禁断症状
妙に空気がぴりぴりしていた。十何人かまとめて入隊して来た新人の訓練に、連隊長のリンツだけでは手が足りず、シェーンコップが手を貸すと申し出て来て、実際に新人たちをしごき始めてもう1ヶ月、やっとそれなりに隊員らしくなって来た彼らは、それでもたかが数週間で戦力に数えられるはずもなく、補充員の補欠の補欠がやっとだ。
それでも、隊の一番後ろに配置してそのまま放置しても、自力で逃げ帰って生き延びられる程度にはなりつつあるようだった。
死ぬな、生きて戻れ、と言うのが、ローゼンリッターの教えだ。おまえらはまず生き延びることだけ考えろ。シェーンコップがそう繰り返し言う。生き延びて初めて、大事な人たちに再会できる、生き延びたい理由に、これ以上重要なものはないと、真剣にも冗談混じりにも、シェーンコップは訓練中に、何度も何度も同じことを言った。
そうして今日は、同じことを言う口調に、何か切羽詰まったような響きがあって、その声音を聞き取れるのは、付き合いの長い、現連隊長のリンツだけだったかもしれなかったけれど、シェーンコップはなぜか、今組み手の相手をしている新入りの首を後ろから腕で絞め上げながら、肩へ近寄せた顔に辛そうな表情を浮かべている。
抵抗できずに落ちるしかない新米を憐れんで、と言うはずもなく、すっと動いた灰褐色の瞳が新人の、色の濃い、ほとんど黒に近い波打った髪へ当てられると、シェーンコップの腕は突然ゆるんで、気の毒な獲物ををそっと床へ下ろした。
絞め上げられていた喉へ手を当て、ぜえぜえ息を継いでいる新入りを見下ろして、シェーンコップはリンツへ声を投げて来た。
「リンツ、ちょっと抜けるぞ。後を頼む。」
組み手の練習には、新参者に怪我をさせないために、熟練の隊員の手がいる。それを承知でいきなり抜け出すと言い出すのだから、何か大事な約束でも思い出したのかとリンツは思った。
シェーンコップは、床で背中を喘がせている新人を、ほとんどまたぐように、足早に部屋を横切り、脇目も振らずに真っ直ぐドアに向かう。数人の隊員たちが、元連隊長の、奇妙に緊張した背中を、その緊張を伝染(うつ)されながら見送った。
シェーンコップは、汗まみれの訓練着を脱ぎもせず、そのままローゼンリッターの詰め所を出て要塞内の中央部へ向かう。軍服がなければ、階級も分からないシェーンコップを、顔を見覚えていず少将と見分けられずに、何か異様なものでも見るように振り返っても、敬礼はしない者もいた。
シェーンコップは、ほとんど走るように目的の場所へ向かった。
「ヤン提督。」
敬礼もへったくれもなく、ただ呼び掛けながらヤンの執務室へ入る。書類に埋もれて、こちらもずっと忙しいらしいヤンが、やや疲れた顔を上げて、不意に現れたシェーンコップに驚く。
そうして、シェーンコップが、ヤンは見慣れないローゼンリッターの訓練着のままであることに気づくと、物珍しげな視線を投げて、さっと椅子から立ち上がった。
「シェーンコップ、そんな格好で一体──」
小走りの足をさらに速めて、シェーンコップは4歩でヤンの机を回って来て、ふた呼吸の後にはヤンの傍らにいた。
「失礼。」
言うが早いか、シェーンコップの両腕がヤンの体に巻きつく。
いつものコロンの香りはせず、ただ汗くさい。ヤンに触れて来る首筋や髪が湿っていて、訓練が済んだばかりなのか途中で抜け出して来たのか、シャワーどころか顔の汗すら拭わずにここにやって来たのだと分かる。
見慣れないシェーンコップの様子に戸惑った後で、ヤンは、シェーンコップの背中を黙って抱き返した。
もう数週間、忙しくてろくに会っていなかった。会うと言うのが、ただ顔を合わせて話をすると言う意味ではなくなっているふたりには、完全にふたりきりになれるまとまった時間が必要でも、その機会を作るには互いに忙し過ぎる身で、通路ですれ違う時にこっそりと物陰に入って1分足らず、忙(せわ)しく指を絡めて唇を交わす程度のことしか許されない。
明らかに、それでは足りないと表情に浮かべても、それ以上はどうしようもなかった。
そうしてついに、シェーンコップは、言ってしまえばヤンの禁断症状を起こし、空になった充電池を満たすように、こんな風にヤンに会いに来てしまった。
それはヤンも同じだった。力いっぱい抱きしめて、抱きしめられているだけで、身内がゆっくりと満たされてゆくような気分になる。好物でも口にしたように、腹と一緒に心が満ちてゆく。
これが必要だったんだなあと、ヤンは目をほとんど閉じるようにして、シェーンコップの肩へ頬をこすりつけていた。
大切な人に会いたい、生きるために、これ以上大事なことはない。そう新入りのローゼンリッターたちに言い続けて、シェーンコップがいつも思い浮かべるのはヤンの顔だった。
今では、生きると言うことがヤンと共に在ることと同義になってしまっているシェーンコップは、一緒にいる時間の長さだけが重要なのではないと知っていて、それでも物理的にヤンの傍にいられなければ、何かが自分の中から抜け落ちたまま過ごしているような違和感にエネルギーを吸い取られて、結局こうして、ただヤンを抱きしめに、こんな姿のまま、ここまでやって来てしまった。
ヤンの髪にごしごしと頬をこすりつけて、どれだけ触れても匂いのしないヤンから、何かその痕跡が移ることは滅多になく、けれどよく見れば、ヤンの指はペンのインクで汚れ、そのインクの匂いがかすかにする。シェーンコップは、ヤンの首筋の辺りで、大きく息を吸って、吐いた。
「失礼しました。」
自分のむさくるしい姿を突然思い出して、シェーンコップは突き飛ばすようにヤンから体を離す。
急に空になってしまった自分の両腕とシェーンコップを交互に見て、ヤンが、抱きしめた時よりもさらに強い困惑を刷いて、否定するように首を振る。
「待ってくれ。」
肩から外れたシェーンコップの腕の行方を視線で追って、今度はヤンがシェーンコップを抱き寄せに掛かる。軽く背伸びをして反った背で、シェーンコップの首へ両腕を回し、髪の根辺りへ鼻先を埋めて来た。シェーンコップはヤンを抱き返すのに躊躇して、
「訓練の途中で、まだ、シャワーも浴びていません・・・。」
珍しく声が弱い。
「いいよ、そんなの、別に。」
汗に濡れたシェーンコップに、馴染みがないわけではない。もっとも、そんな時にはヤンも一緒に汗まみれなのだけれど。
君だなあと、しみじみとヤンが言う。やっとまたヤンを抱いて、ええ、私ですよと、シェーンコップは答えた。
結局そのまま、しばらくふたりで抱き合った後、机の端に並んで腰を引っ掛けて、ヤンはシェーンコップの肩へ頭を乗せ、シェーンコップはそのヤンの頭に自分の頭を傾け、互いの腰に腕を回すのだけは今は我慢した。
執務室のドアに背を向けて、それはまるでふたり揃って、忙しい現実から目を背けるような姿勢で、
「このまま、何もかも全部放り出して、消えてしまいたいなあ・・・。」
仕事にうんざりしてか、ヤンがかすれた声で言う。ヤンの髪へ頬ずりしながら、シェーンコップは小さく笑った。
「ご一緒しましょうか。閣下と共に、小官も消えるとしましょうか。」
「ああいいなあ、そうしたら、わたしひとりで叱られなくて済む・・・。」
眠気にでも襲われたような、茫とした声が言う。
叱られると言って、ふたりの脳裏に同時に浮かんだのは、キャゼルヌだったのかムライだったのか。どちらもシェーンコップは鼻先で笑い飛ばせる相手だけれど、ヤンの方はそうも行かないだろう。
シェーンコップは自分の顔の位置をずらし、わざとヤンの唇へ近寄って、そこへ息を掛けるようにささやく。
「明後日辺り、風邪を引くと言うのはいかがですか。激務が体にこたえた、と言うのは司令官閣下には珍しくもないことかと。ここで体を壊してしまっては、元も子もありませんからな。」
ヤンが、じろっとシェーンコップを上目に睨む。
「わたしは──でも、君は──?」
「私だって風邪くらい引きますよ。上が、大事を取るべき時には取ると言う姿勢を、下に見せるのも大切と思いますがね。」
「特に、君のところの新人には、だろう。」
「大切な人に会うために生き延びろと、言い聞かせている最中ですよ。」
「君らしいな・・・。」
笑いの混ざったヤンの声を吸い取るように、シェーンコップの唇がヤンの唇を覆う。ほんの数秒、触れ合う、音もしない接吻だったけれど、ヤンが頬を赤らめるには十分だった。
手を伸ばして、ヤンがシェーンコップの髪を梳く。汗に湿って、コロンはおろか、シャンプーの香りも整髪料の匂いもどこかに飛んでしまっている。それでもヤンはシェーンコップの汗くささに構わず、そこで深く息を吸った。
「でも今無理矢理仕事を休んでも、きっとわたしは1日中寝てるだけだよ。」
「結構、喜んでお付き合いいたしますよ。」
「・・・寝るだけで何もしないなんて、信じられないんだが・・・。」
「それは、あり得ないと言う意味ですか、それともそれではつまらないと言う意味ですか。」
ここへ飛び込んで来た時の、切羽詰まったような表情はどこへ置いて来たのか、シェーンコップはいつもの調子を取り戻して、意地悪くヤンを問い詰めて来る。ヤンはむっと唇を突き出し、それから、決まり悪げに視線をよそへずらした。
「・・・両方、半々、かな・・・。」
案外素直にそう答えたのに、今度はシェーンコップが驚いて目を丸くする。それから改めてにやりと笑うと、ヤンの肩を引き寄せた。
「たちの悪い風邪なら、もう2、3日休みが必要でも仕方ありませんな。」
ヤンの唇へ、そういたずらっぽく言うシェーンコップの息が再び掛かり、ヤンはほんものの疲れのせいで、まるで酔ったようにそこへ引き寄せられて、自分から顎を持ち上げ、シェーンコップの唇へ触れた。
シェーンコップが足りずに、ヤンだって禁断症状を起こしている。急速充電で、多分今日の残りと明日は大丈夫だろう。けれど明後日にはまた電池切れを起こすに違いない。ああそうだな、わたしはきっと風邪を引くんだ、シェーンコップと一緒に。偶然、同じタイミングで。
大切な人がいなければ、生き延びる甲斐もない。
せっかく生き延びるなら、一緒に、と、思いながら、互いに唇の重なりが深くなるのを止められずに、息継ぎの間(ま)に、明後日、と低くささやき合っている。
ただ寄り添って、眠れればいい。1日は疲れを取るために。次の1日は、自分の中を満たすために。最後の──多分──1日は、相手を満たし切るために。
すでに眠気のような心地に襲われながら、ヤンはシェーンコップにしがみついて、柔らかな、湿った髪の根へ指を絡みつかせる。シェーンコップが滅多と見せない、あちこち整わない姿に好感を抱いて、自分も疲れた顔を隠す気など端からなく、ふたりで一緒に、ぐっすりと眠り込む姿を想像して、自分に今いちばん必要なのはそれだなと、ヤンはさらに強くシェーンコップへ抱きついた。
食事と睡眠、そしてヤン、そしてシェーンコップ。
そろそろ仕事に戻る頃合いだった。肩を離しながら、明後日、と互いへ向かってささやいて、机から立ち上がる一瞬前、もう一度唇が磁石のように引き合った。
充電が終了するのに30秒、完了の音──あったかどうか分からない──を聞き逃して、明後日を待てない手がシェーンコップの背を探り、ヤンの上着の下へ入り込んでいる。
次に理性が、もう少し大きな警告の音を立てるまで、ふたりの輪郭はひとつに溶け合ったままでいた。
あーあー風邪を引いてしまったかな、こほんこほん。熱があるみたいだ。
我ながらわざとらしいと思いながら、ヤンは気分の悪い振り──実のところ、振りだけではなかった──で早退し、ほんとうに、シェーンコップがそう目論んだ通りに、ふたりはそのままベッドにもぐり込んで、ただ眠った。
ふたりとも、夢を見たかどうかも定かではなく、ヤンは一応は持ち込んだ本を1ページほどは読み進み、そのヤンの胸に顔を埋めてシェーンコップはすでに眠りに落ちて、ヤンは紙の上の物語の先よりもシェーンコップの寝顔の方が気になって、結局それを眺めているうちに寝入ってしまった。
ぐっすり眠り込んでいるシェーンコップの、額と鼻筋へそっと触れ、起こさないように、唇の線をなぞった。寝息が差し出した指先に当たって、その無防備な寝顔が珍しくて、たまにはこんな風に、ただ寄り添って眠るだけと言うのも悪くないなと、ヤンはもう眠り掛けながら考えていた。
互いの体へ巻き付けた手足。かすかに上がった、ふたり分の体温で、ヤンはいつの間にか毛布の下から左足を突き出して、まっすぐではなくやや斜めにベッドを横切り、寝乱れた黒髪はシェーンコップのあごと首筋に触れている。
寝息の速度が少し違い、ずれるうちにぴったりと重なる瞬間を何度も繰り返して、ふと呼吸が途切れるとどちらかが寝返りを打ち、遠ざかった背中へ、まるで見えているように胸が重なり直してゆく。
獣の仔の本能のように、自分のものではない体温を求めて、ふたりは体の位置や姿勢を変えながら、ほとんどひと時も離れない。
シェーンコップの前髪は、時々目元をすっかり覆って、ヤンの好きな、閉じたまぶたの丸みを隠してしまう。瞳の色を交わさずに、代わりに、シーツの上に散った髪の先が時々絡み、そのつもりはなくシェーンコップが肩の下に敷き込んでしまったヤンの髪の先は、寝返りで引っ張られても、目も覚まさないほどヤンの眠りは深い。
目が覚めれば、やっぱり疲れてたんだなあと、互いに見交わすところだけれど、ふたりはひたすら眠りを貪って、何週間かぶりのぬくもりに溺れ切っている。
ヤンの手が動き、自然に体温の高いところを探って、シェーンコップの首筋へ掌が添えられる。シェーンコップはその手へ顔を振ってさらに添い、少し後にはヤンの胸元へ向かって体を丸めて、伸ばした腕をヤンの背中へ滑らせる仕草が、眠りの中とも思えない。
それでも、夢を見ている証拠に時折震えるまぶたの開くことはなく、起きている時同様に互いの体のあちこちを探っても、それが不埒へ進むことはなかった。
とは言え、シェーンコップの手は、それが当たり前のようにヤンのパジャマの裾から中へ忍び込んだり、ヤンはシェーンコップの腕を自分の方へ引き寄せたり、馴染み切った体は、本人の意思に関わらず、欲しいように動くものらしかった。
寝乱れてずり下がったヤンのパジャマの下の、腰回りのゴムへシェーンコップの指先は掛かったまま、あるいは背中の真ん中へずり上がったシェーンコップのシャツの内側へ、ヤンの掌は堂々と侵入したまま、それ以上の先はなくても、そこまでは勝手に動くふたりの手だった。
仕事に忙殺され、ヤンは煩いに目が冴え返り、シェーンコップは体が疲れ過ぎて脳が休めず、仮病を使ってまで強引に取った休みが、やはり必要だったのだと思わせる、ふたりの深い眠りだ。
真のところは仮病ではなく、ふたりは確かに、互いが足りずに欠乏症に陥っていたのだ。
眠りの間に、ぬくもりと匂いを自分の中に満たして、見つめ合えば肋骨を割るかと思うほど心臓がそこを叩き、抱き合ううちにそれは落ち着いて、鼓動は間遠になる。呼吸を合わせるうちに、ごくゆるやかに深くなる息使いが、ふたりを一種の瞑想状態へ陥らせる。
シェーンコップは、それを充電と表し、ヤンも似た類いの表現をし、互いを互いで満たさなければ、飢えて渇いて、干乾びてしまう。架空の餓死の害は、極めて現実的だ。
眠る間に、体温を交わし、呼吸を重ね、飢えていた体を潤して、動き続けていた脳はすっかり働くことをやめ、死にも似た休息を貪って、ただ闇の中を漂ってゆく。
ひとりきりの睡眠では足りない何かを、ふたりで寄り添って補い、完璧な眠りと言うものがあるなら、まさしく今ふたりの様がそれに違いなかった。
色違いの髪は、シーツと枕の上で混ざり合い、まるでひとりの髪のようなひと房になり、ふたつの体も毛布の下で、手足と肩と胸が、どちらがどちらのと見極めもつかないひとつの輪郭に収まっている。
ふたりは、奇妙な形のひとつのものになって、ふたつの眠りをひとつにしてそうして眠り、ただ穏やかな、悪く言えばだらしのない寝顔を、見えはしないのに見せ合っている。
もう半日、きっとふたりは眠り続け、やっとぼんやりを目を覚まし、寝ぼけたままベッドを抜け出して、一体今が何時なのかも分からずに、
「・・・いっぱい寝たね・・・。」
「・・・寝ましたな・・・。」
寝起きのかすれた声でそう言い合って、寝汗に湿った額をこすり合わせるだろう。
ぼさぼさの髪を互いに笑い、眠っていた時と同じに、互いの体から腕を離すことができずに、ようやく寝足りた、互いで満ち足りた、潤いと輝きを取り戻した瞳で見つめ合って、記憶の定かではない夢の話でもしながら、今度は現実の空腹を満たす相談へ掛かる。
脳は正常に動き、心臓は適度に肋骨を叩き、そうしてシェーンコップは、ヤンが頭を乗せていたせいでしびれている左腕を撫でながら、ヤンのパジャマのズボンの裾をわざと踏むと言ういたずらを始めて、次の寝床をキッチンの床の、テーブルの陰と定められるかどうかは、ヤン次第だ。
まだもう少し眠りたいと言うヤンと、再びベッドに戻るかもしれない。戻らないかもしれない。目が覚めるまで分からない。
ヤンのあたたかな寝息がシェーンコップのシャツをかすかに湿らせて、ふたりの目覚めの時は、もう少し先だった。