シェーンコップ×女性ヤン

魔女の約束 6 (最終話)

 ユリアン・ミンツが、家事手伝いとしてこの家に通い始めて、そろそろ1年になろうとしていた。
 普段は週末に1日、夏休みの今はそれが平日に1日と週末に半日になって、掃除をし、必要なら洗濯をし、1週間分の夕食の準備を軽くして、そして今は、朝食の準備の後半戦の真っ最中だ。
 ティーカップが、カウンターの上で熱い湯を注がれて温められ、それを見たこの家の主のひとりであるシェーンコップが、
 「そろそろ起こして来る。」
と、さっき着替えに上がった2階へ再び上がって行くのを見送って、ユリアンは新たに沸かした湯を、ティーポットの茶葉に注ぎ掛けた。
 砂時計をひっくり返すのとほぼ同時に、時間ですよと呼び掛けるシェーンコップの、よく通る声が下にも聞こえ、そして砂が半分落ちた辺りで、声の主が重い足音で階段を降りて来る。
 その、ぶ厚い広い肩の片方に小柄な人をひとりを担ぎ上げ、足元に気を付けながらキッチンへ戻って来るのは、ユリアンにはもう見慣れた眺めだった。
 パジャマ姿の寝乱れた髪の、まだ眠そうに目をどんよりさせているその人は、この家のもうひとりの主で、シェーンコップの奥方であるヤン・ウェンリーだ。ウェンリーと言う名前を誰かが呼んでいるのをユリアンは聞いたことがなく、この人を、シェーンコップは提督と呼ぶ──軍隊時代と変わらず──ので、ユリアンもそれに習って、彼女をヤン提督と呼んでいた。
 シェーンコップがヤンを下ろし、子どもにでもするようにキッチンテーブルにつかせると、ユリアンはすかさずその前にティーカップを置いた。紅茶の香りで少しヤンが覚醒し、ひと口飲むと、
 「ユリアンの紅茶はやっぱり最高だなあ。」
 はあ、とまるで今が1日の終わりみたいな息を吐いて、
 「今日は講義は午後からなんだけど。」
と、後ろにいるシェーンコップへ向かって、抗議のようにつぶやいた。シェーンコップはヤンの寝癖だらけの髪を撫でて、
 「ちゃんと起きて、来月分の講義のレジュメの準備をすると言ったのは貴女ですよ提督。」
 言葉だけを聞いていると、ちょっと険悪な口喧嘩でも始まるのかと思うのだけれど、本人たちはいたってのどかに、今もヤンは椅子に横坐りになりながら、シェーンコップの腕を引き寄せて、ワイシャツの袖のボタンをとめている。その小さなボタンは、ヤンの小さな指先の方が扱いやすいらしい。うつむくヤンを見つめるシェーンコップの目は、怖いほど優しげだ。
 ブルーベリーのジャムをたっぷり塗ったトーストを差し出すと、ヤンが両手でそれを持ってかじり始める様は、リスか何か、小動物の食事の風景のようだ。そしてそれを、シェーンコップは相変わらず後ろで、いかにも微笑ましそうに眺めている。
 「夕食はどうします。」
 「わたしはいつもの時間に帰って来るけど、そっちは遅いの。」
 「貴女に合わせて帰って来ますよ。」
 ああそうと言うヤンの、唇の端から拭い取ったジャムの指先を舐めて、シェーンコップは名残り惜しそうに上着を手に取り、ユリアンからランチのサンドイッチを手渡されて、出勤のために玄関へ向かった。
 ヤンはかじり掛けのトーストを皿に置き、シェーンコップの後を追う。玄関でひとしきり、別れを惜しむやり取りが聞こえ、背を向けているユリアンにもはっきりと分かる、ふたりの、互いの肩や首筋や背中に触れる抱擁の気配には、気づかない振りをするのがマナーと、この1年でしっかり学んでいた。
 終戦時にまだ幼児だったユリアンは、このふたりが同盟と帝国の停戦のために多大な貢献をしたと言うことを、本などから知った程度の知識しかなく、終戦から10年、ふたりが軍を退いてから10年、今ではごく一般市民であるこの夫婦は、大恋愛の末周囲の反対を押し切って結婚し、深く愛し合うふたりの姿には帝国側さえほだされたのだと言う風に、ちょっと信頼度に問題のある新聞の記事で読んだことがある。
 体の大きな、今も威圧感の消えないシェーンコップはともかくも、隣りでぼうっと突っ立っているヤンは、体の大きさで女性と見分けるのがせいぜい、その偉大な軍人とやらにはとても見えず、英雄と呼ばれた後で魔女と呼ばれるようになり、帝国を様々な局面で苦しめ悔しがらせたなど、シェーンコップの口から聞かなければまるきり信じられなかった。
 結婚して10年になると言うのに、一緒にいる時には互いに触れていない時がなく、名前ではなく名字で呼び合う軍時代の習慣を変わらず続けていて、ユリアンの思う夫婦の姿とは似ても似つかず、妙な人たちだと言うのが最初の印象だった。
 愛し合うふたりと言う点については、まだ少年のユリアンにも異議を唱える気も起こらないほどで、この1年、この家の中でふたりを眺め、口を開けば言い合いかと思うようなやり取りは、このふたりにはごく普通のことであると分かると、親愛の表現と言うのも人それぞれなのだなと、親の記憶の薄い少年は、暇さえあれば毒を吐きながら見つめ合っているふたりの邪魔をしないように、いつも距離を取って背を向けるのだった。
 紅茶が冷めてしまいますよ、ヤン提督。
 そう思った頃、やっとヤンはシェーンコップを見送って玄関から戻って来て、また両手に持ったトーストをかじり始める。
 「午後から講義なら、お昼は11時半くらいですね。」
 「そうね。10時前にもう1杯紅茶が欲しいな。」
 ヤンが、ティーカップを持ち上げてにっこりと言う。
 分かりましたとユリアンもにっこりとうなずいて、ふと思い出したように、
 「今日の服はどれにしますか。紺色のパンツスーツを、クリーニングから受け取って来ましたけど。」
 カップを唇へ傾けて、ヤンが虫でも払うように手を動かす。
 「いらないいらない、今日は次の論文のアウトラインのチェックだから、講義じゃないの、スーツなんかいらない。シェーンコップの野戦服でいいでしょ。」
 「あれを着て行くんですか?また叱られますよ。」
 「いいの、結婚する時に、あの人の服は全部好きに着ていいって言われたんだから。ポケットがあるから、レジュメもペンも全部入って便利なんだもの。」
 ユリアンが、僕は知りませんよと言う表情を浮かべると、トーストを食べ終わり、ぱんぱんと皿の上で手を合わせるヤンは、パンくずを払って、澄ました顔でごちそうさまと言って立ち上がった。
 大学に野戦服を着て行って冗談になるのは、平和な時代になった証拠だとヤンが笑う。シェーンコップの、ローゼンリッター時代の野戦服の上着を、無造作に羽織って構内を歩くヤンは、教授ではなくてちょっとパンクな学生のようだ。その下に着るのは、ローゼンリッターの腕章つきのシャツ──上着同様サイズはヤンのそれより3つばかり大きい──だし、今も探せばハイネセンの軍放出品を扱った店でまれに見つかるそれは軍マニア垂涎の珍品で、今ではヤンの過去──配偶者がローゼンリッターの連隊長だった──も人々の記憶から薄れてしまい、それを着たヤンを相当のミリタリーファンだと思い込む学生もいるのだそうだ。
 めんどくさいから説明しないの。わたしもシェーンコップも、今はただの市民だし。
 人たちがもうわざわざ、ヤンやシェーンコップを足を止めて指差さないのは、戦後がやっと普通になった証拠なのだと、ヤンはうれしそうに、そしてどこか淋しそうに言う。
 それはとても良いことだ。けれど辛かったこと、悲しかったこと、大変だったことまで忘れてはいけない。
 ヤンがユリアンにそう言うのを、シェーンコップはヤンの横顔を見ながら聞いて、ふとユリアンがそこにいることを忘れたように、
 「ですが戦争がなければ、我々は出会えませんでしたな。」
 恐らくもう、何十回も同じことをヤンに言ったことがあるのだろう。ヤンはそれでも聞き飽きたと言う風でもなく、ふっと目を伏せてシェーンコップへ視線を移し、そうして見つめ合う時にこのふたりは、ユリアンには絶対に理解できない空気に包まれる。
 ユリアンを寄せ付けないのは、軍人だった彼らの、他の誰とも共有したくない血まみれの記憶、自分たちは人殺しなのだと言う認識、そんなものからこの無垢な少年をできるだけ遠ざけておくべきだと言う心遣いだと、ユリアンは言われず何となく悟っていた。
 奇妙ではある、けれどとても優しい人たちだ、とユリアンは思う。
 同じように家事手伝いで出入りしていたキャゼルヌ宅で、家の主のアレックス・キャゼルヌから、家事が壊滅的にできない知り合いがいて、家のことを手伝ってやってくれないかと言われたのが1年前、その時まだ中学生だったユリアンは、学校に支障がないならと引き受けて、それ以来のこのふたりとの付き合いだった。
 戦争で親を失くし、孤児院へ入らざるを得ず、高校まではそこから通えるけれど、その後はひとりで生きろと言われているユリアンに、
 「わたしの大学なら、わたしの家族ってことにして学費の免除の可能性もあるけど、考えてみる? 免除は無理でも、大学関係者の家族には授業料の特別枠があるから。」
 ヤンがユリアンの淹れた紅茶を堪能しながら、何でもないことのように言ったのは、半年ほど経った頃だったろうか。
 おまえさんと同じで、俺も提督も親なしだからな。シェーンコップが、一緒にキッチンで食洗機を空にしながら、ユリアンに言った。亜麻色の髪の、どこかおどおどしたところの見える少年を励ますように、シェーンコップは大きな掌を、そのまだ薄い肩に置いて、とても優雅に微笑んだ。
 いずれ孤児院を出る時の準備に、こうして自分にできる仕事をして金を貯めているユリアンに、ふたりは、一緒に暮らさないかと言った。高校卒業の、その頃にと。
 今すぐだと、わたしがほんとうに甘えて何もしなくなっちゃうから。
 ヤンが顔を赤くして言う。
 初めてこの家を訪れた時に、図書室と呼ばれている部屋が、ほんとうに本で足の踏み場もなくなっていた光景を、ユリアンは今もはっきりと思い出せる。
 ヤンの指示の元、ユリアンとシェーンコップのふたり掛かりですべての本を部屋から出して並べ替え、本棚に収め、さらにユリアンは、ヤンのために目録まで作ってやった。家事の手伝いは頼んだが、本の整理は別だと、シェーンコップが予定の給料の倍をはずんでくれて、固辞しようとしたユリアンに、子どもは大人に甘えるものだと、ふたりは声を揃えたものだ。
 おふたりは、ご自分たちの子どもは、欲しくはなかったんですか。
 ユリアンはある時、不躾と思いながら、そう質問せずにはいられなかった。どこの馬の骨とも分からない孤児を、わざわざ大学へやらせようと考える、この風変わりな夫婦に、そう問い掛けると、シェーンコップが苦笑いする。
 欲しいと思ってできるものでもないのさ、坊や。
 ヤンには聞こえないように、ユリアンにそっと耳打ちして、灰褐色の美しい瞳が、それ以上は何も訊くなと穏やかに告げていたから、ユリアンは赤くなって口をつぐんだ。
 他の誰も立ち入れないような親密な空気の中に閉じこもって、"深く愛し合っている"と言う以外形容のしようもないふたりにも、決してそれだけではない様々の事情があるのだと、まだ幼いユリアンには理解し切れず、帝国との戦争を終わらせたふたりが、けれどそれまでに自分たちが与え、与えられた傷を、ひっそりと抱え込みながら癒そうとしているその姿を、こんな間近に見せている、ごく稀な存在なのだと言う自覚もまだなかった。
 戦争と言うものの記憶は薄く、けれど戦争に両親を奪われ、そんなユリアンを手元に置いて、ふたりは自分たちのしでかしたことを直視して、すでに軍から退いて長いと言うのに、その記憶の薄れることはないのだった。
 罪滅ぼしと言う、都合のいい言い方はしたくはなかった。ただ、自分たちにできることをしよう、自分たちがもう軍に戻らなくて良いように、ユリアンのような若者が軍人になる必要がないように、自分たちの失敗の責任は自分たちで取り、ユリアンたちに負わせないように、そのように行動しよう。それが自分たちにできる精一杯だから。生き残った者には、その責任があるのだから。
 ヤンが朝食の後片付けをユリアンに任せて、上のバスルームへゆく。目覚ましにシャワーを浴び、ローゼンリッターのシャツを着て現れ、そのまま図書室──ヤンの書斎でもある──に消える。
 ユリアンはそれを見送ってから、キッチンの後片付けを済ませ、部屋の掃除を始めた。
 10時の紅茶を差し入れると、ヤンは案の定ワープロソフトの設定で頭を抱えていて、ユリアンはさり気なく、ここはこうするといいですよと、恐らくもう5回は繰り返した同じことをヤンにして見せ、僕がやった方が早いですよと言う言葉は、今はまだ飲み込んでおく。
 床に散らばった紙を拾い上げてまとめて机の片隅に戻し、机の上に放り出されたペン──キャップとばらばらだ──も一箇所に集め、そっと机の上の整理をしてから、置かれたままの紅茶を示して、冷めますよと小さく告げ、また静かに部屋を出てゆく。
 昼食だと声を掛けると、頭痛でもするように顔をしかめたヤンが出て来て、サンドイッチ──シェーンコップに作ったものと同じ──とスープで、これはユリアンも一緒に食べて、後はもう1杯紅茶を飲み、仕事なんか行きたくないなあ、大学より高校の教師の方が、夏休みがちゃんとあってよかったのにと、ユリアンがいれば必ず出る愚痴をひとしきりこぼして、ヤンはやっとのろのろと身支度に掛かる。
 朝そう言った通り、シェーンコップの野戦服の上着をだらしなく羽織り、そうすると男とか女とかと言うよりも、ちょっと不思議な風体の少年のようになるヤン──これでユリアンの母親と言ってもおかしくない年齢だと言うのに──の、だらりと垂れた袖を、ユリアンは苦笑しながら手が出るまで折り返してやる。
 現れた細い手首には地味な、けれど機能的な腕時計が巻かれていて、今朝先に出たシェーンコップが、これと同じデザインの、文字盤はふた回り大きなのを着けていたのをユリアンは知っている。思わず、微笑みが浮かぶのを止められなかった。
 「ペンは?」
 「ある。」
 ポケットを叩いてヤンが言う。
 「車の鍵は?」
 「ある。大丈夫。」
 ちゃらりと手を開いて見せる。
 「IDカードは?」
 「持った。」
 言いながら、長いストラップを首に掛けて大学のIDを下げ、ユリアンに上から下までチェックさせるためにちょっと胸を張って、
 「大丈夫ですね。」
と、ユリアンがGOサインを出すと、ヤンはやっと玄関へ向かうのだった。
 「今日は外から窓ガラスをきれいにするつもりですが、夕方お帰りの時には僕はもういないと思います。」
 「分かった、次は土曜日よね。朝の涼しい内に、芝生の手入れをしたいって、あの人が言ってたから。」
 「分かりました。」
 見送りに、手を振りながら答え、どこにいても周囲を圧するようなシェーンコップを、あの人とごく軽く呼ぶ時のヤンの、何とも言えない声の響きを味わって、ユリアンはゆっくりとドアを閉じる。
 車の発進する音を聞いた瞬間、やれやれと何気なく見回した玄関の片隅に、脱ぎ捨てられた時のまま転がっているスニーカーが目に入る。
 ユリアンは薄茶の目を見開き、そのスニーカーを片手にひっつかむと、ものすごい速さで外に走り出た。
 「提督!忘れ物です!靴!!」
 走り去る車の横っ面に怒鳴ってもヤンには聞こえず、そのまま走り去る車へ、それでも諦めずに手を振ったけれど、ヤンは止まらず行ってしまった。
 けれどユリアンは確信していた。2ブロック先に信号があって、赤信号ならブレーキを踏むだろう、その時に多分、まだスリッパのままなことに気づくはずだ。もっとも、気づいたと言って、履き替えに戻って来るとは限らないのだけれど。
 あの調子のヤンと、この10年、シェーンコップは一体どんな風に暮らして来たのだろうかと、もう何度考えたか分からないことをまた考えて、ユリアンはゆっくり40まで数えた。
 ちょっとスピードを上げて、ヤンの車が戻って来る。思った通りだ。
 「ユリアン!ユリアン!ユリアン! 靴!靴!!」
 助けを求める時、ヤンはユリアンの名を3回続けて呼ぶのだ。
 もう、提督ったら。ユリアンは苦笑を隠さずに止まった車へ近づいて、下りた窓から手にしていたスニーカーを差し入れてやる。
 「気をつけて運転して下さいね、ヤン提督。」
 急いでうなずいて、また車が去ってゆく。ゆっくりと手を振り、ユリアンはまた家の中に戻る。
 さて、ヤン提督の机を片付けたら、裏庭に出て、窓に水を掛けて洗おう。
 今日の残りの予定を頭に思い浮かべながら、さっきのヤンの慌てぶりを思い出して、ユリアンはひとりくすくす笑う。シェーンコップに言ったら、きっと大笑いするだろう。あるいは、そんなのは序の口だと、もっとひどい──面白い──ヤンの失敗を語ってくれるだろうか。
 毎日書いている日記に、ここ1年めっきり増えた、ふたりについてのあれこれを思い出して、ユリアンはまたくすくす笑う。そう言えばこの家に通い始めてから、自分はこんな風に笑うことが増えたなあと、ふたりもそう思っているのだとは知らずに、ユリアンは考えている。
 少し伸び始めた芝生を踏んで玄関へ戻り、何の変哲もない家の、何の変哲もないドアを開けて、何の変哲もない家事の続きのために、少年の背中が吸い込まれてゆく。
 40年後に、その日記が、"家政夫ユリアン・ミンツは見た!"と言う品のないタイトルで出版されそうになるのを、弁護士になったキャゼルヌの長女シャルロット・フィリスが阻止するのだと言うことを、まだ──あるいは永遠に──誰も知らない、何の変哲もない、ある日のハイネセンの午後だった。  

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