シェーンコップ×女性ヤン

魔女のお下がり (番外編)

 確かに結婚の申し込みをした時に、自分のシャツは全部ヤンのものだと言った。腕時計も使ってもいいとも言った。
 ヤンはためらいなくシェーンコップのクローゼットをあさり、シャツを物色する。ローゼンリッターの野戦服の上着に目を輝かせた時は、それはいかがなものかと一応は苦言を呈したけれど、だって着ていいって言ったじゃない、それが結婚の約束だったじゃないと言い返され、そうだったかと首を傾げたけれど、何しろプロポーズをした側と、受けた側では立場の強さが違う。軍での階級もそのまま家の中にも持ち込まれるふたりの間では、シェーンコップがヤンに逆らうなど、あってはならないことだった。
 ローゼンリッターのシャツも、野戦服も、ヤンが着けると手首の折れそうな重い大きな腕時計も、まあ物珍しいのだろうと、シェーンコップはひとまず口出しはしなかった。
 似合うとは言い難いにせよ、自分の服を嬉しそうに、楽しそうに着るヤンを見て、シェーンコップは内心確かにやに下がっていたし、いかにもシャツに着られて、布地の中に溺れている風が可愛らしくて──処置なし──、ああ、俺は確かにこの女(ひと)と結婚したのだと、素直に喜んでいた。
 ヤンに言わせれば、シェーンコップの服だから着るのだし、他の誰のでもいいと言うわけではないと説明されて、結婚式も結婚指輪もないこのふたりの間では、服の共有はその代わりのようだものだと受け止められていた。
 それはけれど、服の話であって、決してそこに下着が含まれると思ったことはなかった。
 ヤンは今、キッチンに寝起きのぼんやりした姿で立って、自分のために紅茶を淹れている。ひとり分の、しかもかけつけ1杯と言う風に、紅茶の味がすればいいと言わんばかりに、面倒くさそうに、マグに放り込んだティーバッグに湯を注いでいる。
 裸足で、脚も腕も剥き出しだ。この上ないほどだらしなく着ただるだるの白いシャツは、シェーンコップの下着のシャツで、後2度ほど洗ったら捨てるべきと判断する程度にくたくたになった代物だ。2度と言わず、次の洗濯のチャンスがあるかどうかだと思って、ちょっと端に分けて置いておいたやつだ。
 よれよれの裾はヤンの腰をほとんど見えない長さに覆い、その裾からちらりと見えるのは、部屋着やパジャマ代わりの短パンではなく、シェーンコップの、これも履き古しのボクサーだ。
 これはもう捨てるつもりで床のどこかにまとめておいたものを、ヤンが見つけて引っ張り出して来たらしい。
 両方ともコットン100%な辺りが、ヤンのこだわりだ。
 寝起きのこの頭の痛みは、頭痛なのか、ヤンに対する小言が吹き出そうにたまったものか判断がつかず、シェーンコップはただこめかみを軽く押さえた。
 シェーンコップが、後ろから自分を眺めているのに気づいて、ヤンは湯気の立つマグを手にこちらを振り返る。
 「コーヒー淹れるの? 今どくから。」
 まだ眠気の去らない、いつもより細まった黒い瞳で言いながら、こちらにぺたぺたやって来る。
 「提督・・・。」
 ため息の混じらないように気をつけながら、シェーンコップは自分の脇を通り過ぎようとしたヤンに声を掛けた。
 「何。」
 足を止めたヤンを、シェーンコップは横目に見る。繰り返し洗われて、すっかり生地の薄くなった白いシャツは、ヤンの本のページみたいな膚の色をうっすら透けさせて、広い、ゆるんだ襟から、胸元の、そこはまた違うトーンの質感の見える肌が露わになり、色っぽさからは銀河の果てと果てくらい隔たっているくせに、妙に扇情的な眺めだった。
 シェーンコップはぱちぱちと素早く瞬きをして、冷静な声を取り繕った。
 「私のシャツは構いませんが、さすがに下着は・・・。」
 しかも着古しの、と気弱に消えた語尾に紛れ込ませる。
 「え、だって、肌触りがいいんだもの。」
 ヤンが、シャツの裾を引っ張って見せる。確かに、水をくぐってくぐって、柔らかくなったそれは肌には心地良く触れるだろう。けれど限度と言うものがある。
 「ですが一応は下着ですから、そうやって着るのは・・・」
 「え、下着じゃないもの、下にちゃんと着てるもの。」
 そう言って、ヤンはさらに、シャツの右肩をぐいっと下げて見せた。言う通り、下にはグレーのタンクトップが見えた。そしてそれも、シェーンコップのものだ。けれどこちらは買ったものの着る気がなくて、包装もそのままどこかにしまっておいたものだった。
 新品のタンクトップを着て、その上に着古しの下着のシャツを着る、まったく持ってヤンのやることは理解し難い。
 そして結局、俺はこの女の、そういうところに惚れちまってるからな。
 小言などしまって、このままヤンのそのシャツを全部剥いてしまいたい気分になる。
 「こっちだってちゃんと履いてるし。」
 ヤンはいきなりシェーンコップに紅茶のマグを手渡して、空いた右手でシャツ──とタンクトップ──の裾を腹までまくり上げて、左手の指先で、そこに現れたボクサーショーツのウエストバンドを、威勢良く引き下げた。
 提督、と思わず声を上げそうになったシェーンコップの眼下に、ヤンの丸みを帯びた下腹を覆う、女性用のショーツが見え、
 「ね?」
 大丈夫でしょう、とヤンが微笑み掛けて来る。
 一体何がどう大丈夫なのか、いまだ一片もシェーンコップは理解できず、元は下着だけれど、今は下着としてではなく、単なる部屋着として使っているのだから問題などあるはずがない、そういうことなのかと、やっと理解したようなしないような、この女の頭の中は、宇宙よりも計り知れないと、シェーンコップはしみじみ考えた。
 「はあ・・・。」
 情けない、どっちつかずの相槌を打ちながら、まだ頭の中には疑問符が乱舞したまま、いや、ですが、とやっと反論をしてみる。
 「部屋着やパジャマが必要なら、買って来ますから──」
 「いらない、こっちの方がいいもの。」
 ヤンが、胸を張るようにして言う。こういう時だけ、自信たっぷりな態度なのはなぜなのか。
 「ふわふわで柔らかいし・・・。」
 言いながら、襟を指先につまみ上げて、そこに鼻先を埋める。柔らかさと、そしてもう洗っても消えない、染み込んでかすかに残るシェーンコップの体臭にでもか、ヤンが小さく鼻を鳴らした。
 ふわふわで柔らかいのではなく、くたくたでよれよれなのではと、シェーンコップは頭の中で言い直し、けれどほんとうに、ヤンが自分の着古した、素肌に直接馴染ませた下着を、好んで身に着けているのに、わずかに心が揺れる。
 ヤンが、自分の服を好んで着るのは構わない。けれどそれには限度と言うものがある。けれど間接的に、自分の素肌が常にヤンの肌に触れているのだと思えば、悪くない、と思い始めてもいる。
 処置なし、とシェーンコップはまた思った。
 まったくもって情けないことに、俺はこの女には勝てないのだ。最初から敗けたまま、喜んで膝を折ったのだから。
 今では元軍人、元魔女のヤンの、こんなだらしのない姿を見れるのはシェーンコップだけで、それもまたシェーンコップを満更でもない気分にし、結局言い始めた小言は、尻すぼみにどこかに消え去りつつあった。
 男物の下着が、女性の、しかもシェーンコップよりもはるかに小さくて薄い体に合うわけもなく、すっかりヤンの体の線を覆い隠して、誰にもその片鱗も窺わせないのは悪いことではないと、頭の隅で思う。
 ボクサーショーツは、腰の骨にかろうじて引っ掛かって、よれよれの裾が腿にまつわっているのに、自分の腕の中に余るヤンの、嵩の小さな──そのくせ、胸や腰の丸みは十分だった──体を思い出して、目覚めたばかりの朝の頭が、夕べに引き戻されそうになる。
 そうしてシェーンコップは、ヤンの着ている、自分の下着に嫉妬した。そこに在るべきなのは、本体たる自分であって、代わりのシャツではない。そんな代わりの偽物ではなく、本物を──。
 「じゃ、もう準備するから。」
 紅茶のマグを両手に抱えて、ヤンが寝室の方へ戻ってゆく。それを見送りながら、剥き出しの脚から腰へ上がり、背中をたどって首筋へ至る線を、どんなに隠れていてもはっきりと思い描くことのできるシェーンコップだった。
 熱があると言う言い訳で、また仕事を休むのは気が引けて、シェーンコップは渋々コーヒーを淹れるためにキッチンへ進んだ。
 ヤンがあれを脱いだら、もう少しましなのにこっそり取り替えておこうと決心して、意味もなく、今着ているシャツの襟ぐりを指先で軽く引っ張った。
 ヤンが、するするとシェーンコップのシャツを脱ぐ。ヤンの体温にあたためられ、そうしてさらにくたりとなって、床かベッドの上に放り投げられる。それをそのまま身に着けるところを、シェーンコップは想像した。
 ヤンの服を、シェーンコップが着るわけには行かず、けれどヤンが着た自分のシャツを着ることは、もちろんできる。ヤンはシェーンコップの体温を身に着け、その後でシェーンコップがヤンの体温を着る。そうか。そういうことか。
 直接ではない、素肌の交歓。誰にも知らせず、誰にも見せずに、そうして交わされる、剥き出しの皮膚。
 今着ているこのシャツも、いずれヤンが着るのかと思うと、永遠に手放せないような、今すぐ脱いでしまいたいような、そしてヤンに気に入られるのかと思って、また嫉妬の気分に襲われた。
 みっともない、と思ってから、ヤンの着ていたシャツのよれよれ具合にそっくりだと、シェーンコップはうっそり自分を嗤う。
 そんなシェーンコップのシャツがいいと、ヤンが言うのだ。
 ああ、そうか、と思って、今度はもう少しましな笑みが唇の端に走った。
 コーヒーのための湯が、さっきからしゅんしゅん音を立てている。それは耳に届かず、シェーンコップはヤンの着替えの気配に、しんと聞き入っている。

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