Left Behind
うやうやしく、イワンが上着を着せ掛ける。アルベルトは黙って背中を向け、そちらに腕を伸ばす。指先に触れ、手首を通ってゆく、ひどく手触りの良い織りの感触。肩を振るようにしてその上着を体に馴染ませると、イワンがすかさず前へやって来て、上着のボタンをとめようとした。
そして、その手が途中で止まり、あまり形の良くはない禿頭──剃っているのではない──の輪郭が、ぎょろりと押し上げた目ごと持ち上がったまぶたのせいで、さらに形を歪めたのを、アルベルトは下目に見た。
どうしたとは訊かない。イワンは、さっきよりもいっそううやうやしくアルベルトの襟元へ、これはとても品良く形のいい指先を伸ばして来る。
「失礼いたします。」
一言断ってから、主人の、しめやかな艶が見事なネクタイの結び目に、そっと指を掛けた。
結んだのはアルベルトだ。だからイワンは、主人の機嫌を損ねないように、できるだけ静かにひそやかに、少しばかり曲がっているらしいその結び目を、差し入れた指先でそっとゆるめて、素早く真っ直ぐにして、形良く整える。そして、重なった部分をいっそうぴたりをアルベルトの胸元に馴染ませ、ネクタイピンの位置も、3mmほど上へずらした。
それを下目に見て、アルベルトは、自分へ向かって再びイワンが上向いた時、一瞬だけイワンの眉間に視線を据えて、それからすぐに天井を振り仰いだ。
「・・・何か?」
大事な主人の不興を買ったかと、イワンが少し後ずさりするような態度で訊いた。
アルベルトは天井から視線を外さずに、
「いや・・・何でもない。」
珍しく歯切れの悪い言い方で、また天井のどこかへ、視線をさまよわせる。
「まだ少し、目が痛む。」
常にしかめているような表情は、彼が実際に不機嫌であってもそうでなくてもさして違いはなく、身近に仕えているイワンなら、声や手の動きや肩の位置でその度合いを探ることもできるけれど、今のアルベルトの声からは、不機嫌と言う気持ちは読み取れず、イワンはだから、アルベルトが言ったそのままをその通りに受け取った。
「それはいけません、お出掛けの前に痛み止めか何か──?」
きっちりと整えた髪には触れないように、アルベルトは指先で右目の周囲を少し触り、その辺りを押さえるような仕草をしてから、
「いやいい、いらん。」
イワンは、左目の上に、そこに雷でも落ちたような傷がある。変色した皮膚の色とその形のせいで、遠目にはわざわざ酔狂で入れた刺青のように見える。
失くした──戴宋に奪われた──右目の代わりに、今はレーダー通信機能が内蔵された、機械仕掛けのアイパッチをはめ込まれたアルベルトは、だからイワンとこうして向き合うと、まるで傷を負った自分の違う姿を鏡の中に見ているような気分になって、まだ完全に傷が癒えたとは言えない今、こうしてイワンを眺めるのには、いつも以上の気の張りが、少しばかり必要だった。
右側の眼窩を、中から外へ向かって常に押されているような異物感、そこから脳へ伝わる頃には鈍い痛みに変わり、脳の内側に感じる鬱陶しい頭痛のように、アルベルトの後ろ頭を疼かせる。
一部の乱れもなく整えられた髪の、けれどそのずっと奥で、アルベルトの心はずっと乱れ続けていて、傷の治りとともに落ち着きを取り戻しつつはあったけれど、それでも平常とは程遠く、そして、それを誰にも感じ取らせないだけの、アルベルトの矜持だった。
とは言え、常に自分の傍らで世話を焼くイワンには、アルベルトの心の乱れは隠しようもないのだろう。ネクタイの曲がり具合も、恐らくその表れとばれている。アルベルトは、自分に向かって少しだけ腹を立てた。
心の乱れは、傷のせいではない。痛みのせいでもない。片目を失うなど、アルベルトにとっては何程のことでもなく、どうせこの程度の欠損は、機械の代用品でたちどころに補填できるだけの技術がBF団には備わっているし、その信頼があるからこそ、アルベルトたちも24時間休みなく自分たちの命を放り出しているような活動ができるのだ。
痛むのは傷ではない。敵にしてやられたと言うこと。失った右目は、自分の失策以外の何物でもないと言うこと。そして、失ったのは右目だけではなく、セルバンテスも、アルベルトの右目にまるで伴われたように、同時に逝ってしまったのだと言うこと。
そうだ、あれはまるで、セルバンテスをひとり逝かせることができずに、右目を手向けに送ったよう──意図せず、戴宋はそう仕向けたに違いない──なものだった。
右目ひとつなど、失くしたところでどうと言うこともない。眼窩をえぐられ、血を流しながら、一緒に流した涙は血に紛れて見えずにすんだ。セルバンテスのために流した涙は、血の河と化した。大事な"友"を失くしたのだと、気づいたのは、失神から目覚めて、手当てがされた後だった。
戴宋の右手の指がえぐり出したあの右の眼球は、結局どうなってしまったのだろうか。戴宋が握りつぶしたか、あるいはあのままどこかへ転がったきりか。あるいは、逝ったセルバンテスの後を、ころころと転がって地獄までついて行ったのか。
右目がないことなど、何と言うこともない。
黙ったままの主人の目の前に、イワンは両手で葉巻を差し出した。端はすでにきれいに切られており、そちらを唇の間に挟むと、イワンがすかさず両手で捧げ持つように、ライターの火を近づける。動かないアルベルトへ、近づき過ぎないように火を差し出して、葉巻の先が十分に焼けるのを見届ける。
香り高く、葉巻の煙が、上品に白く漂った。
イワンを押しのけるようにして、アルベルトは足を前に出した。
素早くそこから体を引いて、イワンはきっちり2歩後ろを、アルベルトの背中を追って歩き出す。
背筋を伸ばし、頭を上げて、アルベルトは歩きながら、気配を待っていた。白いクフィーヤが、前から、あるいは不意に後ろから現れるのを、まだ乱れた心を抱えたまま、アルベルトはひそかに待っていた。
失くしてから気づくものだ。愚かなことに。
アルベルトとは違う意味で非情な男であり、アルベルト以上に容赦のない男だった。秘めてはいても激情家のアルベルトとは逆に、熱さを表面に出しながら内面は冷ややかな、まるで氷柱を抱え込んだような男だった。
似ているように見えてまったく似ていない、だから気が合ったのだとも言える。気が合う、と自分で思って、少し違うと感じたけれど、それ以上適切な言葉は今は見つからず、アルベルトはいるはずのないセルバンテスの気配を探りながら、相変わらずどこかへふわふわと漂い出す思考の流れを止めようとはしない。
よせと言っても、アルベルトの服の乱れを直す手を止めない。あの手が触れると、何もかもがそうあるべき形に整った。上着の肩の位置と、袖の納まり具合と、そして、非の打ち所のないネクタイの結び目と下へ垂れる長さの完璧さ、最後に襟をぴしりと整えて、男振りが上がったと、やけにうれしそうに締めくくるのだ。
他人と馴れ合うことの嫌いなアルベルトの懐ろへ飛び込んで来て、葉巻を分け合うなど言語道断の振る舞いをして、そしてアルベルトは、それを不愉快に思ったことがなかった。イワンでさえ、アルベルトの機嫌を損ねるのをこの世の終わりと恐れているのに、あの男はどこ吹く風と、好き勝手に物を言い、好き勝手にアルベルトにべたべたと触れ、あまつさえ親友呼ばわりなどする。
親友など、やめろ。
目的を同じとする同志ならと、そう言ったのはアルベルトの最大の譲歩だった。そうして彼は、それなら盟友と行こうじゃないかと、あの、太陽のようなほがらかさで快活に言った。
その笑みの眩しさに、彼が眩惑と言うふたつ名を持つ理由を何となく悟り、アルベルトは誰にとなく、その時小さな微笑みを洩らした。
あの男が戯れに、やけに楽しそうにアルベルトのネクタイを結び、手品のように優美に指先が動くと、その下からたちまち美事な結び目が現れ、下目に見てさえ、その形はいつも完全無欠だった。99%でもなく、101%でもない、ただひたすらに、完全な100%だった。
自分では、あんな風にはできない。
アルベルトは、ネクタイを何となく撫でた。
イワンにも無理だ。
失くしてから気づくのだ。いつも。
あの男が触れたのは、どのネクタイだったろうかと、考えるうちに、少しだけ歩調がゆるむ。
せめて1本くらいは、もう他の誰の手にも触れさせずに置いておこうと、そう思った。
首筋を撫でてゆく掌。癇症に切り揃えられ、磨かれた爪。アルベルトの皮膚に傷などつけるはずもない、彼の指先。
足元からまつわりついて来るような彼の気配を、わざと手元に引き寄せるようにしながら、けれど次の瞬間、アルベルトは感傷を振り払うように、歩幅を大きくした。
唇の間で、葉巻の端を、少々品のない仕草で噛み切った後、後ろのイワンへ突き出す。それを受け取ったイワンが火を消そうとすると、いっそう高く、香りが立った。
風の流れで、最後の煙がアルベルトの頬の辺りへまつわりついて来る。揺れる白い影が、セルバンテスのクフィーヤのように見えて、アルベルトは残った左目を細め、イワンに見えないように、ほんの少しだけ、唇の端を持ち上げた。