魔女の黒髪
乗った時は空だったのに、次に止まった時には、どやどやと人たちが乗り込んで来て、エレベーターの中はたちまちいっぱいになった。シェーンコップは開いた扉の向こうに人の群れを見た瞬間、箱の隅にヤンの背中を押し付けて、ほとんど本能的にヤンを自分の胸にかばうように人の群れに背を向けた。
ヤンはシェーンコップに押されて、頬のどこかに上着のボタンでも当たって痛かったのか、隠しもせず眉をしかめている。シェーンコップはヤンにだけ聞こえる小声で、すみませんと短く言った。
シェーンコップも背中を押されて、ヤンをそれ以上潰さないのに必死だ。
こうして体を近づけるのはそれほど珍しいことではないけれど、エレベーターの小さい箱の中で、他より頭ひとつ半低いヤンはいっそう息苦しげに、喉を伸ばしたい素振りで狭さでそれもできず、ただじっとシェーンコップの胸に顔を埋める形に、人いきれで頬に赤みが差しているのが下目に見えた。
軍服の上着の色とこうして並べば、ヤンの髪はいっそう黒い。時々光の加減で青っぽく見えたり、あるいは上着の色よりさらに深い翠に見えたりもするけれど、ヤンが魔女と呼ばれるのは、その、男の司令官すら躊躇するかもと思われる作戦を何のためらいもなく実行して成功させる手腕と、そしてひとつには、この髪の黒さのせいもあるのだろうと、シェーンコップはヤンを見つめ過ぎないように時々天井を振り仰ぎながら、考えている。
凶悪の象徴とされる黒、ヤンの黒髪、そして闇色の瞳。どこにいても床や壁に容易に同化するような、まったく人目に立たない外見とは裏腹の、鋭く研がれた戦斧のようなその中身。シェーンコップはトマホークで人を殺すけれど、ヤンはその頭脳で人を殺す。
敵も味方も、明らかにヤンを恐れ、同時に、その見掛けのせいで軽んじてもいる。魔女とこの女(ひと)を名付けることで、遠巻きにすること、疎んじることを正当化して、その"魔力"とやらを都合良く使いながら、魔物扱いでヤンを人扱いにはしない。
軍隊で、女であること、女でありながら司令官職に就くこと、どちらもシェーンコップには想像もつかない。その優秀さが無視できないレベルだったことは間違いなく、だからこそ目障りなのも男の何倍なのだろうと、自身もその疎まれる立場だったシェーンコップは、ヤンのことを自分の身に引きつけて考えた。
シェーンコップは、自分が、他人を落ち着かない気分にさせることを自覚している。それを人は魅力的と言うけれど、それで特に得をしたと、人が想像するほどシェーンコップは思ってはいず、むしろ外側のその魅力とやらに、自分の中身がせめて釣り合っていてくれと、ひそかに思う気持ちが強い。
釣り合わせるために、人には見せずに必死になったこともあった。外側に引かれて寄って来る誰彼が、シェーンコップの中身を見て落胆や失望の表情を浮かべる時に、自分が味わった絶望を、シェーンコップは誰にも見せたことがない。
常に快活に振る舞うこと、自分の外見に沿うように行動すること、そうして、少しずつ重ねた無理を爆発させるために、自分は軍隊と言う場所を選んだのかもしれないとひそかに思うことは、軍人として絶対に外へは出さないシェーンコップの本音かもしれなかった。
ヤンは逆に、自分の外見の凡庸さを、人に侮られる欠点ではなく、自分の有能さの隠れ蓑にし、その能力を何倍もに見せることに成功しているようにシェーンコップには思えた。そういう意味では、ヤンの別名がペテン師なのはまったくぴったりだ。
もちろん、その力を余すことなく発揮するためには軍隊では地位と言うものが必要で、そこへたどり着くためには昇進するしかないと、ヤンが自覚的に行動したのかどうかは分からない。発揮する場も必要なら、発揮させてくれる上官に恵まれると言う運も必要だったろう。ヤンが、特にそれに恵まれていた風には見えず、そうなればやはり、ヤンがここまでになったのはヤンがただひたすらに有能だったからだと結論するしかなかった。
下世話に他人──男たち──が思う、いわゆる女の魅力などと言うものからヤンは程遠く、少女めいたと言われても、美少女とは決して言われないことがそれを端的に示していたし、少女と言うのが周囲の精一杯の賛辞で、ヤンへのそれは、少女の持つ中性性と言う魅力が時にふりまく少年──美少年──的と言う言葉すら寄せつけない平凡さだ。
子どもっぽいと言うのは褒め言葉ではなく、ヤンについて言えば、それはほとんど無能と言う言い方に等しい。軍人としての有能さがなければ、その言葉通りに、ヤンはただの無能の人だ。
キャゼルヌに、首から下は役立たずとからかわれても言い返しもしない程度に、ヤン自身がそれを自覚しているのを、シェーンコップは驚きとともに受け止めて、有能である以外の自分を素直に認めると言うことも、ヤンの有能さの一部かもしれないと、その時思ったことを覚えてる。
自分の能力以上を自分に求めない、ヤンのその点には、女としての自分を飾ると言うことも含まれているようで、ヤンから香料の類いの匂いがしたことは一度もなく、今もこんなに体を近寄せても、せいぜい眼下の髪から、素っ気ない支給品のシャンプーの、硬質の匂いがかすかにするだけだった。
丸いつるりとした頬を見れば、化粧が必要ない──それが理由ではないだろうけれど──のがシェーンコップにも分かる。色の浅い唇に、少し濃く口紅でも塗れば恐らくそれだけでヤンのこの見掛けは一変するだろうと想像しながら、それを見て他の男たちが色めき立つならそうして欲しくはないと、行き場のない独占欲が湧いて来るのを止められないシェーンコップだった。
箱の真ん中辺りで、誰かが身じろぎしたのか、人波の揺れがシェーンコップの背中に伝わって来る。それをヤンに及ばさないために、壁へ伸ばした腕にいっそう力を入れると、シェーンコップのその背に向かって、誰かが大きく舌打ちしたのが聞こえた。
「余裕があるならもっと詰めてくれよ。」
明らかに、自分に向かって投げられたそのひとり言へ、シェーンコップは肩越しに振り向いて睨みつける視線を返す。シェーンコップの横顔でそれと見分けたのか、うろたえた声がローゼンリッターと小さくつぶやき、後はまたしんと、エレベーターの中は沈黙した。
以前なら、上着にあったローゼンリッターの腕章だけで、人はシェーンコップを避(よ)けて通ったものだった。なるほど、これが侮られると言うことかと、シェーンコップは誰にも見えないように苦笑する。
ほんの少し、ヤンの立場になった気持ちを味わって、そこでやっと自分たちの目的の階へ着くと、今まで自分の体の陰にすっぽりと隠れていたヤンを、シェーンコップはわざと周囲に見えるように伸ばした腕で囲うようにして、人をかき分けてエレベーターを降りた。
通りながら箱の中へ、司令官が同乗していたのだと初めて気づいたささやきが流れ、閉じた扉の向こうで、きっと安堵の吐息があったことだろうとシェーンコップは人の悪い笑みを浮かべる。
「ひとりでは降りられなかったかも。」
ヤンが小さな肩をすくめて見せる。まだ頬がかすかに赤い。
「でしょうな。」
シェーンコップも否定せずに、同じように肩をすくめた。
おおかた隅で押し潰されて、下ろしてと言ったところで声も聞き取ってはもらえずに、皆が降りるまで身動きひとつできなかったろうことは想像に難くない。
だからこそ、この女(ひと)の傍をできれば片時も離れたくない、悪目立ちする自分といた方がいいのだと手前勝手に思いながら、ヤンを甘やかして自分がいなければ何もできないようにしたいのだと言う、下らない自分の願望は声の底へ押し隠した。
ありがとう、では後でと、ヤンが自分の執務室の方へ歩き出す。誰もいない通路を、小さな背中が去ってゆくのを6秒眺めて、シェーンコップも肩を回した。
ヤンの頬があった辺りへ、シェーンコップはふと指先を伸ばした。化粧で上着が汚れる心配もない。それへ小さく笑いをこぼした時、指先に触れるものがあって、シェーンコップは何だとあごを引いた。
上着のボタンに引っ掛かった、ヤンの髪がそこにひと筋。指の腹をくっきりと横切る黒の鮮やかさに、シェーンコップは思わず足を止めて目を凝らした。
魔女の黒髪。凶々しさの象徴。けれど大切な人の髪はお守りになるのだと言う言い伝えを思い出して、彼女自身が自分のお守りであり、自分は彼女の守護者なのだと、奇妙な真摯さで思いつく。
守る以外でヤンを抱きしめることは許されずに、それ以外で抱き寄せたところで、あの女(ひと)はどうかしたかと、ただ意外そうにシェーンコップを見上げるだけだろう。
ひと睨みで辺りを震え上がらせるローゼンリッターの、小さな弱み。薔薇の騎士の守る、黒髪の小さな魔女。
シェーンコップは振り返り、もうそこにはないヤンの背中を視線の先へ探して、もう一度小さく笑みをこぼした。