戻り、この時元帥だったヤンは、終戦を期についに退役を果たし、魔女からただの元軍人になった。シェーンコップは、戦後の同盟立て直しのための軍備の大幅な縮小により軍を離れざるを得なくなったローゼンリッターの隊員たちを、大手の警備会社へ送り込み、自分もそこの訓練教官に収まった。
ラインハルトが無事に父親になったと言うニュースを、ふたりは私人として聞き、愛が平和をもたらすなんて大嘘だと思ってたのにと述懐したヤンに、予想がつかないのが人生ですなとシェーンコップが返すと、ふたり揃って確かにそうだと、共に暮らす家の、シェーンコップが手入れを欠かさない前庭を眺めながら、ただの平凡な夫婦として深くうなずき合う、やっと訪れた、ハイネセンの平穏な日々だった。
おかげでふたりがわざわざそれを伝える必要もなく、半日後には、そのニュースはイゼルローンのあらゆる場所に知れ渡っていた。