シェーンコップ×ヤン。

貴方の名前

 ヤンが時々書いてくれるヤンの直筆の名前の字を、シェーンコップはいまだに文字と認識できないのだけれど、字と言うよりは絵のように見えるそれらを、ヤンに書いてくれとわざわざねだって、シェーンコップは手元に保管していた。
 ちょっと凝ったカードや、美しい意匠の便箋を見掛けると、ついヤンの名前をその上に見たくなる。同盟共通語の、ヤンの手書き文字はお世辞にも読みやすいとは言えず、それなら恐らくヤンの名前の文字も、美しいとか達筆とかそんな風に言えるものではないのかもしれないけれど、シェーンコップにはどちらにせよそんなことは分からないし、分からないままで良かった。
 育ちのせいかどうか、ヤンの共通語は皆とは微妙に発音が異(ちが)い、そのヤンの音で呼ばれる自分の名は、シェーンコップにはどこか異国の戦律めいて耳に届く。
 ヤン──だけではなく、同盟の誰にも──に、母国語そのままの帝国語の発音など期待してはいないし、同盟に来れば亡命者の帝国語の名前は、同盟共通語にその発音を合わせるのが当然とされる中で、いちいち自分の名を正確に呼ばれないと言って腹を立てるほど、シェーンコップも暇ではなかった。
 名前など、ただ個人を判別するための記号に過ぎないと、帝国貴族と分かるフォンの使用を強制されているシェーンコップは思っているし、ほんとんど皮肉で、何なら軍籍番号でも何でも勝手に好きに呼べばいいとその時の上官に向かって吐き捨てたこともあった。
 振り返れば、敬意なりある種の愛情なりをこめて他人に自分の名を呼ばれた経験のあまりの少なさ──亡命者の運命だ──ゆえの、一種の自暴自棄だったと今は理解して、だからこそヤンが自分を呼ぶ声が特別に感じられるのだと苦笑いできる程度に、自分のそんな甘さに驚いてもいるシェーンコップだった。
 同盟風にしていた自分の名前の綴りも、ヤンに対しては帝国語のままにし、それのお返しかどうか、ヤンが書いて見せてくれた、これが本来のヤンの名前の書き方だと言うその文字を、シェーンコップはただほんとうの名前を見せられたと言うだけではなくて、ヤンから何か秘密でも打ち明けられたように、胸をざわめかせたものだった。
 たくさんの線が、複雑に絡まったようなその文字は、ヤンの内面を描いた抽象画のように見えて、貴方にぴったりですねと、ヤンには告げずにシェーンコップはひとりごちる。
 その文字通りの発音は、シェーンコップにはできているのかいないのか、両親を亡くして久しいからもう分からないとヤンが逃げるのに、それもねだって、何度か発音の練習に付き合わせた。
 こうだと、ヤンが見せる唇の形と舌の動きへ目を凝らして、結局途中でそれには集中できずに夢中になるのは別のことで、互いに、互いの名前を正確に発音するのはできないままでいる。
 シーツと毛布で作った即席のテントの中で、互いにだけ聞こえる声でささやく、相手の名前。ごくごくかすかに帝国語の響きの混じる──もしかすると、わざと──シェーンコップの発音で呼ぶヤンの名と、親から受け継いだらしい発音の、時折妙な響きの入るヤンの呼ぶシェーンコップの名と、ふたりはそれぞれ、互いの名を通して、互いにだけ通じる言葉を生み出し、最初は文字だけだったそれは今では音もそうなって、ヤンが自分の名を呼ぶ時に、シェーンコップはそれをまるで愛語のように聞き取っている。
 ヤンが書いた、ヤンのほんとうの名前だと言う文字もまた、シェーンコップにとっては文字と言うよりも、ヤンから何か特別な言葉でも送られているように、楽しい誤解を勝手にして、ヤンに向かって微笑むのを止められない。
 読めない文字なら、シェーンコップがそれをどう読もうと勝手だ。ヤンがそれを自分の名と言うならそれはそれ、それとは別の意味を、シェーンコップが読み取るのは自由だ。
 ヤンが綴る、シェーンコップには読むことも書くことも理解することもできない文字。ヤンだけが生み出せる、ヤンだけが発音できる、その文字。シェーンコップにとって、それはもうヤン自身であり、それを紙の上にとどめて、そっと胸のポケットに忍び込ませて、そこにヤンを抱きしめている気分になる。
 シェーンコップは、故意の誤解と錯覚をひとり愉しんで、ヤンが知らない形で、この恋を静かに深めてゆく。
 自分のそれとは少し形の違う爪の、ヤンの指先がペンを握り、その字を綴る。やや力の入った指の間に固定された、ごく普通のペンとインクが生み出す、ヤンの名前の文字。
 見た目には恐ろしく平凡な、凡庸とすら言ってもいいヤンの、その複雑怪奇な内面そのままのような文字は、あまりにヤンらしくて、名は体を表すと言うのはこういうことかと、シェーンコップは感嘆する。
 誰にも読めない文字。誰にも読ませないヤンの脳の中身。そのままではないかと思いながら、シェーンコップはヤンの宇宙の闇色の瞳を覗き込んで、その一端でも読み取れないかと、必死にそこへ目を凝らす。
 ヤン・ウェンリー。楊文里。Yang Wen-li。様々に綴る彼の名前の、種類の多さは、まるで違う角度から見る彼のようだ。怠惰なのんだくれ、無精者の散らかし魔、そして、常勝の天才をも悔しさに歯ぎしりさせる、不敗の魔術師。そしてシェーンコップにとっては、すでに命を捧げたつもりの上官であり、ただいとしいだけの、冴えない男。あるいは、猟犬が選んだ、唯一の飼い主。
 ペテンに掛けられたのだと、シェーンコップはひとり苦笑する。こんな風に、恋に落ちる予定などなかった。共に生きたいと、生き続けたいと、そう思える日が来るとは思わなかった。
 いつ死んでも構わないと、そう思いながら生きていたのではなかったか。死と隣り合わせの、それを恐れたことはなく、それなのに今シェーンコップは、死を恐れるわけではなく、ヤンと共にある自分の人生が1日も長く続くようにと、言葉に出さずに祈っている。
 ヤンの在るところにシェーンコップはいる。シェーンコップが見ているのは、前をゆくヤンの背中だ。少し丸まった、薄い背中。頼りなく見せるその肩に銀河の半分を背負って、彼は前だけを見て歩き続けている。
 その旅に、連れはいらないかとシェーンコップが訊けば、多分ヤンは肩をすくめて見せるだけだろう。ひとりゆくことをひそかに決意していることを、シェーンコップはとうに知っている。
 それでも、シェーンコップはヤンのゆく、その数歩後を、同じ歩調で追ってゆく。腕を伸ばしてもぎりぎりで届かない距離を置いて、けれどヤンが振り向けばその声の届く場所に、シェーンコップは常に在る。ヤンのために。ヤンだけのために。
 何も特別な言葉を交わすわけでもなく、けれど互いの名を呼ぶその音だけで、誰にも知らせずに伝わるものがある。
 シェーンコップだけが知っている、ヤンの名前。それだけで十分だった。
 ヤンの声がシェーンコップを呼び、ヤンの指先がシェーンコップの名を綴り、同時に、自分の名を綴ってシェーンコップに送って来る。自分だけが読める──そうだと見分けられる──ヤンの名前。
 シェーンコップは胸を押さえて、上着の内ポケットに入っている、ヤンが名前を書いてくれたカードの感触を確かめながら、文字のある辺りを指先でなぞり、そこにヤンの声でヤンの名前の音を感じた。
 今では、耳にも指先にも目にもただ美味(あま)い、ヤンの名前。自分の声がヤンを呼ぶ。できるだけヤンの音を写した自分の声が、ほとんど愛の囁きのように聞こえることに、シェーンコップはまだ気づいていない。

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