魔女の災難
ヤンはシェーンコップの少し前を歩き、右肩と左肩が重なって触れ合わない程度の距離があった。何か言い掛けて、ヤンはシェーンコップを斜めに見上げ、シェーンコップは少し距離のあるヤンの声を聞き取るためにそちらへ顔を向け、だから正面に、下士官らしいふたりが立ち話をしていて、近づく足音に気づいて軽くこちらを向き、シェーンコップを見て敬礼のための腕を振り上げる、その仕草にふたりとも気づかなかった。
ヤンとシェーンコップに背を向けていた方が、シェーンコップを見分けて慌てたのかどうか、少し大きな動きで肩を回し、同じ動きで腕を振り、その腕がヤンの胸に当たったのは完全に事故だった。
大した強さでもなかったのに、ヤンは濁った声を上げて後ろに吹っ飛んだ。彼はヤンが見えなかったのか、自分の腕に伝わる衝動と、ヤンの悲鳴で何かが起こったことにはすぐ気づき、けれど通路の壁に当たってそこにもたれる形に坐り込んだヤンがしばらく視界に入らず、何が起こったのか把握したのは、
「閣下!」
シェーンコップが声を荒げてヤンの前へしゃがみ込み、その大きな背中越しに自分を睨み上げて来た時だった。そうしてやっと彼は、申し訳ありませんと、ヤンではなくシェーンコップへ向かって震える声で言った。言った後で、彼は自分が事故を起こした相手が誰かようやく悟って、真っ白に血の気の引いた顔色を晒す。
ヤンは腕のぶつかった胸を押さえ、まだうめいている。骨でも折れたのかと思うようなヤンの痛がりように、男たち3人はただおろおろとヤンを眺めて、ヤンが大丈夫とやっと小さく言うと、ほっとした空気がそこに流れた。
そしてヤンが、壁際についていた左手を持ち上げた途端、
「閣下、血が──」
シェーンコップの声がいっそう低まって、ヤンは言われて自分の手を見て、そこが血まみれになっているのに気づいて目を丸くする。
え、と手を見、自分の胸元を見、手のあった場所を見て、体をねじるとまだ胸が痛むのか、ヤンは顔を歪めて、そうしながら出血の理由を探している。
合点が行かず戸惑うだけのヤンへ、失礼、とシェーンコップが短く言い、ヤンの返事も聞かずに上着の前をさっさと開き、その下から現れたスカーフにもシャツにも血などないことを確かめて、やっと浅く安堵の息をこぼす。
それから、鬼の形相で天井を見回し、見つけた監視カメラを指差して、
「貴様ら、姓名と階級と所属をあのカメラに向かって言え。」
顔色を失くした男たちふたりが、痛いほど背筋を伸ばしてカメラに向かって言われた通りにする間に、シェーンコップは自分のスカーフを首から抜き、それでヤンの出血の元の指先を縛った。
「単なる事故なのに、シェーンコップ。」
「じきに警備兵が来ますよ。このまま行ったら大事(おおごと)になるのは彼らの方です。」
シェーンコップは流れた血が、ヤンのシャツの袖やスラックスの腿を汚したのに、自分が痛いように顔をしかめて、それから、通路の血の跡をたどって、赤く染まった、その流血の原因らしい場所を見つける。壁と、通路に敷かれた鉄板の、ごくごくわずかな隙間。倒れた時にそこへ指先を挟まれて、縁でざっくりと切ったらしいのが恐らくこの出血の原因だ。
隙間の狭さとヤンの指先の小ささと、確かにこれは完全に事故だ。やれやれとシェーンコップは首を振り、
「立てますか。」
言いながらヤンの腕を引いて、体を起こすのを助けた。
「警備兵が来たら事情を説明しろ。俺たちは医務室に行ったと言え。」
自分に向ける顔と、下士官たちに向ける形相と、別人かと思うような変化にヤンは目を丸くして、シェーンコップが自分の背中を押して促すのに、その場に残されて直立不動で自分たちを見送る彼らへ、シェーンコップに見えないようにこっそりと、気にしないでと言う風にスカーフを巻かれた手を振って見せた。
歩きながらヤンは片腕で胸をかばうように抱え、
「痛みますか。」
「歩くだけでも痛いけど、これは彼らのせいじゃないよ。」
シェーンコップがよく分からないと言う顔をするのに、ヤンはそれ以上説明をしなかった。
胸が女の急所だと言うのは、軍戦科の初年に習ったことはある。女性兵士のいない帝国軍相手では必要ない知識だったけれど。初めて寝た女から3、4人目までにも、女の体に触る時──胸もだ──には、脆い硝子細工のつもりで触れと散々言われたことをシェーンコップは今思い出している。どの程度痛いものかは男には分からないし、男の急所の痛みが女に分からないのと同じだと、シェーンコップはヤンにはそれきり何も訊かずに黙った。
振った腕が当たった程度で、まさか骨折はあるまいと思った通り、ヤンの痛がりようはともかくも、軍医はヤンのシャツの中を調べて痣もないことを確かめて──シェーンコップは診察室のいちばん端で、引かれたカーテン越しにその会話を聞いていた──、指の傷の方がよほど重傷だと、そちらは消毒に抗生物質の注射にと、少しばかり騒ぎが続いた。
左手の小指と薬指の、爪のすぐ下がざっくりと切れ、2本まとめて包帯の巻かれた手は、その小ささのせいで手当てが余計に大仰に見えて、痛々しいことこの上ない。
シェーンコップは、自分の怪我のように、ずっと眉を寄せた表情のままだ。
「右手じゃなくて良かった。」
ヤンは心配そうなシェーンコップに気を使ってかそんな言い方をして、診察台の上に坐ったまま床に届かない爪先をふらふらさせる。
「痛み止めはもらいましたか。」
浅くうなずいて、
「傷にさわるから、薬を飲んでる間はお酒は控えろって。」
それがいちばん癪に障ると言う風にヤンが言うのに、シェーンコップはやっと眉の間を開いて苦笑を刷いて見せた。
もう行ってもいいと言われ、軍医に外されたスカーフやネクタイを振り返りながら、ヤンはもたもたと、診察のために医者が外したシャツのボタンをとめ始めた。
両手の指が揃っている普段も見ていてまどろっこしい動きなのに、指の数が足りない上に今は痛みもあってか、いつも以上に指先の小さな作業に時間が掛かる。
嵩張る上着を脱ぎ、スカーフもネクタイもないシャツ姿になると、ヤンの小柄が目立って、そのくせ胸の辺りや腰回りが驚くほど豊かなのが露わになり、シェーンコップは目のやり場に困って床に視線を伏せた。
いつまで経ってもボタンがボタン穴にうまく入らないのに、ついにシェーンコップはしびれを切らしたようにヤンへ向かって腕を差し出し、
「失礼。」
有無を言わせずヤンの指先をそこから払うと、ヤンのシャツのボタンをとめ始めた。
ヤンはあごを引いてシェーンコップの指の動きを見て、
「・・・ごめん。」
「貴女のせいじゃありませんよ。小指が使えないと、こういうことはうまくできないものです。」
ふうん、とヤンが小さくうなずいた。
襟の小さなボタンに取り掛かって、前を合わせてもまだ首回りが余る。そのくせ胸回りはボタンとボタンの間が開き気味に、このシャツを仕立てたのはどこのどいつだと、シェーンコップは見知らぬどこかの誰かに八つ当たりをしながら、ついシャツの内側へ滑り込みそうになる自分の視線に、ヤンが気づいてはいないかとひやひやしている。
「でも、あの彼らのせいでもないよ。」
シェーンコップのさっきの怒りようをたしなめるためかどうか、ヤンが少し威厳を取り戻した声で言う。
「事故は事故ですが、貴女が怪我をしたと言うのは事実です。」
「わたしが男だったら起こらなかった怪我だね。」
静かにヤンが言うのに、シェーンコップは言い返さなかった。それが肯定になった。
ヤンが他の誰にもこんな言い方をしないのを、シェーンコップは知っている。すべてを愚痴にするわけではないにせよ、体格で劣る──他の女性軍人たちよりも──のを、ヤンはシェーンコップには時々ぼやく。シェーンコップが傍にいて、ヤンを護るように行動すればするほど、ヤンは自分の非力を思い知る。それを補って余りある智略だとは自覚していても、周囲の誰もヤンに体力など求めていないことを知っていても、シェーンコップのような男が傍にいれば、軍人としての足りなさに心をちくちく刺されるのかもしれない。
シェーンコップのような軍人たち──体力自慢の男たち──は、逆にヤンの明敏さに劣等感を刺激されるのだろうけれど。だからこそヤンを魔女と呼んで、その憂さ晴らしをするのだ。
シャツが元通りになると、ヤンは自分の後ろを振り返り、怪我のない方の手を伸ばしてネクタイとスカーフを取り上げる。それを手にしてから、今気づいたと言う風に、
「スカーフ、だめにしてしまったね。」
シェーンコップが応急処置に使い、血で汚れたスカーフのことをヤンが不意に持ち出して、そう言えば襟元が何だか寒かったなと、シェーンコップはやっとそのことを思い出した。
手当ての時に医者が始末したのかどうか、シェーンコップのスカーフはどこにも見当たらない。
「これで──。」
ヤンは自分のスカーフをシェーンコップへ差し出し、受け取るように促した。
「替えならちゃんとありますよ。」
「いいから。」
こちらの手に押し付けるようにして来るのに、シェーンコップは渋々と言う体で取り上げ、ヤンの見ている前できちんとそれを首に巻く。ヤンのスカーフだと意識すると、触れている首筋がくすぐったくなるのに、シェーンコップは必死で上がりそうになる口辺を引き締めた。
それから、ヤンが診察台から降りるのに手を貸し、そこに置かれていたヤンの上着を取り上げて、着せ掛けようとしてから、ヤンのスラックスの血の汚れに目を止めた。
血まみれなのはいかにも物騒だ。シェーンコップは数瞬考えてから、自分の上着を脱いだ。
「こっちを。」
どうして、とヤンが自分を見上げて来るのに、シェーンコップは言う通りにしろと目顔で伝えて、ヤンの狭い肩に自分の上着を乗せる。
シェーンコップの上着の裾はヤンの腿半ばにも届きそうに、それならスラックスの血痕は隠れて、包帯の巻かれた手もすっぽりと覆われる。
自分の体を見下ろして、ヤンは面白くなさげに唇を尖らせた。
「これ、重い・・・。」
腕を持ち上げると、シェーンコップが着れば肘のある辺りに、ヤンが自分の指先を示して見せる。少なくとも2サイズ──下手をするともっと──上だ、ヤンの上着より倍くらい重く感じられても不思議はない。一方シェーンコップの腕に掛かったヤンのそれは、スカーフ1枚よりも存在感がない。
「あちこち血だらけで歩き回るよりましでしょう。」
シェーンコップが行きましょうと先に立つのに、ヤンはのろのろとついて来た。
テントでも着ているような様で、それでも胸の線が隠れ切らず、背の低さのせいでそれが多分誰の視界にも入らないだろうことを、シェーンコップは内心で感謝しながら、そこから普段にない不器用さで視線を外す。
「まだ痛みますか。」
ヤンが、襟に埋もれた首を振る。大きな上着のいかにも重たげな姿では、そんな仕草がいっそう子どもめいて、シェーンコップは怪我をしているヤンをいつも以上に辺りからかばうように傍らに立って、無意識にヤンの背中へ自分の手を添えたままだった。
ヤンに自分の上着を着せ、自分はヤンのスカーフを巻き、腕にはヤンの上着を持ち、警備兵に事の次第を説明する時に、自分がどんな顔をするか想像もできない。
ヤンに怪我をさせたあの下士官たちを、同じ程度に痛い目に遭わせたい気持ちの底に、ごくごくかすかに、この状況に感謝をしたい自分を見つけて、シェーンコップは今この世の誰よりも自分をぶん殴りたい気分を味わっている。
ヤンが魔女なら、自分は性悪の悪魔だ。そして恐らく、魔女のお守りなら、聖人君子よりもその方がふさわしいのだろう。
いつもよりゆっくり歩くヤンへ歩幅を合わせて、ふたりで歩くこの通路が永遠に続けばいいのにと、シェーンコップは思った。