魔女の愚痴
本を読みながら、ヤンは行儀悪くもそもそ小さなマフィンを食べている。ちょっと甘過ぎるなあと思いながら紅茶の紙コップに手を伸ばした時、目の前に、昼食らしいトレイを持った人影が立った。「ヤン、お前、昼メシは?」
いいかと訊きもせず目の前に坐るキャゼルヌのメニューは、サラダにスープにサンドイッチ、どう見てもヤンよりは栄養を考えた内容だ。ヤンはマフィから唇を少し離して、ごまかすように小さな肩をすくめた。
「またそれだけか。ちゃんと食え。」
「食欲がないんです。」
食べ掛けのマフィンをそこに置いて本を閉じ、ヤンはキャゼルヌから視線を外して紅茶をひと口飲んだ。
仕事が詰まって来るといつもこれだ。食欲が失せて、眠れなくなる。ただでさえ普段から不眠気味なのに、1日中頭の中が休まる時がなく、こうしてカフェテリアの隅で、ただ本を手にひとりになるのがヤンにとってはいちばんの休養だった。
その時間をキャゼルヌに邪魔されたとは思わずに、心配顔の先輩へ、ヤンは無理に作った笑顔を見せて、おどけたようにキャゼルヌのサラダへ指を伸ばす振りをする。
「料理上手なご夫人のいる先輩じゃあるまいし、独り者には独り者の処し方があるんです。」
美しいキャゼルヌ夫人、オルタンスへのヤンの賛辞は決して世辞ではなく、過去何度も招かれて振る舞われる料理へ、ヤンは目を輝かせたものだ。
キャゼルヌは、サラダのボウルを手元に引き寄せて、ドレッシングを控え目に掛けたそれをまずひと口食べた。
「シェーンコップはどうした、今日は一緒じゃないのか。」
護衛役として、ヤンの影のように、見掛けるたび傍にいるシェーンコップの姿は、今はこのカフェテリアのどこにもなく、
「ローゼンリッターの訓練にくっついてるみたいです。」
ヤンは疲れている特有の感情のこもらない声で答えて、やっと残りのマフィンへそっと歯を立てた。
「あいつも忙しいな。」
「忙しいくらいでちょうどいいでしょう。わたしに四六時中ひっついてたって、面白くもないだろうし。」
射撃の腕も身体能力も壊滅的で、おまけに他人の思惑に病的に疎い──無関心な──ヤンが、ぞろぞろ護衛を引き連れて歩くなんて真っ平ごめんと言い放った時に、ぞろぞろでないならいいわけですねと、シェーンコップはあの良く通る声で、ほとんど脅しつけるように言って、以来護衛役と称して常にヤンの傍らにいる。
もちろん常とは言っても24時間ではないし、シェーンコップの仕事の合間にだから、数日、あるいはそれ以上顔を合わせないこともある。案外事務処理の能力も高いシェーンコップは、自分の仕事はできるだけ手早く片付けて、その合間の時間をヤンのために使うのをたまに超過勤務とからかって言いながら、意外な生真面目さでその役を勤めていた。
ヤンの方は、どちらかと言えばひとりの時間が欲しいタイプだったから、一緒の時は背中に張り付くようにしているシェーンコップを半ばは鬱陶しがりながら、シェーンコップと一緒にいる便利さもまた捨て難い自分を見つけて、やや自己嫌悪と言うところだ。
気の置けないキャゼルヌ相手、しかも言っていいこととまずいことの区別をつける分別もたっぷりとある先輩相手に、せっかくの休憩中なら仕事の話は避けて、ヤンはここぞとばかりにシェーンコップの愚痴をこぼし始めた。曰く、
「わたしが転んだら、"提督、ドジが過ぎますな。"」
シェーンコップの台詞のところは、ちゃんと声も口調も顔も真似て見せる。キャゼルヌは、うっかり吹き出しそうになった。
「棚に手が届かなくて背伸びしてたら、無理して倒れる前に人を呼べっていちいちうるさいし。呼べって言うから、呼んで'あれ'を取ってって頼んだら──」
ヤンが、上を指差し、それから、目の前へ腕を伸ばして何かを取る仕草をした。
「"'これ'ですか提督"って──どうせわたしの"手が届かない"は、向こうの"目の前"ですよ。そのくせ、わたしがここにあるよって言うと、どこですかって言うんですよ。わたしが目の前を指差してるのに、向こうは見えないって・・・。」
それについては、幼い娘のふたりいるキャゼルヌには、身長のせいの視界の違いとしてすんなり理解できて、それでも子どもがいなければ自分は自分以外の視界になど気づきもしなかったなと、小柄なヤンとの付き合いも長いのに、キャゼルヌはそんなことを考えた。
そう言えば、キッチンに入るとオルタンスがそこにあると言うものが、キャゼルヌには見えないことがよくある。そういうことだ。他人と親しく生活を共有したことのないヤン──そして恐らくシェーンコップにも──には、分かりにくいことなのかもしれない。
あれこれその他にも、何やらシェーンコップが傍にいて気に食わないことを、ヤンは延々と並べ続けて、キャゼルヌはその大半を聞き流しながらも、このふたりは戦闘以外の場では相性が悪いのかもしれない、それなら対策を講じた方がと、まるで仕事のように考えている。
「自分ができないことを全部さらっとやってしまえる人間と一緒にいると、自分の無能さがいやになりますよまったく。」
「首から下は役立たずって、お前さんとっくに分かってるだろうそんなこと。」
「分かってるのと、現実にそれを見せつけられるのは全然違います。」
そうやって唇を尖らせるヤンも、士官学校では戦闘シュミレーションの授業で同期生たちを叩きのめして、彼らに現実を思い知らせたものだ。おまけに、勝った当人は嬉しがりも威張り散らしもせず、勝っちゃった、とぼそぼそ誰よりも意外そうにつぶやくだけで、それがどれだけ周囲の神経を逆撫でしたか、いまだ本人は自覚がないらしい。
ヤンに大敗した連中は、ヤンをクソチビだのクソアマだの言って悔しがり、実技は女子の基準ですら最低レベルだったヤンを、それなら実力行使で叩き潰そうとしていると言う不穏な噂も流れて、当時の校長だったシトレが暴力沙汰の加害者は問答無用で退校処分と突然全校生徒に向かって言い渡したこともあった。
持ち出し厳禁の稀少本を何とか図書館から借り出せたとうれしそうに報告に来て、ケンカなんて面倒くさいですよね、みんなヒマだなあと、自分がその渦中にいるとも思わないらしいヤンがのどかに言ったのに、キャゼルヌは呆れて何も言えなかった。
お前は全然変わらないな。スープをゆっくりと口に運びながらキャゼルヌは思う。クソチビだのクソガキだのから、魔女と畏怖を込めた呼ばれ方へ変わっても、キャゼルヌにとっては、あれこれ足りずに見ていて危なっかしい中身は一向に変化がない。できる部下を正しく使えるのも司令官の器だと、言ってやっても多分素直には聞かないのだろう。褒め言葉には、いつも戸惑いで反応するヤンだった。
ヤンは小さなマフィンをやっと食べ終わり、マフィンに巻かれていた薄紙を、手持ち無沙汰に小さく折りたたんで、
「わたしが男でも、あんな有能な軍人になれた可能性はありませんけど──わたしが無能な分がきっと全部あっちに回ったんですね。生まれ変わったら絶対リンツ少佐みたいになってやる・・・。」
「なんでリンツだ。」
「リンツの方が、シェーンコップより身長が高いんです。リンツなら、もしかしたら、全力だったら白兵戦でシェーンコップに勝てるかもしれないし。」
もう相槌を打つ気もなくして、キャゼルヌはサンドイッチへ手を付けた。
「背ばっかり高くてもしょうがないぞ。特にお前みたいなのじゃ、ウドの大木に木偶の坊がオチだ。」
「でもせめて身長でもあれば、先輩みたいに素敵な人と結婚できるかもしれないじゃないですか。」
「俺が身長だけで結婚できたみたいな言い方するな。なんだお前、オルタンスみたいなのと結婚したいのか。」
「夫人て言うわけじゃないです。でも、あんな風にこまやかに自分を気遣ってくれる人と人生を共にできたらいいなって──」
いかにも羨ましげに、ヤンがキャゼルヌを上目ににらむ。
結婚と言うものについて、夫婦の関係について、キャゼルヌにはキャゼルヌの言い分があるのだけれど、娘のふたりいる既婚者としてはまずまずに違いない人生を得ているキャゼルヌは、浮いた話ひとつない、発生させる気もないヤンに反論もできなかった。
身長だけで良い配偶者が見つかるわけではないし、ヤンの場合はそれ以前の話だと、もう何度も説教したことをここで蒸し返す気にもならず、ヤンの恋愛事情についてはすでに諦めの境地のキャゼルヌは、自分を気遣ってくれる人云々の前に、自分をまず気遣えるようになれと、まだマフィンの薄紙をいじっているヤンの手元をちらりと見て、サンドイッチでため息の口元を隠した。
「で、最近、ちゃんと眠れてるのか。」
疲れてはいるようだけれど、目の下の隈がいつもよりは薄いように見えるヤンへ向かって訊く。ヤンはちょっと首を傾げ、
「まあまあ、かな。ラベンダーのスプレーを使い始めてから、多分。」
「ラベンダー?」
不眠と言って、薬を使ってそれを解消するわけに行かないヤンは、もっぱら酒を睡眠薬代わりにしていて、その量が増えれば当然体に響く。酒で解消できる不眠にも限度があるし、体を壊す前に酒は減らせと、キャゼルヌも口を酸っぱくして言い続けていた。
それにしても、酒の名前ならともかく、ヤンの口からラベンダーなどと言う言葉が出て来るとは思わず、キャゼルヌはうっかり目を丸くした。
「安眠に効果があるんだそうです。寝る前に、枕とかシーツに使って──」
スプレーを噴射させる手付きをヤンが見せるのに、へえ、とサンドイッチの包みを丸めてトレイに放り、キャゼルヌはヤンの手元から、マフィンの薄紙を取り上げて、それも一緒にトレイの上に放った。
「お前がそんなもの使うとはな。」
「シェーンコップからもらったんです。効けば幸い、効かなくてもお酒ほど毒にはならないからって。効いてなくても、いい香りがするのは気分が落ち着いて悪くないです。」
またシェーンコップか、とキャゼルヌは思わず口の中でつぶやく。ついさっき、あの男が目の前にいるのが鬱陶しいと言わなかったかお前。
「まあ、眠れてるなら何でもいい。」
口にはせずに、ヤンの保護者と言う態度を隠したことはないキャゼルヌは、何となく喉の奥に骨でも引っ掛かったような気分になって、つい話を断ち切るような言い方をする。
「昼メシはそれっきりみたいだが、夕食くらいちゃんと食えよ。それともまたウチに来るか。オルタンスに都合を訊いて──」
「あ、大丈夫です。」
今度はヤンの方が、キャゼルヌを途中で遮った。
「ローゼンリッターの隊員たちの栄養管理のついでにって、シェーンコップがわたしにも食事が届くように手配してくれてて──たまにですけどね。ちゃんと自炊もしてますよ。」
自炊をしていると言う方をより強調して、ヤンがちょっと胸を張る。大方それも、シェーンコップにうるさく言われてのことだろう。
今度こそ、キャゼルヌのこめかみに、うっすら青筋が立った。
おい、ヤン、お前、何が自分を気遣ってくれる人だ、それだけ構われて、何が自分の無能を見せつけられるだ。シェーンコップ、お前さんも、こいつを甘やかすのもいい加減にしとけ。
そういう自分が、ヤンを散々甘やかして来たのを棚上げして、シェーンコップが傍にいるのがストレスになるなら、俺からひと言言ってやってもいいぞと言おうと思っていた気持ちを外されて、キャゼルヌはすべてが馬鹿らしくなる。
なんだお前ら。
既婚者が、配偶者の愚痴を言いながら最後には結局惚気に帰結する、既視感。こいつらもっと事務的な関係じゃなかったのか。
それでも、周囲の女たちが放っておかない、本人も女はよりどりみどりと言う態度を隠さないシェーンコップに限って、よりによって、ヤンに対してどうのこうのはないだろうとキャゼルヌは思った。
間近でこのだらしなさを見ると、どうしても世話を焼かずにいられなくなる、シェーンコップも、ヤンの無意識の術中にはまっただけか。しかしあの男がな。キャゼルヌはトレイを持ち上げるために端に両手を掛けながら、シェーンコップの意外な面を見たような気がして、けれど苦笑よりも何か心配の方が強い感情が沸いて来る。
ヤンを見た目で判断して、中身の明晰さに驚いて苦手がる──率直に、憎みもする──者たちと、それに魅かれて、私人のヤンのだらしなさを受け入れる者たちと、ある意味ではヤンは、そうと自覚してかどうか、そうやって自分の周囲に置く人間を選別している。有能さの部分により重きを置いて、ヤンの私的な部分にはあまり興味のない面々──とは言え、ヤンは十分に、人として部下たちに好かれているし、人間としての無能さを隠さないヤンは、それによってこんな環境ではありがちな、安直な異性への反応──大抵、問題ばかり起こす──と言うものを巧く避けているとキャゼルヌは常に理解していた。
避け過ぎて、今の今まで、キャゼルヌが知る限り1度も、片思いレベルの話すらないのはどうかと自称保護者としては思いながら、こればっかりはどうしようもないからなと、キャゼルヌはトレイを手にゆっくりと立ち上がる。
まるで入れ替わりのように、紙コップを手に、向こうからヤンのボディーガードがやって来た。
おう、とキャゼルヌが、驚きを出さずに目顔で挨拶すると、シェーンコップも同じ素振りを返して来て、何も言わずにヤンの後ろから腕を伸ばし、携えて来た紙コップと、ヤンの傍らにずっとあった紙コップを取り替える。
ありがとうと素直にヤンは言い、すぐに口をつけると言うことは、それが紅茶と分かり切っていると言うことだ。
さらにまだ黙ったまま、シェーンコップは紙ナプキンをヤンに手渡し、ヤンはそれを、テーブルの端に置いておいた本のページをぱらぱらとめくって、中に挟んだ。
キャゼルヌは何か、見てはいけないものを見たような心持ちで、じゃあなと言い切る前にふたりに背を向ける。
シェーンコップがヤンの隣りに腰を下ろし、どうやらローゼンリッター絡みの話を始めたようだった。奇妙に近々と体を寄せ、けれど上官と部下、軍人同士と言う以外の匂いは一切なく、ないにも関わらず、何か近寄りがたいふたりの間の空気を、キャゼルヌはどう理解していいものか分からず、なぜか唐突に妻であるオルタンスが恋しくなって、今日は何か好物でも買って帰るかと、そんなことを思いつく。
今日は俺がコーヒーを淹れてやるか。どういう風の吹き回し、とオルタンスの笑う顔が思い浮かび、コーヒーを待つ彼女の膝に甘えてまとわりつく娘たちの騒ぐ声が聞こえるような気がして、キャゼルヌは、大切な存在はきちんと大事にすべきだなと、ちらりと振り返る視界の端に、シェーンコップの遠い横顔を引っ掛け、浅く肩をすくめてそのままカフェテリアを後にした。