女性ヤン&片思いシェーンコップ

魔女の昼寝

 お願いがある、とヤンが、妙に口ごもりながら言って来る。
 両手の指を全部合わせて、人差し指を唇へ当て、気がついているのかどうか、考え込んでいる時にヤンがする仕草だ。そこからさまよう視線をふと上目に向けて来て、そうすると、この女(ひと)は妙に無防備に、何もかもを取り去って、剥き出しの脳髄だけがそこに浮かんでいるような、その微かに桃色を帯びた灰色の、わずかにふるふると震えている脳をはっきりと思い浮かべて、シェーンコップは今度はどんな無理難題を吹っ掛けて来るのかと、ちょっと身構えるのが常だった。
 何ですかと、言い出しにくそうにしているのに水を向けてやると、また上目にちらりとシェーンコップを見て、ヤンが闇色の瞳を、今度は左右に動かした。
 合わせた人差し指の向こう側で、ヤンは色の悪い唇をすり合わせる仕草をし、ぽんと音がしそうにその唇を弾いて開くと、
 「ベンチに行くのに、付き合って欲しい・・・。」
 そんなことかと、シェーンコップは拍子抜けした。
 付き合えと言わなくても、ヤンが行くところにはどうせついてゆくのだし、なぜわざわざと、ヤンと肩を並べながら、その行き先の、ヤンの"思索のベンチ"へ向かいながら、シェーンコップは都合が悪くなるとめっきり口の重くなるヤンから、その理由を聞き出していた。
 ひとりになりたくなると──もちろんシェーンコップは、邪魔にされる筆頭だ──、ヤンは公園のベンチに向かう。そこに坐ってぼんやりし、制限なくあれこれ埒もないことへ、夢想に近い状態で思考を巡らせるらしいのだけれど、夢想が過ぎてそのままうとうとしてしまうことがあって、ヤン自身は、別にそこで昼寝をしたって構わないじゃないかと思っても、軍服姿の、しかも体の大きさから、成人の男には見えないヤンが浮浪者のようにそんなところでうたた寝など、何かあったらどうすると、キャゼルヌからお説教を食らったらしい。
 確かに、子どもか女か、どちらからしい人間がベンチで寝ていたら、具合でも悪いのか死んでいるのか、親はどうしたと、通り掛かる人たちは考えるだろう。本人は優雅な昼寝でも、傍迷惑この上ない。そんなので通報を受けて、現場へ駆り出される警官や警備の人間が気の毒だ。
 「ベンチの下なら見えないかなって思ったんだけど、意外と狭いし、さすがに地面が固いし、そこから手足が出てたら人がもっとびっくりするからやめろって──」
 「試したんですか。」
 驚いてシェーンコップが訊くと、ヤンはあっさりうなずく。この宇宙色の髪と瞳の持ち主の、敵も味方も魔女と恐れるこの女(ひと)の、頭の中はまさしく宇宙のように計り知れないと、シェーンコップはあちこちぴんぴん髪の跳ねた小さな頭を見下ろした。
 「で、私は、閣下がうたた寝を始めたら、起こす係ですが、そのまま寝かせて見守る係ですか。」
 「・・・まだ決めてない。」
 そうして、ベンチへ着いて、ヤンはまず真ん中に坐り、次の瞬間には瞳の色がやや空ろになって、もう思索真っ最中と分かる空気を漂わせる。
 シェーンコップは手持ち無沙汰に、ベンチの端の後ろへ立って、守ると言うほどではなかったけれど、そこで腕を組んでヤンを斜めに見下ろす位置を定めた。
 ヤンは表情は無にしたまま、けれど体は落ち着きなく動いて、ベンチの背に寄り掛かったり、腕をベンチの背の後ろに投げたり、軽く開いた膝の間へ両腕をぶら下げたり、目の空ろさが動きにまったく合わず、シェーンコップはちょっと不気味な思いでヤンを眺めている。
 これではうたた寝をしなくても、警備へ不審者呼ばわりで通報されても仕方がないなと、ほんの一瞬、こんなヤンの尻拭いも仕事の内にされているキャゼルヌへ、同情のようなものを感じた。
 ヤンがちらりとシェーンコップを見る。それから、明らかに不愉快の色へ表情を動かし、ベンチの向こう側へ視線を投げ、座面の端から1/3くらいの辺りへ腰を滑らせる。
 「そこだと気が散るから、坐って。」
 シェーンコップは言われた通り、ベンチの背面から前へ回り、ヤンとは離れた端へ腰を下ろす。意識せずに足を組むと、その長さを測るようにヤンの視線が爪先──ヤンのそれとは違い、よく手入れされた、ブーツの──から腰の辺りまで動いて、魔女の目元と口元にさらに濃く不機嫌が刷かれた。
 一緒にいると、ヤンはよくこうしてシェーンコップを観る。身長が違うのだから当然だけれど、手足の長さや肩の広さをたどる、他の女性たちがシェーンコップを眺める時とは明らかに違う意図のその視線は、単純な羨望が露骨で、どちらかと言うと、男たちがシェーンコップを見る時のそれに近かった。
 シェーンコップの恵まれた体格を、女性としてもご柄な方のヤンは、一緒にいると時々愚痴のようにぼやいてうらやましがる。そのたび、シェーンコップは、手足を切って短くするわけには行きませんからな、と、木で鼻をくくったような返答をし、さらにヤンを鼻白ませるのが常だった。
 軍人として、体が大きなことは確実に有利だけれど、体が小さい方が便利なこともあると、説明したところでヤンが納得するはずもなく、会話がつい物騒になるしかないふたりの、これはそこからできるだけ離れた馴れ合いの会話だった。
 ヤンはひとりで唇を尖らせ、ぷいとシェーンコップから視線を外すと、また思考の海へ飛び込んだのか、人工の昼間の明るさに似合わない闇色の瞳を正面に据え、見えない壁の向こうに閉じこもってしまう。
 シェーンコップは、そんなヤンの横顔を見つめていた。
 ヤンは時折、ちらりと頭の中身をシェーンコップに覗かせるけれど、それをすべて見れば、自分は気が狂うだろうとシェーンコップは思う。軍人でなければ、この女(ひと)は一体どんな人生を歩んでいたのだろうかと考えて、軍人以外のどんなヤンもシェーンコップは想像できず、恐らくそれはヤンにとっては不本意だとしても、結局のところ、今のこの世界で、ヤンがこの複雑怪奇な脳を思う存分使えるのは戦争の場でしかない。
 ただの女として、たとえば誰かの恋人であったり、配偶者であったりするヤンを思い浮かべられないのは、ヤンがその種の女ではないと言う事実の他に、誰かの傍らにそうやって佇むヤンを見たくないのだと言う気持ちが自分にあるからだと、シェーンコップが気づいたのは一体いつだったろうか。
 ヤンが、唇の前で両手の指を合わせる仕草を始めた。思考の内容は分からないけれど、邪魔はすまいと、シェーンコップはヤンの横顔から視線を外し、人工の青い空をちらりと見上げた。
 視界の端で、ヤンが指を動かしているのが見える。子どもの遊びのように、合わせている指を、リズミカルにくっつけたり離したり、いちばん動きが鈍いのが薬指だったのに、シェーンコップはなぜか心を囚われてしまった。
 ヤンの手と同じに、飾るものの何もない自分の手を見下ろして、意味もなく薬指を動かし、いちばん不器用に見えるこの指で人はある種の約束を交わすのだと言う不思議を、今しみじみと感じるのは、わずかに腕を伸ばしても届かない距離でヤンと一緒にいるせいだろうと思って、シェーンコップはつい自分の薬指に目を凝らす。
 この指で、誰かに何かを誓うことは永遠にないだろう。ヤンにそんな相手が現れたら、自分はきっとひとりで酔っ払って、酔いが覚めたらすべてを忘れようとするだろうと、ぼんやりと考える。
 なるほど、思索のベンチかと、ヤンに引きずられたように、下らないことを考える自分を、シェーンコップは胸の中でうっそりと笑った。
 気がつくと、今はヤンがシェーンコップを見つめていて、それに気づいたシェーンコップは、頭の中を読まれでもしたかと慌て、見つめていた自分の手を背後へ隠そうとした。
 ヤンはシェーンコップを見やって、けれど何も言わず、ここへ一緒に来てくれと頼んで来た時と同じ、ちょっとためらうような素振りを見せた。それから、そちらへ移動した時とは逆に、今度は腰を滑らせてシェーンコップの方へ寄って来る。
 「ちょっと寝るから・・・肩を、貸して」
 上着の袖を引かれ、シェーンコップは言われるまま、肩を少し下げてヤンの方へ差し出した。
 ヤンはそこへ頭を寄せ、しばらくの間ごそごそと、眠れそうな頭と体の位置を模索して、ああでもないこうでもないと、シェーンコップの肩をむやみに引っ張ったり押したりしていた。
 「膝の方が良くはありませんか。」
 首が不自然に曲がり、苦しそうなのに、シェーンコップは下心と取られない声音で提案する。
 ヤンはあまり寝心地の良さそうでもない姿勢をやっと定めると、そこでもう目を閉じ掛けて、
 「男の人の膝は固いし高過ぎるからいや。」
 声でだけはっきりと拒んで来た。
 「よくご存知ですね。」
 ヤンはシェーンコップへ体を傾け、膝の間に両手を投げ出すと、やり場に困ったようにそこで指を全部絡ませた。
 「パトリチェフが、前に膝を貸してくれたことがあるから・・・。」
 まだ少佐だったヤンを知っている巨漢の副参謀長の名前が突然出て来たのに、ああそうですかと相槌を打つ声が思わず震えそうになる。あの男の膝ではそうなるだろうなと、寝ぐずりするようにまだ動いているヤンの細くて小さな指先を、シェーンコップはこっそり見ながら考えている。
 「30分で起こして。」
 かすれた声は、すでに半分眠り掛けているように聞こえた。
 「起きなかったらそのまま抱えて運びますよ。」
 「・・・そうして。」
 シェーンコップの言ったことを、ほんとうに理解していたのかどうか、肩に当たるヤンの体は子どものように体温が上がり始めていて、寒くはないか、上着がいるかと、訊くタイミングを逃してしまったシェーンコップは、ヤンを動かさないようにそっと腕時計で時間を確かめ、35分経ったら起こすために声を掛けようと決める。
 目覚めて、ヤンは恐らく首が痛いと文句を言うだろうし、シェーンコップも肩や腰が痛くなりそうだった。眠ればいっそう正確な年齢の分からなくなるヤンを見つめて、思考機械の脳がやっと動きを止め、わずかな休憩に入ったのがはっきりと見えたような気がした。
 ヤンの寝顔を護って、体が少々痛むのは仕方ないと、シェーンコップはヤンの方へそっと、さらに近く体を傾ける。
 ヤンが自分を、こんな風に身近に置いて安全な人間だと思っている、これはその証拠だ。誰かに──女性に──、ただ眠るためだけの枕代わりにされるのは初めてのシェーンコップは、ヤンの体がずれ落ちないように気をつけながら、自然に体のそちら側を緊張させている。
 抱えて運ぶと言ったのに、そうしろと答えたのがどれだけ本気だったか分からないけれど、シェーンコップにそうさせても罪悪感が湧かないと、ヤンがそう考えている程度のことはシェーンコップにも読めた。
 ヤンがそう求める限り、ヤンにとって安全な人間であり続ける自信はあっても、シェーンコップの内心は別のことを考え続けている。ヤンの手へ視線を当てたまま、シェーンコップは無意識に、自分の薬指に触れていた。
 このベンチに坐っていると、直視したくないことばかりが頭に浮かんで来る。30分待たずに、さっさと眠っているヤンを運んで、ここから離れてしまおうとも考える。実行はしない。ヤンのうたた寝を妨げたくはない。
 ヤンが、ひとりになるための場所へわざわざ自分を伴って来たことを、大袈裟に考えないようにしようとしてもうまくは行かず、自分の肩で寝息を立てているヤンを見つめて、自分から言い出したくせに、膝枕でなくてよかったと今シェーンコップは思う。
 腕時計を外してどこかへ放り投げて、時間が分かりませんでしたと、子どもっぽい言い訳をしてみようかと考えるほど、魔女があどけなく眠っている。
 ここだけ時間が止まればいいと、馬鹿馬鹿しいことを思った自分を笑って、シェーンコップは腕時計を掌で覆い、ひと呼吸分だけ、時間が分からない振りをした。

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