魔女の悲鳴
ヤンの仮眠室の前で、ではと別れて、背中を向けて数歩進んだところで、凄まじい悲鳴が通路まで響き渡った。その後に自分の名を呼びながら、たった今入ったばかりの部屋から飛び出して来て、自分に飛びつくヤンを受け止め、シェーンコップは咄嗟に胸元へ手を差し入れ、ブラスターへ手を掛ける。
震えるヤンを自分の背後に隠すようにして、ヤンの部屋から誰かが出て来るかと身構えて、シェーンコップはしんと静まり返った部屋の方をにらみつけて姿勢を崩さない。
「違う・・・違うの・・・。」
シェーンコップの背中にしがみつき、まだ震えているヤンが必死に何か言う。
「違うの、クモ・・・クモ・・・。」
「くも・・・?」
「蜘蛛が、いたの・・・。」
「くもですか?」
問われて、ヤンがシェーンコップの背中に額をくっつけて、ぎゅっと目を閉じてこくこくうなずく。
シェーンコップは拍子抜けして、思わず肩を落としながら息を吐き、ブラスターをポケットに戻した。
「蜘蛛ですか。大袈裟な。」
いつもなら、途端に上官の貌(かお)でぴしりと何か言い返して来るくせに、今はヤンは小刻みに震えたまま、シェーンコップの背中にぴたりと張り付いたままだ。
「蜘蛛ならちょっと処置して来ますから──」
しがみついたヤンの手を外そうとしながらシェーンコップがそう言うと、
「だめ、行っちゃだめ。殺しちゃだめ。」
半泣きの顔を上げてヤンが止める。
「殺すのはだめ。」
「部屋に蜘蛛がいるのは困るんでしょう。」
「困るし、怖いけど、だめ。」
素手で蜘蛛を捕まえてどこかへ逃がすと言う芸当は、シェーンコップにもちょっと無理のように思えて、シェーンコップはやれやれと瞳をぐるりと上へ押し上げ、まだ震えている自分の上官の薄い肩を軽く叩き、
「とりあえず、ちょっと落ち着いて下さい。」
第13艦隊の司令官が、蜘蛛1匹でこの様か、ポプラン辺りが見たらからかうのにいいネタだと大喜びだなと、シェーンコップはヤンを驚かせないように気をつけて、空いた両腕をそっとヤンの小さな体に巻く。
嫌がるかと思ったのに、ヤンはそうされた途端、さらに強くシェーンコップにしがみついて、
「ごめん、今だけ、今だけだから・・・ごめん、今だけ・・・。」
そう繰り返し言いながら、シェーンコップのみぞおち辺りへごしごし額をこすりつけて来る。
互いに他意はない。ヤンの方には特に。それでも、嵩高い軍服の中の体の柔らかさが想像以上で、シェーンコップはこんなに小さかったかと驚きながら、ヤンを正面から抱きしめて、子どもにするように頭も撫でてやる。まったく子どもではないが子どもと同じだからと、自分に言い聞かせながら。
「大丈夫です、蜘蛛はもうどこかへ行きましたから。」
すでに閉じている扉から抜け出て来ることはないだろうと思って、シェーンコップはヤンへそう言葉を掛け、1日の終わり、埃やその他の匂いをつけた、自身の匂いはないヤンを、シェーンコップはヤンがもういいと言うまで抱きしめ続ける。
「そんなに蜘蛛が嫌いですか。」
何度か、そっとヤンを遠ざけようとしても、ヤンの方がシェーンコップを離さず、間が持たずにそう訊くと、
「嫌いじゃないけど、怖い。子どもの頃、寝てたら顔に落ちて来て、それから大きな蜘蛛は、全部怖い。」
面白くもない報告書でも読み上げるような調子で、ヤンがシェーンコップの胸に向かって答えた。
「そんなに大きな蜘蛛だったんですか。」
ヤンの、まだ震える背を撫でながら、他に気を散らそうとして、シェーンコップが質問を続ける。
「大きかった。わたしの掌くらいあった。」
「貴女の手くらいなら、別に大した大きさじゃないでしょう。」
ヤンの手の小ささをいつもからかうシェーンコップが、それと同じ調子で言うと、明らかにむっとした様子が胸元に伝わって来て、シェーンコップは途端に震えの止まったヤンの肩辺りへ視線を当てた。
少しの間を置いて、ヤンは相変わらずシェーンコップに抱きついたまま、
「じゃあ、きっとあなたの手くらいあった。そのくらい大きかった。」
言いながら、その手でシェーンコップの肩の辺りを怒ったようにばんと叩く。
それを合図にヤンの体がシェーンコップから離れ、よく見ると泣いたのか目元が赤い。唇も頬の辺りも腫れたように見えて、これはこのまま部屋には返せんなと、シェーンコップは部屋の扉の方をちらりと見て考える。
体は離れても、シェーンコップの上着は両手に握りしめたまま、その手もまだかすかに震えている。
ほとんど恐怖症に近いような反応に、蜘蛛ねえ、とんだ魔女の弱みだと思って、シェーンコップはヤンの肩に腕を回し、
「ちょっとここから離れましょう。」
有無を言わさず歩き出す。ヤンはまたシェーンコップへぴたりと張り付いて、シェーンコップの大きな歩幅に送れないように、黙って小走りについて来た。
少し先に、簡易の休憩場のような場所がある。小さなテーブルと椅子がぱらぱらと並んで、昼間なら小さなカフェが開いていて、時間外でもコーヒーだけなら飲めるように、サーバーが置いてあった。
椅子のひとつにヤンを坐らせ、紅茶がないのが残念だけれど、シェーンコップはいちばん小さなカップに半分だけコーヒーを注ぎ、備え付けのミルクと砂糖を、子どもにでも飲ませるように大量に入れて、それをヤンに差し出した。
いつもなら、コーヒーなど顔をしかめて突っ返すくせに、今はそのあたたかさ──シェーンコップの体温にしがみつくのと同じ理由──へすがりつくように、両手に受け取って、カップの縁へ素直に唇を寄せてゆく。
「貴女が、そんなに蜘蛛がお嫌いとは。」
責めるつもりではなく、腕組みをしてシェーンコップが言う。
ひと口だけコーヒーをすすり、遠慮なく顔をしかめて、ヤンがそれからむっと唇を突き出した。泣いたせいらしい顔の赤みは取れつつある。
「嫌いじゃない、怖いだけ。同じ部屋じゃないなら平気。」
嫌いと怖いの違いがシェーンコップにはよく分からず、けれど反論もせず、ああそうですかとうなずいておく。
ヤンはもうひと口コーヒーを飲んで、歪めた口元から舌を差し出して見せた。
「コーヒーと蜘蛛と、どっちが嫌ですか。」
シェーンコップが、今度は明らかに茶化すように訊く。ヤンは真剣に考える風に、少し黙ってから、やっと落ち着いた声を出す。
「蜘蛛の方が怖い。コーヒーは別に怖くない。」
機械にでもなったような、四角四面の調子だった。
「今夜はあの部屋で寝るのは無理でしょうな。」
蜘蛛がどこへ消えたか分からないし、夜中にまたどこからか姿を現して、ヤンが恐慌状態に陥ったら目も当てられない。
ヤンが今の状況を恥じるように顔を赤くし、上目にちらりとシェーンコップを見た。
「別の仮眠室にしましょう。他に空いているところはありますから──。」
シェーンコップが提案するのに、異論はない様子で、それでも何か言いたげに、ヤンはしばらくコーヒーの表面へ視線を当ててたっぷり20秒黙り込んだ後、
「あの、もし、大丈夫なら、あなたの部屋に近いところがいい・・・。」
すぐに助けを呼べるように、とまでは言わせずに、シェーンコップは素早く先を読み取ってうなずいていた。
蜘蛛如きでここまで騒ぐ自分に、慚愧に堪えないと言う風のヤンへ、助け舟のつもりで、シェーンコップはいつもと同じからかいの軽口を出す。
「何なら、私と部屋を交換しますか。私の部屋なら多分蜘蛛は出ませんよ。」
わざとにやにや笑いながら言ったのに、ヤンはそれはいい考えかもと、一瞬目を輝かせる。シェーンコップの方が慌てて、冗談ですよと言う羽目になる。
ヤンはまだ残るコーヒーは、ただ手にしたまま、ぼそりと足元へ声を落とした。
「・・・もしあなたがあの部屋で寝て、蜘蛛がまた出たら、殺すんでしょう。」
「閣下のために、見逃すわけには行きませんな。」
組んでいた腕を外し、たかが蜘蛛の話とも思えない、つい物騒な言い方になる。
「──蜘蛛が怖くても、殺すのは嫌ですか。」
殺すのは自分なのだから関係ないだろうと、思いながら、知らず問い詰めるように訊いている。
ヤンはふとよそを向き、言葉を探すように瞳をどこかにさまよわせて、そうすると首の細さが目立って、シェーンコップは両腕に抱いたヤンの体の小ささ──そして柔らかさ──を思い出すと、一瞬後にはそれを追い払うために、奥歯を強く噛んだ。
「無駄な殺生はしたくない、それだけ。何百万も殺すわたしが言うのは、単なる偽善だけど。」
ぽつりぽつり、言葉を置くように言ったのが、恐らくヤンの真っ直ぐな本音で、そして無駄な殺生と言えば、即座にシェーンコップが偽善とやり込めて来るのを知っていて、先に自分で言ってしまったのだと、そこまで読んで、シェーンコップは毒を引っ込めた。
ヤンが顔の位置を元に戻し、シェーンコップを今度は真っ直ぐ見つめて来る。
「あなただって、必要もないのに人を殺さないでしょう。」
ヤンが、同じ人殺しの自分へ矛先を向けて来るのに、シェーンコップはそれを受け止めて、そして、人殺しの同志として、
「戦争中の人殺しに、要も無用もありませんがね。益か無益か、それだけですよ、閣下。」
ただ平たく言う。
蜘蛛とコーヒーの話から随分飛躍したなと思いながら、ふたりで話をすればいつもここへ落ち着いてしまうのだと、半ば自嘲しながら、シェーンコップはせいぜい唇の端を、そうとはっきり分かるように皮肉笑いに吊り上げて見せる。
ヤンにもう動揺の気配がないのを見て、シェーンコップはヤンへ向かって手を差し出した。
「そろそろ行きましょう。別の仮眠室を探さないと──。」
ヤンがそう言った通り、できるだけ自分の仮眠室の近くへ今夜の寝場所を見つけるつもりで、シェーンコップはヤンを促した。
ヤンは素直に立ち上がってもすぐには動かずに、さあ、と言う風に背中を向けようとしたシェーンコップの袖を掴んで、引き止めるようにそれを強く引っ張った。
「・・・もう少しだけ・・・。」
小さな指がまた震えている。シェーンコップは、それを痛々しく見下ろした。恐ろしいのは、掌大の蜘蛛か、それともこれからも止まらず続く大量虐殺か。
それを受け止める小さくて薄い肩を、シェーンコップは黙って両腕の中に抱き寄せた。
ためらいを見せずに、ヤンはシェーンコップに素直に抱かれ、どれだけ寄り掛かっても揺るぎもしないシェーンコップのぶ厚い体に安心したように、大きく息を吐いた震えが伝わって来て、シェーンコップは別に生まれて来る自分の中の慄えを何とか押し隠し、ヤンの震えが再び治まるまで、腕の力を緩めなかった。