魔女のささくれ
朝からあちこちに引っ掛けていた右手の人差指のささくれが、ついにひどく裂けて血を流し始め、ヤンは思わずその指先を口に含んで、放り出したペンを使えもしないのに左手に持って、忌々しげに鉄の味を舐め取っていた。そこへ、もう敬礼もせずに入室の声だけ掛けながらシェーンコップが入って来て、眉を寄せたヤンの不興の表情へ、形の良い眉を片方だけ吊り上げる。
「どうしましたか。」
手にした書類をまだ差し出さずに、そう問われてヤンはやっと口から指を抜き出し、
「ささくれ──。」
そう単語だけで言い捨て、また指先を口の中に戻す。
始終紙をいじり、空いた時間には本を読んでいるせいで、恐らく指先がいつも乾いているのだろう。ヤンが、尖らせた唇の間で血を舐め取っているらしい舌の動きから、シェーンコップはさり気なく視線をずらし、
「舐めても治りませんよ。」
平たい声で言うまでもないことを言うと、ヤンがまた指を口から外し、いいっと歯を剥いて見せる。
シェーンコップにだけ見せるこんな態度かどうか、大きな椅子の中に埋もれればいっそう子どもっぽく見える、傷ついた指を吸うヤンの仕草に、シェーンコップはやれやれと小さくため息をつき、ヤンが持って来た書類に向かって、渡せと手を伸ばすのを、避けるようにわざとデスクのこちら側へ書類を置く──ヤンでは腕を伸ばし切っても届かない──と、シェーンコップはごそごそと上着の胸ポケットを探った。
利き手ではない方で書類にサインするつもりかと、シェーンコップもヤンの態度に少しだけ苛立ちながら、小さなチューブをそこから取り出す。
シェーンコップは手を伸ばし、黙ってヤンの手を取った。ふたを取ったチューブの中身をたっぷりとその掌の上に出して、あごをしゃくる。
「塗れば少しはましでしょう。」
そう言われて、ヤンはのろのろと唇の間から指を抜き取り、両手に、出された白いクリームを丁寧にすり込み始めた。
皮膚の上になめらかに伸びるそれがハンドクリームと分かると、指先には特に丁寧に塗り込んで、ヤンはうつむいたまま、ありがとうとシェーンコップに言った。
それから続けて、
「そんなの、いつも持ち歩いてるの。」
塗りたてで、少し光る自分の手を不思議そうに見ながら、ヤンが訊く。手の手入れなど思いもしないヤンは、シェーンコップがハンドクリームなどポケットに入れているのが思いがけなかった。
「我々は、小さな傷が命取りになりかねませんからな。」
その声がまるでよく光る戦斧のように、シェーンコップが答えた。
武器を手にするのに、たとえ指先でも痛むのは困る、最前線へ放り込まれる陸戦兵士の、もっともな物言いだ。
ヤンは思わず首をすくめ、ああそう、ともごもご口の中で言う。自分の面倒くさがりと、シェーンコップたちに比べればずいぶんと気楽な立場──別の大変さがもちろんあるけれど──を指摘されたのだと素直に悟って、それ以上言い返すのはやめにした。
携えて来た書類を、今度はヤンの目の前に置き直し、シェーンコップはお大事にと言い残して立ち去る。
その背が消える頃には、ヤンのささくれは、もう血も止まり、疼く痛みも失せていた。
それから数日後、いつものようにヤンが遅刻ぎりぎりの時間に執務室へ着くと、机の上にクリームの大きなチューブが置いてあった。
"お気に召せば幸い"と、流れるような筆跡で書かれたメモが添えられ、書き文字の割りには最後に素っ気なく記されたSと言うイニシャルで、それがシェーンコップからのものだと悟ると、ヤンは驚きに目を丸くして、淡い紫の文字で飾られた、何やら洒落た意匠のそれをまじまじと見つめた。
自分でなら絶対にこんなものは選ばないヤンは、気取った容器のデザインが物珍しくて、表と裏を何度も引っ繰り返し、それからやっとふたを取って、こわごわ中身を手の甲へ軽く絞り出す。
塗り広げるとすっと皮膚に馴染んでゆくそれは、塗り終わってべたつくこともなく、さらさらのままの指先を、ヤンは思わずすり合わせて驚いた。
それから、手の甲へ鼻先を近づけて、
「・・・いい匂い。」
甘過ぎない、爽やかさを含んだ香りへ目を細めて、毎朝の、残る疲れが泥になって頭の中に詰まったような重さが、すっと遠ざかるのを感じた。
身に着けるあらゆるものに興味がなく、こんなささやかさで気分を明るくすると言う習慣のないヤンは、たかが香りひとつで自分の気分が浮き立つのが珍しくて、おまけにこれが他人から与えられたもので、それを自分が気に入ったと言うことにも、知らずはしゃいでいる。
シェーンコップは趣味がいいなあ。そう思ってから、別にヤンのためにわざわざ選んだものとも限らないと思いついて、他の誰かに渡すつもりで手に入れて、果たせずそのままになっていただけかもしれないと思ったけれど、香りと手のなめらかさですでに上機嫌のヤンは、それならそれでもと大して気にもせず、次に会ったら礼を言おうと上の空で考える。
ヤンはもう一度、大振りのクリームのチューブを取り上げ、今度はほんの少しだけ掌のくぼみへ取り出し、濃い泡のようなそれへ、匂いを確かめるために鼻先を寄せた。
確かな甘さが、鼻から抜けて、そこから頭の中の疲れを切り取ってゆく。含まれる軽やかさが、何かのスイッチでも押したように、ヤンの気分を清涼にした。
「いい匂い。」
もう一度、今度はもっと軽くつぶやいて、ヤンはやっとその白い固まりを手に塗り込んだ。
指を動かしただけで、香りがかすかに立つ。主張はし過ぎないそれへ、ヤンはちょっとうきうきしながら、こんなのもたまにはいいと、珍しく明るい素直な笑顔を浮かべている。
それから不意に思いついて、ヤンはそのチューブを手に執務室を飛び出した。
足早に司令室へ向かう途中で、通りすがりの誰かが自分へ敬礼するのに、おざなりの返礼をして足を止めず、いつも髪の重い暗さに引きずられたように、何となく辺りを重苦しくする魔女が、今朝は軽やかに──半分は世辞だ──通り過ぎてゆくのに、その誰かは不思議そうにヤンの小さな背中を見送った。
ヤンは司令室へ着くと、思った通りそこにいたパトリチェフへ駆け寄って、その指の短い丸い掌を差し出すようにと、弾む声で言った。
「手、ですか。」
パトリチェフは自分の両手を顔の前に上げて、丸い体の見掛けそのままの手を、ヤンへ向かってそっと出す。
ヤンはその手に持って来たクリームをたっぷりと出し──シェーンコップが、自分にそうしたように──、早く塗って、と催促する。
はあ、とパトリチェフは、縦も横も自分の四分の一くらいしかない上官の言う通りに、両手をこすり合わせた。
「いい匂いですな。」
指先を絡めながら、パトリチェフがまんざらでもなさそうに言うと、
「でしょう。」
と、自分と同じように、いつもささくれに困っている部下へ、ヤンはぱっと顔を輝かせた。
「やっぱり指先くらいは大事にしないと。」
シェーンコップからの受け売りとは自覚もせず、ヤンはささくれ仲間のパトリチェフへ、上官らしくちょっと胸を張って言った。
はあと、パトリチェフは相槌を打って、魔女の珍しい浮かれように、このクリームにまさか麻薬でも入ってるのかと、クリームを吸って光る、自分の爪のすねたように小さな、いつも荒れている指先を見下ろして、内心の疑惑は隠しておくことにした。
パトリチェフと同じように、ヤンも自分の手を物珍しげに見下ろし、
「ほんとにいい匂い。」
楽しげに言うのに、パトリチェフは何となく詮索するのが憚られて、いつものヤンにはまったく不似合いな、このいい匂いのクリームは一体どうしたんだと訊き損ねてしまった。
ヤンはささくれ仲間へのささやかなお裾分けとクリームの香りを楽しんで、その日1日ご機嫌なままだった。
近頃魔女が妙に明るく朗らかで、そしてパトリチェフと魔女が何だか同じ匂いをさせていると言う噂が流れ、シェーンコップが真実を知るまで数日間、ローゼンリッターたちが死ぬほどしごかれたのはまた別の話。