鬼の栖 -おにのすみか-
藤田の下で、その肉塊は細かい痙攣を繰り返していた。
もうじきだ、とタイミングを計りながら、藤田はいっそう乱暴にその肉塊を扱った。
筋肉質の腕が、背中を滑り首に巻きつく。気管を締めつけられ、藤田は思わず息を止めた。
まだくたばらない-------聞こえないように舌を打つ。藤田は早く終わらせてしまいたかった。
肉塊が、全身で藤田を包み込みにかかる。筋肉のうねりが、藤田のリズムに逆らって、自分の快感だけを追及しようとしている。そう感じたのは、藤田の思い込みだったかもしれないけれど。
こんな時まで自分勝手な奴だと、そう思う気持ちと裏腹に、肉塊のうねりに巻き込まれるように自分の動きを同調させ、藤田はそうと知らずに肉塊の名を呼んでいた。
広川は煙草に火をつけ、1本を、寝そべったままの藤田の唇に差し込んだ。
溜め息のように、広川は大きく白い煙を、天井に向かって吐き出す。
視界が薄白く煙る頃、藤田クンさぁ、と、煙を吐くそのついでのように、広川が言葉を切り出した。
「言いたいことあるんなら、とっとと言っちゃえば? 上ですっげー形相でされてると、オレ醒めちゃってさ。」
見透かされていたことに驚きながら、それでも顔色は変えず、いつもよりてこずったのたそのせいかと、自分をごまかすように思い当たってみる。
藤田は体を起こし、自分の胸に広川を抱き寄せた。おとなしく体を預けた広川は、灰皿をそっと藤田の膝の上に置く。
少なくとも、最初は、自分からこの男を誘ったあの時は、一瞬でも本気だったのだろうと藤田は思う。酒の上の戯れごとめいた始まりだったとは言え、この男に一瞬でも欲情したのは藤田の方だ。そして力づくで無理を強いたのも、藤田自身。
その一度で藤田は醒め果て、広川は逆に、その藤田の無理強いを、愛情の強さ故と誤解した。
自分さえ気分良く過ごせれば、たいていのことはあっさりと受け入れてしまう広川の性格を、うっかりと見過ごした藤田は、弱みを握られたと、その時思った。
すれ違いを修正しないまま、ふたりはずるずるとこんなことを続けている。
どうしてこんなことになったんだろう------と、藤田は思う。今までのことを考えてみる。
思い出したように自分を求める広川に対する、この義務にさえ疲れなければ、別に苦痛と思えるほどの状況ではない。
この男のわがままぶりに手を焼きながら、けれどそれは、藤田にとって楽しめない類いのことと言うわけではない。現に藤田は今まで、それを楽しみに転化してやってきたのだから。
兄弟を持たないふたりは、互いの兄弟のように思っている。広川は甘ったれの弟で、藤田は、自分の腕の中にそれを受け止める兄でいる。
躯さえ繋げなければ、ただ子犬同士のようにじゃれ合っていればよかった。こんな関係になった今でさえ、ふたりは互いに兄弟のように一緒にいるのに。
なのに今さら、どうしてこいつを失う必要があるんだ------?
「藤田クン・・・?」
広川の顔が上向いた。少し顎を引いて、藤田はその視線を受けた。
「どうして------おまえに言いたいことがあるって、わかる?」
ニッっと、広川が笑う。赤い唇がめくれ、乱杭歯が藤田の目の前に現れる。
この男の顔立ちが下品な印象を人に与えるのは、恐らく、この唇のせいに違いない。そのくせ、人を挑発するような、誘い込むような、そんな形をしている。もしかすると、この唇にそそのかされたのかもしれないと、藤田は思った。
その唇が、ゆっくりと動く。
「甘いって、藤田クン。こんなになったら、藤田クンの中なんか丸見えだって。体は正直って、あながちウソでもないと思うよ、オレ。」
広川の頭を、藤田は自分の肩に抱え込んだ。
唇をほとんど動かさずに、滑り落ちようとする溜め息を飲み込んで、藤田はようやくそれを、口にする。
「おまえを------クビにしろとさ。でなきゃ、DOOMを切るとさ。」
声を変えずに藤田は言ったつもりだった。けれど、声は震えた。
動かずに、広川はおとなしく藤田の腕の中にいる。
この男でも、こんな時にはこんな風に動揺するのかと、藤田はそれを不思議に思った。
広川の手が伸び、自分の額に触れていた藤田の手を、胸元まで引き下ろす。そして広川は藤田のその手首に、ぎりぎりと爪を立て始める。それを払いのけようともせず、何かの罰ででもあるように、藤田は広川から与えられるその痛みに、静かに耐えていた。
赤黒く肌に浮いた、並んだ広川の爪の跡。路上の野良犬でも見るように、藤田は無関心な視線をその上に流す。
「オレ、クビにして、それでどうする気だよ? オレの後、アテなんかあんの?」
あてこすりとも、本当に、気にしているのだとも、どちらと取れる口調で、広川が訊いた。
手首の跡をぼんやりと眺めながら、この傷のことをどう言い訳しようかと、藤田が考えていたのはそんなことだった。
「厄介払いなわけ? オレとこんなことになって、そんなの今さらさぁ。オレ、藤田クンの気に触るようなこと、なんかした?」
わたしはまた、錠くんをクビにするわけですか------諸田の、穏やかな淋しげな声が耳の奥に甦る。
誰も、広川をいらないと思っているわけではない。けれど広川は、DOOMを去らなければならなかった。藤田と諸田以外の誰かが、そう言ったから。DOOMの一部ですらない誰かが、そう決めてしまったから。
「別に厄介払いなんかじゃない。ただもう、おまえはいらないんだ。邪魔なんだよ。」
心と裏腹な、陳腐な言葉が宙に浮く。
「オレ以外の誰に、DOOMのドラムやらすわけ? もう決まってるわけ? それでオレはポイ? 藤田クン、オレのこと、取り替えのきく部品くらいしかに思ってないでしょ? 壊れたから、それとも別に良さそうなのがあるからって、修理するなんかみたいに、オレのこと外しちゃうんだ。」
「じゃあ------おまえは、今みたいな音やってて楽しいのか?」
広川の顔が歪んだ。
藤田の方を向いたまま、広川の瞳は前髪の奥に表情を隠している。その表情を読もうとは、藤田はもうしなかった。
「オレ、藤田クンのことも諸さんのことも好きで、だからDOOMも------」
「お友達気分で続けられるほど、甘いもんじゃないだろ。」
ぴしゃりと、遮るように、藤田は言った。
「おまえの後は、多分あいつが入るよ、Gastunkの、PAZZ。」
「藤田クン、ホントはオレのこと、死ぬほど嫌いでしょ?」
広川が吐き捨てた。
藤田は相変わらず無表情なままでいた。
次第に広川が激昂すればするほど、藤田は静かに、頬さえ動かさない。
能面のような、その下で今、藤田がどれほど血を吐いているか、この男は考えもしないに違いない。自分中心にしか物事を考えられないのは、この男の最大の長所であり、また欠点でもあった。だからこそDOOMを共に始め、そして今は、DOOMから去らなければならない。
そんなことをこの男に説くのは、けれど無駄だろうと、藤田は思った。
「藤田クンがさぁ、オレと寝るの、実はあんまり好きじゃないって、知ってたよ。でも最初は藤田クンからだったんで、オレは被害者だからね。」
厚みのある唇が、乱れた歯並びを見せながら、素早く動く。
「オレ、DOOM脱けても、藤田クンとは切れないからね。こんな人のこと踏みつけにして、オレが、ハイそうですかって、素直に言うなんて、まさか思ってなかったよね?」
ふと、藤田の奥底に、醜悪な感情が湧き起こる。
いや、そうではない。ずっと以前からそこに横たわり、眠ったふりをさせていただけなのかもしれない。きっとそうだ。多分、こうなった時から、藤田はこの醜悪な感情をそっと身内に飼い、そうと自覚もなく静かに育てていたに違いないのだ。
広川を殺したいと、藤田は思った。
意外に華奢なその首は、藤田なら簡単にへし折ってしまえそうに見えた。
布の海に漂う、首を折られた冷たい歪んだ体。そこに、藤田を包むあの熱さはもうない。白い爪は、もう藤田を傷つけない。自分が壊したのはただの人形だと、それを見下ろして藤田は思うだろう。
そんな想像が、藤田の脳裏に、なぜか強烈に美しい映像となって像を結んだ。
反応の薄い藤田に焦れたように、広川は腕を伸ばし、藤田の首に絡めた。その輪を締めながら首をかしげ、広川は、今度は媚びに瞳を潤ませてみせる。
「いいよ、じゃあ藤田クンの言う通りにするよ。DOOM脱けるからさぁ、代わりにキスしてよ。別にオレがいやなわけじゃないんでしょ?」
今まで、努めて広川の唇に触れるのを避けていたのに、実のところ大した理由はなかった。強いて言うなら、そうすることはまともな愛情に起因すべきだという意味もない思い込みがあって、広川との関係には相応しくないような気がしていただけだった。
藤田の両腕が腰に回ると、広川は自分から唇を押しつけてきた。
色も形も弾力も、それぞれいちいち違うくせに、触れた感触はどれもこれも似たり寄ったりなのはなぜなのかと、藤田は白けたことを考える。
広川の唇が開いて、藤田を中へと誘った。藤田が逡巡もなく自分の湿った肉を差し出すと、広川の舌がそれを捕らえ、奥へと引き込む。
その時。
広川の乱れた歯並びが、藤田の舌を、重なった自分のそれごと、かまわず噛み切ろうとした。
焼けつく熱さに、藤田の脳は一瞬痺れた。その後に、鉄の味がぬるりと粘膜を覆うのを、痺れた脳がのろのろと知覚する。
咄嗟に広川を突き飛ばし、口元を押さえると、その手に生暖かく血が触れた。
不気味に、緋い唇で広川が笑う。
一体どちらの血なのか、ぬらぬらと濡れて光る唇を、同じように紅く濡れた広川の舌が舐めた。
「オレ、藤田クンのこと、殺したいくらい、嫌いだよ。」
藤田は我を忘れた。
頬を張った広川を乱暴に組み敷き、無理矢理開いたその躯に自分をねじ込んでゆく。
そうしながら藤田は、広川の首を片手で締め上げた。
こいつは鬼だ。藤田は思う。こいつは、人を食う鬼だ。
いつの間にか胸が重なり、藤田の手をまだ首に残したまま、広川の腕は藤田の首を抱き寄せ、その唇を、舌を噛み切ろうとした続きのように、激しく貪っていた。
広川の唇の端から、混じり合った互いの血が、唾液とともに溢れ出す。シーツに染みが、今藤田が侵している粘膜と、同じ色で広がってゆく。
広川を侵しながら、藤田は広川に喰われていた。
ふと、脳の片隅で、殺意の残骸を意識し、それはつまり愛しさから発したものなのだと、藤田はようやく自覚する。
その時、藤田の中で形を成した人喰い鬼が、藤田を軽蔑しでもしたように、にたりと笑った。
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