無に帰す10題 @夢につづきを
明滅する塵芥
ふと目覚めた深夜の空気の冷たさに、思わず剥き出しの肩をすくめ、そのまま再び寝入る気が失せて、マクギリスはベッドを抜け出した。ローブだけで十分と思ったのに、一体何の予感だったのか、ベッドから剥ぎ取った毛布を肩に掛け、子どもの頃にもひとり夜をこんな風にうろついたことがあったと、ちくりと痛みと共に遠い記憶に心を馳せる。
ひとりではないと、そう思い知りたかったのかどうか、屋敷の屋上へするすると足が向かってゆく。こちらの横顔を見せて、ぼんやりと空を見上げる三日月の姿は、月光に青白くいかにも儚くマクギリスの目に映り、ああこれは夢だと即座に悟った。
裸足の足裏に、屋上のタイルを敷いた床が冷たく、きっと三日月も同じように冷たいのだと、毛布を広げながらマクギリスは三日月へ近づいて行った。
「寒いだろう、こんなところで。」
マクギリスの出現に気づいていたのかどうか、三日月は驚いた様子もなく視線を向けて、
「・・・ちょっとね。」
と、平たい声で応える。
おいで、と毛布の中へ手招くと、三日月は意外な素直さでマクギリスの前へやって来て、広い胸に自分の薄い背を重ねた。
そのまま毛布に包まれて、また月の浮かぶ夜空を見上げ、
「あれも、三日月って言うんだってね。」
尖った顎を振る仕草に、マクギリスも夜空を仰ぎ、ああ、と短く答えた。
「オルガにも見えるかな。」
「火星からは、ちょっと無理だな。」
「そうか、残念だな。」
三日月のその、少し沈んだ声が届いたかのように、風に薄雲が流れて月の半分を覆い、やがて輪郭をかすかに残して、月はすっかり雲の向こうに隠れてしまった。
さっきよりも弱々しい月明かりが、ぼんやりとふたり分の影の奇妙な形を足元に描いて、寒さのせいではなかったろう、けれど三日月は毛布の中で一層近く体を寄せて来る。マクギリスは三日月に巻いた腕の輪をそっと縮めて、毛布の中の体温を逃すまいとした。
「チョコはどうしたの。いやな夢でも見たの。」
深夜の散歩を、三日月が訝しがっている。そう訊くそちらこそ、月を見るためにわざわざ起き出して来たのかと、問いたいマクギリスだった。
「さあ、夢は覚えていないが・・・何となく君がいるような気がした。」
「なんだ、オレを探しに来たの。」
「私はいつだって、君を探しているよ。」
「・・・変なの。」
月を見上げる角度ではなく、けれどマクギリスの方も見はせずに、それでも互いの体温と鼓動は感じられるこの近さで、青と緑の視線が重なる必要はないのかもしれない。
三日月を見つめたいのではなく、三日月の瞳の中に、自分が映っていることを確かめたいのだと、マクギリスは思った。
もう何も映さなくなっている三日月の右目の、そちら側に永遠に焼き付いているのは、オルガ・イツカに違いなかったけれど。
それでもいいと思い決めたのは自分だ。いとしい人にはすでに想い人がいて、自分が得られるのは片方の目と腕だけなのだとしても、マクギリスは与えられるそれに満足しようと、三日月を抱きしめた時に決めたのだった。
そう思ってから、そう言えばその片目と片腕も、バルバトスに奪われてしまったのだったなと、これが夢だと言うことを思い出して、自分の想いはバルバトスにすら負けるのかと、三日月を抱いたままマクギリスは一瞬の間に苦笑をこぼす。
風が流れ、雲を動かし、再び月が夜空に姿を現した。鋭い痩身は、厳しい光を地上に投げ掛けて、それは冷たく肌へ照り、太陽の作る影よりもいっそう漆黒の、ほとんど無のようなそれを作り出す。
その虚無の影へ、マクギリスは裸足のかかとを引いた。
自分の体を引いてゆくその腕に逆らったように、三日月はわずかに前のめりに、そうして、細い薄い少年の体はひどくなめらかにマクギリスの腕の輪をすり抜け、音もさせずに地面に転がった。
毛布の裾が揺れ、下目の視界に横たわる、血まみれの三日月。両目の瞳孔はすでに開いたままだった。
驚いたような驚かなかったような、自分でもよく分からないまま、マクギリスは無言でその三日月を見下ろし、
「そうだ、これは夢だったな・・・。」
そう呟いたのがこの自分だったのか、それとも夢を見ている空のどこかにいる自分だったのか、判然ともせずに、三日月の動かない体の下に広がる血が、月明かりの作る影よりも、もっと濃く深い虚無をそこに作るのを静かに眺めていた。
自分の虚無へ、三日月を連れて行こうと、自分はしたのだ。三日月はそれを悟り、拒み、ひとりで逝った。マクギリスの虚無ではなく、三日月自身の虚無へ。三日月の虚無にはオルガがいるのだろう。だから三日月はそこへ行った。
マクギリスの虚無には誰もいない。マクギリスはそこにひとりで立ち、永遠の無音に包まれ、それにひとりきり耐えるだけだ。
毛布と腕の中には、まだ確かに体温が残っている。元の青のもう見えない三日月の、血まみれの瞳は、一体何を見ようとしたのだろう。オルガ・イツカの背中以外に、一体何がその目には映ったのだろう。
あるいは、その瞳に映ったものは何もなく、三日月・オーガスが追い求めたのは、オルガ・イツカただひとりだったのだろうか。
片目と片腕を、得たと思ったのはマクギリスの自惚れだったのか。
血まみれの三日月は答えない。いつの間にか、三日月は体の末端から骨になり、その骨も月光に紛れてさらさらと塵になり始めていた。
銀色の月明かりの中、それは奇妙に美しく輝いて、マクギリスは月光に冷たく濡れ、三日月の消滅を妨げまいと薄い唇を浅く噛んだ。
かかとを、今度こそ思い切り後ろに引く。ふっと足裏から感覚が失せ、無重力に浮き上がるように、体から離れた毛布がふわりとどこかへ消えた。
私は私の居るべき場所へゆく。
視線の先には、まだきらきら光る三日月だった塵が見える。自分もいずれああなるのだと思いながら、マクギリスは届かないと知っていてそれへ向かって手を伸ばした。
自分の指先が、はらはらとほどけて、三日月のそれとは混じらずに、空間のどこかへ散って行った。
私は死んだのだ。死んで、ひとりになったのだ。
チョコ、と、平たい声で、三日月が呼ぶ。彼におおよそ似合わない、あのやけに甘ったるい、現実のマクギリスからは程遠い呼び方。まるで恋人へのそれのような、あの愛称。
私は、君にそう呼ばれるのが、とても好きだったのだよ、三日月・オーガス。
知らず過去形になる自分の言葉尻を、マクギリスは笑った。その声ももう、塵になるだけだ。
マクギリスが流したと思った涙は、頬を伝わる前にどこかへ消える。空間の底知れずの闇の中へ、いつしかマクギリスの姿も声も思考も溶け混じって、やがて何もかもが空っぽになった。