魔女の脚
リンツがちょっといい酒を手に入れたと言うから、味見をしに行かないかと言われて、酒に目のないヤンはシェーンコップと一緒にローゼンリッターのたまり場へ行った。清潔なはずなのに、何となくいつも埃くさい気がするのは、筋肉だるまの男たちばかりがいるせいなのかもしれない。
シェーンコップの後ろから入ると、その体の陰に隠れてヤンが見えないせいか、元連隊長が来たと言ってお行儀良く敬礼をするような連中でもなく、極めてカジュアルに、連隊長だの閣下だの口々に言いながら、隊員たちはシェーンコップへ向かってひらひらと手を振るだけだ。
「酒を飲みに来ただけですので、不作法には目をつぶってやって下さい。」
シェーンコップが小声で言う。シェーンコップの後ろから部屋の真ん中を、リンツがいるはずの執務室へ向かって歩いてゆくと、通りすがりにやっとヤンを見た隊員たちが、髪の黒さでやっとヤンと見分けて、
「し、司令官閣下!」
「敬礼はいらないから。いいから。」
慌てる隊員たちに、ヤンはへらへら笑ってただ手を振って見せる。シェーンコップの言う通り、酒をちょっと味見に来ただけで、大仰に迎えられるのは面倒くさい。
シェーンコップの背中に隠れるようにして進む途中、部屋の隅で固まっていた小さなグループが、突然、喉でも絞められたような濁った悲鳴を上げた。
濁点のついたような声に、部屋の皆が動きを止めてそちらへ振り向き、振り向かれた彼らは、一斉に床の、壁際へ向かってしゃがみ込むのが見えた。
「何だ。」
リンツもブルームハルトも見当たらないこの場で、シェーンコップが騒ぎを制する声を投げ、床へしゃがみ込んだ背中たちはそこから、自分たちの元連隊長を振り返り、
「隊長ぉ・・・。」
ひとりが、何とも情けない声を出した。
「何だ。」
元部下の、泣きそうな顔に、シェーンコップはやや声音をやわらげて、もう一度訊くと彼らは全員やっと立ち上がり、
「こいつが、指輪を落としたんです・・・。」
半泣きの隊員を、周囲の皆が指差す。
「指輪?」
シェーンコップが口移しにしたのに、ヤンも足を止めて、場違いなその代物へ、へえ、とちょっと首を傾げる。
「結婚指輪を、外して見せびらかしてたら、そこに落ちて・・・。」
「見せびらかしてたって言い方はないだろ。」
半泣きの隊員がちょっと声を荒げ、説明した隊員の肩を小突く。
「見せびらかしてたんだろ、たまたま結婚できたからって、でかい面しやが──」
「やめんか、お前ら。」
シェーンコップは素早くそちらへ行くと、彼らの間に割って入った。
他の隊員たちも、シェーンコップの動きと一緒にそこへ集まり、何となく、そのちょっと険悪なふたりを、何かあれば押さえようとするように、それぞれの背後へちょっと身構えて立ち、ヤンはそれをまた、へえとぼんやり眺めている。
こんなところで、よりによってローゼンリッター同士の喧嘩に巻き込まれると、小柄なヤンはきっと骨を折る以上の怪我する。離れていようと、ヤンはそこから数歩後ろへ下がった。
「で、指輪はどこに落ちたんだ。」
シェーンコップが、話の仲立ちをして、まだにらみ合っているふたりの、どちらへともなく訊いた。
「そこです、ロッカーの後ろに──。」
続けて説明する隊員が、ロッカーとロッカーの隙間を指差した。30cmあるかないかのその奥には、けれど指輪は見当たらず、どうやらそこからさらに転がってロッカーの背後へ消えたらしかった。
誰から渡されて来たのか、どこからともなく小さな懐中電灯がシェーンコップへ差し出され、けれど腕は差し込めてもそれ以上は入り込めない。ロッカーの後ろを覗き込むのは不可能だった。
シェーンコップよりもやや小柄な隊員が、その隙間へ体を横滑りに入れようとしたけれど、やはり無理だった。
「わたしなら、入れるかも・・・。」
それを見ていたヤンはおずおずと、まるで授業で当てられた生徒のように手を挙げ、シェーンコップたちの方へ近づいた。
シェーンコップが眉を寄せ、ヤンにそんなことはさせられない、と言う表情を浮かべる。
「そこから取れなかったら、ロッカーを移動させることになるんでしょ。その前に、せめてどこにあるかくらい確かめた方がいいでしょ。」
ヤンから見れば、巨漢ばかりの隊員たちはヤンのために道を開け、
「ですが、提督──」
と、自分たちの元連隊長が苦り切った顔をするのを、ちょっと面白そうに見ている。同時に、指輪が無事見つかることも、皆心を揃えて願っている。
「別に敵の中に飛び込むわけでもないんだから。」
指輪を失くした隊員は、ヤンへ向かって手を合わせるような素振りで、本気で今にも泣き出しそうな顔をしていた。
止めようとするシェーンコップに構わず、ヤンはベレー帽を取って上着を脱ぎ、両方をシェーンコップへ渡して、邪魔になりそうなスカーフも取った。ネクタイの前を押さえて、懐中電灯を片手に、まずは右肩からそこに体を滑り込ませる。
シェーンコップも隊員たちも、小柄なヤンがちょっと顔つきを厳しくして、ロッカーの間へ消えてゆくのを黙って見守った。
胸と腰がつかえそうに、それでもヤンの小さな体はうまくロッカーの間へ入り込み、ロッカーの背と壁の、案外大きな隙間へ懐中電灯の光を当てる。埃の固まりらしきものは見えても指輪のようなものは見えない。ヤンは目を細めて、何とか頭を傾けながら、慎重に暗闇を探って、やはりないとちょっと唇を尖らせた。
一端そこから体を抜き、成果を待つ隊員たちへ首を振って見せてから、再び、今度は体の向きを変えて、同じ場所へ滑り込んでゆく。
埃に鼻先をくすぐられて、くしゃみが出そうなのを抑えながら、ヤンはそちら側の隙間を明かりで照らした。
今度はあった。丸く光るものが見える。小さなそれは、腕を伸ばせば十分届きそうなところに転がっていた。良かった、とヤンは安堵の息を吐く。胸を潰されていて、そうすると少し苦しかったけれど。
「こっち側に落ちてる。」
報告のためにヤンがそう言うと、
「ありますか?取れますか?」
さっきの半泣きの隊員らしい、切羽詰まった声が返って来る。
「多分大丈夫。ちょっと待って。」
彼の階級は知らないけれど、本来ならヤンにそんな風な口の聞き方をすべきではないし、ヤンも許すべきではないのだけれど、何しろ緊急事態だし、13艦隊はこういうものだと言う空気を、ヤン自ら作り出しているのだから、シェーンコップは今も注意するタイミングを失って、やれやれまったくと、瞳をぐるりと上へ押し上げたところだった。
ヤンはよちよちとロッカーの間から抜け出ると、シャツの両袖のボタンを外し、二の腕が出るまでまくり上げた。それから、いきなりそこへ寝転ぶ。
「提督!」
シェーンコップが慌ててヤンを引き起こそうとするのを、ヤンは腕を振って断って、
「こうしないと、ロッカーの後ろに腕が入らないから。」
「シャツが汚れます! 髪も。」
「後で洗うからいい。」
「提督!」
「うるさい、シェーンコップ。ロッカーを動かすよりいいでしょ。」
そう言われて、シェーンコップが黙ると、隊員たちの間に困惑の目配せが行き交う。ヤンの、捨て身の親切はありがたくはあり、けれど自分たちの連隊長だったシェーンコップに、そんな物言いをされるのは何となく複雑なのだ。
この人は司令官なんだよなあと、彼らは一様に、床で何だか爬虫類みたいに体をくねらせてロッカーの隙間へ再度入り込んでゆくヤンを見下ろし、それを心配げに見ている自分たちの上官を見て、年齢も性別も分かりにくい、魔女と呼ばれる自分たちの上官の上官に、何てことをさせてるんだと言う今さらの混乱が、静かにその場を満たし始めた。
そうして、自然に彼らの咎める視線は、この事の起こりの指輪を失くした隊員へ集まり、その、鋭い矢に突き刺されるようないたたまれなさに彼は冷や汗を流し、元連隊長に助けを求める、すがるような目を向けたけれど、シェーンコップはロッカーの間からただ心配そうにヤンを見つめていて、他のことなど目に入らない様子だった。
ヤンと言えば、ひとり薄闇の中に半身を浸して、ひたすら懸命に差し入れた腕を伸ばし、ロッカーの背後の隙間は案外と狭くて、二の腕へ達すると挟まれてこすれてひどく痛む。それでも、ふらふら揺れる懐中電灯の明かりで確かめる指輪は、もうすぐ指先に触れそうで、ヤンは肩を滑らせたり、首を必死に曲げたりしながら、その小さな金属の輪を手元へ引き寄せようとした。
この時、ヤンは自分がどんな姿でいるかまったく自覚はなく、ロッカーの間に上半身の半分が消え、残りは床に投げ出されて、一応は折り目の固いスラックスが体の線を覆ってはいても、ここにいる男たちとはまるで違う柔らかな線は隠しようもなく、普段は嵩高の軍服に着られているような、その肝心の上着が今はなくて、シャツ姿のヤンの、女くささがないゆえに余計に女っぽいところだけが今は目立ち、少なくとも彼らのうちの何人かは、見てはいけないものを見ているのだと、ヤンから礼儀正しく視線を外した。
残りのうちの何人かは、ヤンが見られていると分かるはずもないし、階級をあまり気にせずに気安く誰とでも軽口の叩けるヤン艦隊の雰囲気を都合良く今だけ利用して、不躾にヤンの下肢を凝視している。
シェーンコップが彼らの視線に気づいていたら、問答無用で戦斧を振り上げたろう。今のシェーンコップの手にあるのはヤンの上着で、シェーンコップの視界には暗闇のヤンしか映っておらず、それは彼らにとっては命拾いだった。少なくとも今は。
「取れた!」
やっと指輪を手元へ引き寄せ、手の中に握り込んでから、ヤンは叫んだ。叫んだ拍子に、頭上に掲げていた懐中電灯を頭の上に落とし、派手な音と一緒に悲鳴が上がる。
「提督、大丈夫ですか!」
シェーンコップが、今にも足首でも掴んでヤンをそこから引きずり出しそうに、腕だけ中へ伸ばして来た。
「大丈夫。指輪と一緒に、今出るから・・・。」
ヤンは痛む頭を、空いた方の手で撫でながら、指輪だけはしっかり握りしめて、また爬虫類みたいな動きでロッカーの間を抜け出る。狭さに押し潰されて体中は痛むし、髪も顔も腕も埃まみれだった。それでも明るい照明の下へ戻って、自分を見下ろす顔がどれもこの小さな成功を明らかに喜んでいるのに、ヤンは破顔して応え、握っていた手をそっと開いて、そこに乗せた指輪を持ち主の前へ差し出した。
「ありがとうございます──。」
彼はつまみ上げた指輪をすぐに自分の薬指へ戻して、その手を拳にすると大事そうに胸の前に抱え込んだ。ヤンはちょっとまぶしげにその仕草を見て、それからやっと息を吐いて立ち上がる。
あちこち引っ張られ、よれたネクタイが動きに連れて揺れ、さっきからヤンの体をじろじろ見ていた連中は、ネクタイのせいで今はひどく目立つ胸の丸みをさらに無遠慮に眺めて、ヤンが気づかないその視線を、シェーンコップが彼らに悟らせずに確認したのを知らなかった。
シェーンコップはさり気なくヤンを自分の体の陰に隠し、あっちへ行けとその失礼な面々へあごを振り、無事に指輪を受け取った隊員はまだヤンに礼を言い足りない風だったけれど、ヤンが気にしないでと3度言ったところで、もう一度深々と頭を下げ、それからやっと向こうへ立ち去った。
「口の中まで埃っぽい。」
シェーンコップにシャツの肩の辺りを払われながら、ヤンは何度か小さく咳をして、
「それじゃあ酒の味も分かりませんな。」
「・・・今日は諦める。今度ぜひって、リンツに言っておいて。」
まだ口の中のざらつきに、顔をしかめながらヤンが言う。
「とりあえず、口直しは紅茶にしましょう。」
シェーンコップがヤンの髪から見える埃を払い落とし、それから肩を押した。
そうして、まだ袖が上がったままのヤンの腕が赤くなっているのを目に止めて、
「ロッカーの背でこすったんですか。」
ヤンは慌てて袖を下ろして、それをシェーンコップの目から隠すと、
「わたしだって、たまには首から下も役に立つんだから。」
「ええ、分かりましたから、無茶はやめて下さい。お願いします。」
「・・・過保護・・・。」
聞こえないようにと思ったのか、小声でヤンがぼそりと言う。低めた声がかすれたのが、よれたシャツ姿と相まってひどく女っぽく響き、シェーンコップはいつもならするりと返せる軽口が思いつけず、無様に黙り込む羽目になった。
ヤンはまた皮肉が返って来ると身構えていたのに、シェーンコップが黙ってしまったから、思わず驚いてシェーンコップを見上げて、そこで不自然に視線が合わさる。
シェーンコップの瞳の色など気にしたこともなかったのに、今は、あの指輪の色とどことなく似ているこの瞳に、指輪を元通りにして嬉しそうだった隊員の笑顔が重なって、なぜこの男は結婚しないのだろうかと、突然ヤンは考えた。
女に不自由しないと、案外結婚が縁遠くなるのかもしれない。自分は縁がなさ過ぎて、何も起こったことはなく、これからも起こる様子がない。理由は真逆で、出て来る結果が同じと言うもの妙な話だ。
結婚したいと思うわけではないけれど、あの指輪をとても大切そうに扱っていた彼は、きっと自分の伴侶を同じくらい大切に想っているのだろうと考えると、そんな相手がいるのは素直に羨ましいと思い、退役したら普通に恋愛もできるかなと、ヤンは似合わないことを考えている。
シェーンコップがいずれ結婚すると言ったら、きっと自分は式に招ばれるのだろうな、面倒くさいなあ、と先走ったところで、上着を背中に差し出されていることに気づいて、ヤンはやっとそちらへ腕を伸ばす。
案外まめで人の扱いは丁寧──過保護であるのは否めない──なこの男は、妻になる女(ひと)をきちんと幸せにするのだろう。それこそあの隊員のように、結婚指輪をポプランやアッテンボローへ見せびらかすような、ちょっと子どもっぽいことをするのかもしれない。
わたしには縁のない話だなあと、ヤンは小さくため息をこぼし、上着のボタンをゆっくりととめる自分の、近頃やっとささくれの目立たなくなった指先をぼんやり見ている。
ヤンがそんなことを考えている間、シェーンコップは明日からしばらくローゼンリッターは特別訓練と決め、特にあの、ヤンをろくでもない目で見ていた連中には特別メニューを用意してやろうと、心の中でもう戦斧を頭上から振り下ろしていた。
まだヤンの髪に残る埃を、ほとんど嫉妬混じりに見つけるたびに払い落としながら、無防備に床に投げ出されていたヤンの脚の線を、頭から追い払うのに数日掛かることを、シェーンコップはまだ知らないでいる。