D I R T



 Jerryは、寝そべっていたソファから体を起こし、耳をそばだてる。玄関のドアで、人の気配がした。
 誰の気配かは、考える必要もなかった。こんな時間に、こんな風に気配を殺してやって来るのは、猫の瞳をしたあの男しかいない。
 ただつけていただけのテレビを消し、玄関へ足を向ける。ドアを開け、短い階段の上に、死体のように横たわった見覚えのある背中に、
 「Layne・・・」
と、Jerryは呟くように呼びかけた。
 名前を呼ばれた飼い猫のように、Jerryを足元からすくい上げ、Layneは目を細める。
 こんな時のLayneの瞳は、まるで死にかけた魚のそれだ。生気もなく、今にも降り出しそうな雨空のように、濃く灰色に濁っている。
 Jerryは、黙ってLayneの細い体を抱え起こし、部屋の中に運び込む。
 一体どれくらいそこでそうしていたのか、Layneの皮のジャケットは、ぞっとするほど冷たい。思わずJerryは、肌に粟を立てた。
 自分が寝ていたソファに、荷物のようにLayneを放り出し、Jerryはキッチンへ行った。まだ暖かいコーヒーをカップに注いで、Layneの傍に戻って来る。
 「またラリってんのか?」
 微かに湯気の立つカップを、Layneの肩を小突いて持たせながら、Jerryは訊いた。
 「今日はやってねぇ。」
 けだるげな、瞳の色と同じくらい生気のない声が返って来る。
 「昨日から、なんにも食ってねえだけだ。」
 Layneのアパートメントの、ホコリしかない空っぽのキッチンを思い出して、Jerryは首をすくめた。
 「腹が減ると、人ん家にメシたかりに来やがる。で、何がご所望?」
 返事をする代わりに、Layneが、音を立ててコーヒーをすすった。
 人と話す時、Layneはいつも目を伏せて喋る。怯えた瞳の色で、時折、すくい上げるように相手を見る。
 まるで、飼い主に捨てられた猫みたいだと、Jerryは思う。
 辛抱強く、自分が何か言い出すのを待っているJerryに、Layneは、まだ無言のまま、空になったカップを差し出した。
 唇の端を少し歪めて、けれどまた何も言わずに、受け取ったカップを傍のテーブルに置くJerryの動きを、目元をこする指の間から、Layneは見ている。
 「来いよ。」
 ぼそりと、Layneが言った。
 丈の低いテーブルから体を起こす途中で、JerryはLayneに、顔だけで振り返った。
 視線が、言葉より雄弁に、音を立ててぶつかった。
 「やめとけ。腹減ってんだろ? とにかく先に何か食えよ。」
 「食うんなら、おまえでいい。」
 素っ気なく短く、Layneが言う。
 「おまえでいい、ときたもんだ。このクソ野郎。いつもみたいに、やりたいって言ってみろ。」
 苦い顔で、JerryはLayneの足を膝に乗せて、ソファに腰を下ろした。
 ソファの上に、細い体を伸ばし、Jerryをまっすぐ見つめたまま、Layneは薄く、唇だけで笑って見せる。
 「やらせろ。そしたら何でも食ってやる。テメェの作る、クソみてぇな朝メシでも何でも食ってやる。」
 Jerryは、Layneの腹をゆっくりと撫でた。昨日から、とLayneは言ったけれど、その薄い、動きのない胃の感触からすると、もう3日も、酒しか飲んでないかもしれないと、Jerryは思った。
 「やるんなら上に行こうぜ。誰かにいきなり踏み込まれたら、目も当てらんねえ。」
 「誰が来るってんだよ、こんなとこに。」
 「オヤジが来てみろ、オレもおまえも、その場でまとめて撃ち殺されちまう。」
 「おまえと心中は、ごめんだな。」
 そう言いながら、けれどLayneは、一向に動こうとはしない。
 Jerryは大袈裟に溜め息をついて、Layneの靴を脱がせにかかった。
 最初は----そう、最初は、Layneがどこからか手に入れて来た、とびきり上等のマリファナ。ふたりでやったんだ、ここで。オレはうまく飛んだけど、Layneはbadになった。神経質に肩を震わせて、ずっと肩越しに振り返って、何かに怯えてた。膝の間に這い寄られて、オレはLayneが可哀相で、だからオレたちは、それからベッドで裸になって、女とやるみたいにやった。ふたりで、けたけた笑いながら。
 Jerryと躯を繋げた時、LayneはまっすぐにJerryを見下ろしていた。いつもの、怯えたような伏し目が嘘のように。
 その瞳を、怖いもの見たさで、Jerryはまっすぐ見つめ返す。女のように声を上げている自分を、いつも少しばかり蔑みながら。
 あの瞳に魅かれて、JerryはLayneと、不自然な交わりを持つのかもしれない。
 Jerryと肌を合わせている時だけ、Layneは辛うじて生きている。唄っている時でさえ、Layneは死にかけた病気の猫のようだ。
 不安で、Jerryはいつも、Layneがいつ倒れても驚かないように、頭の中でその場面をシュミレーションする。もう、何万回も繰り返した、そんなこと。
 Jerryを抱く時だけ、まるでJerryから何かを吸い取ってでもいるかのように、確実に、Layneは生きている。確実に生きたくなった時だけ、LayneはJerryに手を伸ばす。腹を空かせた赤ん坊が、母親の乳房を探すように。
 「・・・Jerry・・・」
 何の前触れもなく、Layneが呟いて、ソファから体を起こした。触手のように手を伸ばし、Jerryの顎をすぅっと撫でる。
 「せっかく伸びたのに、剃りやがって。」
 いまいましげに、Layneが言う。
 たった今Layneの指が触れた皮膚に触れながら、
 「すぐ伸びるさ、こんなもん。それともおまえ、あった方がいいのか? オレがおまえのを ----やる時に。」
 下品な間を置いて、Jerryは歯を見せて笑った。
 途端に、Layneの両手がJerryの髪を掴んで、自分の前に引き寄せようとした。Jerryはそれに逆らって、ふたりは笑い声を立てながら、ソファの上でもみ合った。
 「その、クソったれの役立たずの舌でやってみやがれ。やるたびに歯ァ立てるくせしやがって。そこらの売女でもひっかけて、舌の使い方、教えてもらえよ、この淫売野郎。」
 「なんだよ、おまえ、この間の時は、女よりいいって言いやがったくせに。」
 「そんな戯れ言、いちいち真に受けてんじゃねえよ、淫売。とっとと口開けろ。」
 「うるせえな、いちいち指図するんじゃねぇ。役立たずはどっちだよ。オレのが気にくわねぇんなら、てめぇでやってろ。右手は元気だろ?」
 ふとJerryが顔を上げた途端、Layneが体ごと乗りかかってきて、Jerryを自分の下に押し倒した。
 「やれよ。」
 ひどく静かに、Layneは言った。もう、目は笑っていない。あの、恐ろしいほど生き生きとした瞳が、まっすぐにJerryを促している。
 「口開きな、ハニー。」
 Jerryはもう逆らわなかった。言葉だけのじゃれ合いは、もう終わっていたので。
 Layneの腰を目の前に抱き寄せ、そっと顔を近付ける。まだ少し、ためらいながら。
 喉の奥を打つ、皮の匂い。そして、雨の後のような、少し湿ったLayneの体臭。
 Jerryの頭上で、Layneが喉を反らす。
 喉の奥を、唄う時のように開く。Jerryはそうして、もっと深くLayneを飲み込んだ。
 子どもをほめる時のように、LayneはJerryの髪を撫で、そしてかき上げる。Jerryの表情を、もっとよく見るために。
 頬や髪に触れる、その骨ばった手首。放っておけば、餓死するまで自分のことに頓着しないLayne。少しイカれた息子が、死にやしないかと心配する母親のようだ----Jerryはそう感じる。
 Jerryは、自分の故郷である子宮を自ら拒否し、Layneはその子宮から、拒否されてしまっている。
 女に生まれなかったことを、Jerryは時折神に感謝し、そして時々、男であることを嫌悪もする。Layneは、人間に生まれてしまったことを憎んでいる。
 おまえが女なら、寝やしねえ----吐き捨てるように、Layneは以前そう言った。
 こんなクソったれ野郎のタネなんか、残す必要があると思うか? 誰がわざわざ、また同じようなロクでなしを仕込むために、女の腹になんか乗っかるもんか。そんなガキは呪われちまえ----そう思うだろ、ハニー?
 ほとんど睦言めいて----ベッドの中で交わされる類いの、安っぽい使い捨ての言葉----、Layneは呟いた。
 本音はいつも、冗談の砂糖をまぶして語られる。言葉を玩ぶことを知らないLayneでさえ、そんな術は知っている。
 唇を外し、Layneを見上げ、そしてJerryはぺろりと唇を舐めた。
 Layneが、にやりと笑う。笑ってから、Jerryの唇をぬぐうような仕草をして、そしてJerryの唾液に濡れたそれを、押し込むようにジッパーの奥にしまった。
 「まだ----」
 言いかけたJerryの胸の中に、Layneは、飼い主の腹に乗る猫のように倒れ込んでくる。
 「寝る。」
 それだけ短く言って、Jerryの胸をまるでベッドのように、その上に体をやや丸めて、Layneは目を閉じてしまった。
 こうしていつも、眠るLayneを受け止めるたび、Jerryは、Layneがこのまま再び目覚めないのではないかと、下らない恐怖に駆られる。
 いつだってLayneは、不機嫌に目を覚まし、Jerryに促されてようやくシャワーを浴び、濡れた髪の雫をJerryに拭き取らせ、そしてJerryの作った食事を億劫そうに食べ、自分の寝るべきベッドに帰ってゆく。
 Layneが眠ったまま息絶えるというJerryの想像に、根拠はない。けれどいつだってJerryは、それを単なる想像なのだと笑えない。Layneの呼吸を、確かめずにいられない。
 本当にLayneが寝息を立て始めたのを確かめて、Jerryも目を閉じる。
 狭いソファに、細い体がふたつ。眠りがゆっくりと訪れるその片隅で、Layneをほんとに猫のようだを思いながら、自分は魚かもしれないと、思う。水の満ちた、区切られた空間。そこを漂う、無音の生き物。
 魚はどうやって眠るんだろう。ゆるゆると眠りに落ちながら、最後にJerryはふとそう思った。


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