魔女番外編SSまとめ
◆ まだ言えない
* みの字のコプヤンさんには「最初は何とも思っていなかった」で始まり、「その言葉を飲み込んだ」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば8ツイート(1120字)以内でお願いします。(あなたに書いて欲しい物語)最初は何とも思っていなかった。英雄やら魔女やらと称されるにふさわしいオーラは微塵もなく、女にすら見えず、うっかり目の前で腕を組んでしまいそうになるのを耐えて、さてこれが新しい上官とはと、見えないように小さく首を振った。
本を読んで過ごせれば幸せ、他のことは何もしたくない、戦争なんか面倒くさい、でも自分がした方が被害が少なくできる、そう言い切る口調すら茫洋としていて、一体何を言っているんだと思ったのに、貴官を信じると言われて、無茶な作戦を提示されて、おだてに乗った自覚はなかったのに、気がつけばイゼルローン奪取の立役者だった。
これが魔女の魔法かと思った。そしてその魔女の横顔には、作戦成功の歓喜など微塵も浮かんではいず、すべては実行部隊──軍の鼻つまみ者のローゼンリッター──のおかげと、世辞でも建前でもなさげに言ったきり、その小さな体は奥へ隠れてしまう。
去ろうとする背に、追いつくのは簡単だった。背の小ささと歩みの速さは比例して、あちらが3歩のところをこちらは1歩半、そうして、向かい合ってしゃべる上と下の距離のせいの声の遠さに気づいて、思わず体を折った。
こんなに小さいのだと思った。司令官卓に上がって坐り込み、やっと揃う目線は、敵を滅する時には底なしの闇色に冷えて、瞳孔の色の見分け難いそこに表情が消え込んでゆく。
こんな間近でやっと、瞳の中に揺れる感情が見えた。寂寞。あるいは絶望。あるいは後悔。あるいは侮蔑。どちらにせよ、喜びと言うものからは程遠い感情。
虐殺者と人殺しが向き合い、血まみれの手を差し出すこともできずに、小さな肩へ首を埋め込むようにするのを、抱き寄せるなどまだ考えもつかなかった。
侵入のための変装を解かないままの、偽の帝国軍人の姿を見上げて、
「ほんとうに、本物みたいに見える。今回はほんとうにありがとう。」
亡命者であること、貴族の使う帝国語の使えること、同盟側では瑕瑾になれこそすれ、自慢になどならないことに、魔女が小さな声で、けれどはっきりと感謝の意を示した。
思わず胸を張るように背筋を伸ばして、今までにしたこともないような敬礼をした。
魔女はそれを見て、くすぐったそうな笑みを浮かべ、肩をすくめる。じゃあねと軽く手を振り、そのままどこかへ去ってゆく。
上げた手を、背中がその先の角を曲がって消えるまで下ろさずに、あの女(ひと)が自分の上官なのだと、痛いほど思った。
戦斧を握る掌に、気づけば汗をかいて、そのくせ背中が冷えている。トールハンマーを発射させた魔女の声と瞳の、髪と同じ黒さは、宇宙の闇の色だとも思う。
上も下もない宇宙に漂い、足元のないその感覚へ吸い込まれそうになりながら、貴女のためなら死んでもいいと、ふと浮かんだその言葉を飲み込んだ。
◆ 魔女の本心
* コプヤンさんには「指先が触れた」で始まり、「意味なんてないけどね」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば5ツイート(700字)以上でお願いします。(あなたに書いて欲しい物語)指先が触れた。それは単なる偶然だったけれど、ヤンは手を引っ込めず、シェーンコップはそのままヤンの指先を絡め取った。
いつもの、あのヤンの指先をつまみ上げて小さいですなとからかう──今では、それはもっと別の響きに変わっている──時とは違って、ヤンの小さな手を大きな掌に包み込むように握りしめて、子どもが迷子になるのを恐れる保護者のように、シェーンコップはずいぶん下から見上げるヤンの視線を、ほとんどうつむきながら受け取って、それからそっと歩幅を狭めた。
今さら、手を繋ぐなど特別なことでもないけれど、結婚以前に、私人としての親しい付き合いのなかったヤンとシェーンコップは、結婚してから恋人同士になったようなもので、色々と狂ってしまった順序に時々戸惑いながら、今もシェーンコップに手を取られて、ヤンの頬が少し赤い。
抱きしめられる時に痛いほど伸び上がる爪先や、シェーンコップに向かって反らせる背や、シェーンコップの方は、ヤンの小さな体に向かって体を折り曲げるようにして、腕に力を込め過ぎないように、いつだって注意している。
互いのひとつびとつに慣れるのには、それなりに時間が掛かり、過去に何人恋人や愛人がいようと、目の前のこの人物とは何もかもが初めてなのだ。ヤンに至ってはこれ以前の恋が思春期の頃、記憶はもう化石化してしまっている。
シェーンコップの手は、いつもあたたかい。夜、ベッドの中で本を読んで、本を持って冷えた指先を、寝る時には脚の間へ挟んであたためたりしていたけれど、今では手を差し出せばそれをシェーンコップが自分の手に挟んで、あるいは背中に回させてあたためてくれる。
寒くないっていいなあと、夜になるたびヤンは思う。
陸戦部隊は、凍死しないために、野営になれば皆で固まって抱き合うようにして眠ることもあると、ヤンを抱きしめてシェーンコップが言う。シェーンコップの自分よりも高い体温を吸い取りながら、そうしてシェーンコップが救った命と、救われたシェーンコップの命と、その一方で、自分が奪った大量の命へ向かって、ヤンは黙祷のように目を閉じる。
死んだ人間は生き返らない。死んだ魂がどこへゆくのか、誰も知らない。その体にもうぬくもりはなく、分け合える何も存在しない。
この戦争が続く限り、ヤンの手のひと振りで、シェーンコップが死ぬことになるかもしれない。これまでのどの時よりも終戦を強く願っている自分のエゴを、ヤンは真っ直ぐ醜いと思う。
自分が、思っていたよりもずっと自分勝手な人間であることを、シェーンコップがゆっくりと露わにしてゆく。誰かとこんな近さで向き合うと言うのは、こういうことなのかと、ヤンはまだ好きともはっきり言ったことのない男を、喉を伸ばして見上げた。
言葉の代わりに、シェーンコップにぬくめられた自分の掌から、シェーンコップへ体温を返すために、ぎゅっとその大きな手を握り返す。さり気なく、骨の固い手の甲へ指先を滑らせて、ふたりきりの時にだけそうすると同じやり方で、ヤンはシェーンコップの手を撫でた。
意味なんてないけどね。
胸の中でひとりごちるのを、首筋に上がった血の色が、すっかり裏切っていた。
◆ 分け合う
* コプヤンさんには「ぬくもりを半分こした」で始まり、「いっそ消えてしまえばよかった」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば2ツイート(280字程度)でお願いします。(あなたに書いて欲しい物語)ぬくもりを半分こしたつもりだった。自分の手足が冷たいのだと、ヤンはあまり自覚がなく、シェーンコップと抱き合って眠るようになってから、自分が触れるたびシェーンコップの膚の上に鳥肌が必ず走るのを見掛けるようになってから、自分の体がそんなに冷たいのだと知った。
女性の体温は低いものですよと、シェーンコップは何でもないように言う。
今まで付き合った、山ほどの女性たちのことを言っているのだろうと見当はついて、不思議とシェーンコップの過去に嫉妬は湧かず、詳しく彼女らのことをいちいち訊きたいとも思わない程度に、ヤンはそのことに特に関心はないのだった。
子どもの頃からの商船暮らし、その後は士官学校へ入り、そのまま軍隊へ生活の場がスライドしてしまい、ヤンには同性との付き合いと言うものがほとんどなかった。恐らく、女性と言うものが一体どんな風に生活しているものなのか、シェーンコップの方が詳しいに違いない。
化粧のことも知らない。服の選び方も知らない。服を買うと靴やカバンもそれに合わせて選ぶものと、つい最近シェーンコップに教えられた。
女の人って大変だねとヤンが正直な感想を口にすると、男も案外面倒なものですよとシェーンコップが返して来る。自分は、女だ男だと言う面倒すべてから逃げて来たと自覚のあるヤンは、シェーンコップみたいな、生まれながらにすべてを備えているような男も、男であるために見えない煩わしさがあるのかと、不思議に思ったものだ。
女にせよ男にせよ、苦労は人それぞれ、ヤンにだって誰にも言わない悩みらしきものはないでもない。
今は、自分の手足、特に指先をどうしたらあたたかくできるかと言うことに苦心している。
自分に触れられるたびに、ひやりとさせるのは可哀想だとシェーンコップのことを考え、手袋をすればいいと思いついたけれど、それでは本のページをめくるのが面倒だし、紅茶のカップも持ちにくい。
始終こすり合わせていようかと思ったけれど、様々なことをすぐに忘れる自分に、そんなのはきっと無理だ。
ベッドに入る前にシャワーを浴び直そうかと考えて、面倒くさいとまず思った。
そうして結局、せいぜいが、淹れたばかりの紅茶のカップや紙コップを両手で包んで、ぬくまったその手で、シェーンコップの顔や手や首筋に触れると言うことしか思いつかなかった。
近頃、時々それをヤンがやるたび、シェーンコップは冷たい手を当てられた時よりも驚いた顔をして、それから苦笑する。ヤンの手が冷たくないのを喜んでいる素振りはあっても、その方が冷たいよりずっといいと言う言い方は引き出せず、ヤンはちょっとだけがっかりするのが常だ。
シェーンコップが、ヤンの冷たい手を、自分の膚であたためるのを気に入っていること、ヤンのひやりとした体が、抱き合ううちに体温を上げてゆく変化が好きなのを、ヤンは読み取れてはいず、その冷たい手足で夜更けに起こされることには少々閉口はしていても、だからと言ってベッドに別にしようだの、ここに毛布をもう1枚増やそうだのと言わずに、まず自分を抱き寄せに来るシェーンコップの振る舞いの意味を、理解できない程度に、ヤンはこの手のことに疎かった。
今ではもう、シェーンコップの体温にすでにぬくまったベッドでなければ眠れず、手足の伸ばし切れない窮屈さなどよりも、その先に触れるあたたかさが何より大事なヤンだった。
様々のことを半分ずつ背負うつもりで一緒にいて、結局はシェーンコップに負担を強いているだけではないかと思う時々の夜に、それでもいいと言ったのはこの男だったっけと、都合良く以前の記憶を取り出して、ヤンはとりあえず目先の安眠を貪る方を優先する。
ぬくもりを半分ずつどころか、多分自分はこのあたたかな体から体温のほとんどを吸い取っているに違いないと思いながら、ヤンはシェーンコップへ抱きついてゆく。
いっそ体温ごと消えてしまえればよかったと、冷たい体をまたすり寄せて来るヤンを全身で抱きしめて、熱い掌を小さな薄いその背中へ滑らせてゆくシェーンコップの片頬に浮かんだ笑みは、シェーンコップの胸に顔を埋めるヤンには、今夜も見えないままだった。
◆ Tea Break (承前)
* コプヤンさんには「ある晴れた日のことだった」で始まり、「もう遅すぎた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば2ツイート(280字程度)でお願いします。(あなたに書いて欲しい物語)ある晴れた日のことだった。天気はいいのに肌寒く、思わず背中を丸めてポケットに両手を差し入れたくなるような、そんな天気だった。
シェーンコップはいつものように、ヤンのために紅茶を買い、できるだけ熱くしてくれと、ちゃんと沸騰させた湯を使ってくれるように頼み、それを手に休憩中のヤンの元を訪れる。
ヤンは、シェーンコップが近づいて来るのを見てちょっと目元をほころばせる。こんな表情を見ると、この女(ひと)が魔女と呼ばれて全銀河から恐れられていると言うのが信じられなくなる。
シェーンコップもちょっと微笑みを浮かべて、紅茶をヤンに差し出した。
「ありがとう。」
何度こうしても、ヤンは必ず礼を口にする。休憩が終わり、別れる時にも、紅茶をありがとうとまた言う。たかが紅茶1杯、しかも部下からの差し入れに、要塞司令官がわざわざ感謝を口にするほどでもないとシェーンコップは思うのに、ヤンは、シェーンコップに対して──相手が誰だろうと──、感謝の意を示すことを決して忘れない。
今日は少し寒いせいか、ヤンは上着の袖で手を覆うようにし、紙コップを受け取るのに指先だけを露出して、熱いのに気をつけながらそれを自分の方へ引き取った。
小さく飲み口の空いたふたから、かすかに湯気が出ているのと、手指に伝わるしっかりとあたたかさにか、ヤンが手の中のカップにうっとりとした表情を向ける。
上等のブランデーでも差し出されたように、ヤンが、ティーバッグを放り込んだだけの紅茶を嬉しそうに抱え込み、さらにうっすらと頬を赤く上気させるのに、シェーンコップは心臓に刺されたような痛みを感じた。
ヤンは本気で、シェーンコップの──誰からのでも──差し入れの紅茶を喜び、そしてそれへの感謝を隠さずに示し、挙げ句シェーンコップの目の前でこんな表情を見せる。ただの紅茶の1杯で。
大切な人の歓びの様子と言うのは、熱いコーヒーよりも体をあたためてくれる。シェーンコップは痛みを感じる心臓を、ヤンの目の前で押さえないようにするのに必死だった。
写真でも撮って、銀河中にばらまきたいと思ったけれど、自分だけが知るヤンと思って、シェーンコップはそれを痛みに耐えながら諦めた。
ヤンはやけどに気をつけながら、飲み口にそっと唇を近づけて、熱い紅茶を小さくひと口飲んだ。
なぜだかは分からないけれど、シェーンコップの手渡してくれる紅茶はいつも必ず熱く、そのせいか他の時の紅茶よりも美味しい気がして、そしてその熱さがいつまでも続く気がする。
今日は昨日より寒いから、この熱さは何よりありがたかった。ヤンは紙コップを両手で包み込んで、それで暖を取り、飲み口から上がる湯気が自分の口元もぬくめてくれるのに、唇と頬がゆるみっ放しなのに気づかない。
仕事に戻りたくないなあと、思いながら、特に意味はなくシェーンコップを見た。紅茶の熱さの優しさになごんでいる表情をそのままシェーンコップに向けて、
「美味しい、ありがとう。」
普段より1回多く、ありがとうと言った。
シェーンコップが顔を強張らせ、ふっと向こうを向いた。
何かまずいことを言ったかと思ったけれど、紅茶ですっかり内心のとろけているヤンは、眉の間をうっとりと開いたまま、抱え込んだ紅茶をまたひと口飲む。
明日は紙コップのサイズをもうひとつ大きいのにしようと決心しながら、シェーンコップは隠そうと思っていた素振りを剥き出しに、今は思わず心臓へ掌を当てている。
心臓はちゃんと動いていた。心臓が止まったと思ったのは錯覚だった。死んでしまっては、ヤンに紅茶を差し入れられない。死ぬな、生きろ、とまるで戦場のように、シェーンコップはそこで自分を励ました。
ヤンはただ熱い紅茶を喜び、シェーンコップはそれに喜ぶヤンを眺めて喜んでいる。
ヤンの表情や首筋や唇や手指や、見つめまいと思うのにもう遅すぎた。
いかにも美味そうに差し入れの紅茶を飲むヤンを、シェーンコップはじっと見つめて、ヤンは紅茶に目を細め続けて、ふたりの間を隔てるのは、今は紅茶の湯気だけだった。
◆ 爪先立ちの恋
* みの字のコプヤンさんには「爪先立ちの恋だった」で始まり、「私はこの人に惹かれている」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば2ツイート(280字程度)でお願いします。(あなたに書いて欲しい物語)爪先立ちの恋だった。
どれだけ背の高い相手でも、見上げれば済む話だったのに、シェーンコップ相手には爪先立ちが必要になってしまった。
鬱陶しいほど濃いまつげの、その1本1本を数えられるほどの近さに寄って──近寄せて──、体の発する温度を感じても不安にはならずに、むしろそのあたたかさを掌に吸い取るのが当然になってしまった。
明け方目を覚まして、すぐには眠りに戻れず、隣りにいるシェーンコップを起こさないように近々と眺めて、こんな薄明るさの中で他人の顔に見入る日が来るとは思わなかったと、ヤンは裸の胸元に毛布を引き上げながら思った。
気兼ねなく、届かないあれこれを取ってくれと頼めるのが、こんなに気楽とは思わず、確かに脚立や踏み台をいちいち使わなくてもいいのは便利だと、なぜ結婚したのかと訊かれるたびヤンはそう答えている。
嘘ではない。シェーンコップも同じように、ヤンに脚立を使われると危なくてしょうがないと答えて、周囲を煙に巻いている。
そうして近頃、踏み台を使うのは手の届かない棚のためだけではなく、背伸びをしたところでせいぜい肩までしか届かないシェーンコップに、届くためにも使うようになった。
目線が近くなると、何だか妙な気分になる。遠いのが当然の相手が、近くなり、易々と届くようになり、そうすると触れやすくなって、もっとシェーンコップに触れたくなる。
首筋に掌を当て、頬を両手で包んで、いっそもう1段高いところに上がって、上からシェーンコップを見下ろしたくなる。
体の厚みと背中の広さで、ヤンの両腕では持て余すシェーンコップを、それでも精一杯抱き寄せて、脚立の上でさえ爪先立ちに背伸びをしながら、仮にここから落ちる羽目になっても、シェーンコップが受け止めてくれるだろうと言う、出会った最初からヤンの中にあった、奇妙にしっかりとした信頼感。
そうやって自分にあれこれとしてくれるシェーンコップに、何のお返しができるのだろうとヤンがぼやけば、
「床や地面には貴女の方が近いですから。」
と、この間シェーンコップが落としたカフスボタンを、ベッドの下から拾い上げた時の話をして来る。
それは比較対象としては条件が違い過ぎはしないかと思ったけれど、自分だけが一緒にいるメリットを享受しているわけではないのだと、シェーンコップの言ったそのままを素直に受け取ることにした。
ヤンに届かない場所もあれば、シェーンコップには届かないものもある。お互いさまですよと言うシェーンコップへ、そうかもねとヤンは反論せずにうなずく。
ヤンは今日も背伸びをして、痛む爪先に閉口しながら、シェーンコップの首へ両腕を巻き付けてゆく。
もう、伸ばす首の具合も、後ろへ反らす頭の角度も、体が覚え込んでしまっている。シェーンコップのために、そうなってしまったヤンだった。
誰も届かないと思っていたヤンの内側に、シェーンコップは届いてしまった。届くとも届きたいとも思わなかったシェーンコップの唇に、ヤンは届いてしまった。
爪先立ちの自分のために、体をかがめて来るシェーンコップへ、これもお互いさまのひとつだとヤンは思う。
あなた──貴女──には届かない、そう思っていた時を思い出にしながら、ふたりは今日も添わない体を精一杯の近さの寄せて、そこにはもう踏み台以外は入り込めない。
ヤンの爪先が、どこよりも何よりもシェーンコップへの恋を雄弁に語っている。
やがて浮き上がるヤンの恋する爪先に蹴られて、踏み台が横倒しになっても、シェーンコップの腕は揺るぎもせずに、ヤンはただ、わたしはこの人に惹かれていると、ぷらぷら爪先を宙に揺らしながら思うだけだった。