歯ブラシとボタン

 目覚ましよりも15分早く起きた朝、珍しくさっさと起き出して、さらに珍しく、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。パンを焼き、コーヒーにはたっぷりと砂糖を入れて、テーブルには坐らず、シンクの縁に寄り掛かったまま、行儀の悪い朝食を楽しむ。
 どうせ今日も、気の滅入る1日になるに違いなかったから、ひと時だけ、まるで自分が普通の人間であるかのような振る舞いをして、せめて今日は、誰の死体も自分の管轄では見つからないといいなと、少しばかり空しい願い事をする。
 無理だろうとわかっていて、それでも自分が選んだ仕事だからと、顔半分を覆うひげについたパンくずとコーヒーのしずくを掌で拭って、Lupoはたちまち殺人課の刑事の貌を取り戻す。
 ひげにもう一度触れて、そろそろまた全部剃った方がいいか、それとも整える努力をしている振りだけでもすべきかと、相棒のBernardの、常に手入れの行き届いた外見とLupoのそれを、いつも見比べるようにちょっとあごをそらし気味にするVan Burenの表情を思い出して、今週のいつか、ちょっと散髪屋に顔を出そうと決めた。
 Lupoの、警察官の権威をまったく反映しないカジュアルな服装を、Van Burenは最初からやや批判を込めて眺めていたし、すっかりそれに慣れてしまった今も、身なりがだらしない余り、いつも人に見くびられる息子を心配するような目つきをやめることはない。
 Lupoのくだけた言動を、補って余りあるBernardの、実直さ生真面目さほとんど頑固とも思える律儀さは、これも素直に外見に表れていて、見た目も言動もでこぼこコンビのふたりは、偶然出来上がったにせよ、よくできた組み合わせと言えた。
 とは言え、自分のマイペースさにBernardが時々苛立っているのはよく知っているし、そもそもきちんと結婚していて子どももいるBernardには、Lupoの根無し草のような暮らしぶりは到底理解できないらしく、今ではLupoの私的な部分に踏み込むことを一切やめている。
 ありがたい、とLupoは思う。
 事件に対する見解でぶつかり合うことはある。そこを越えて互いの意見を尊重し合えてこその相棒だし、互いの尻拭いも仕事の内だ。もっとも、Bernardは自分がLupoの尻拭いばかりしていると思っている。そしてLupoも、Bernardに尻拭いばかりさせていると思っている。今はもう、それをすまないと思わない。あの律儀さで、穴に落ち込んだ人間を放っておけるわけはないし、相棒だからと目をつぶってくれている部分は理解して、けれどあれは、基本的にはBernardの持って生まれた性格に違いない。相手が誰だろうと、困っていれば手を差し伸べずにはいられない男だ。
 だから、Lupoのことも、心配しつつ放っておいてくれる。
 ありがたい、とまたLupoは思った。
 もう1杯分のコーヒーは、プラスチックの携帯マグに入れ、また砂糖を大量に入れて、かきまぜもせずに蓋をする。
 ひげを何とかするのはやめることにして、歯を磨くためにバスルームへ行った。
 いつもより10分余裕があったから、今朝は丁寧に歯を磨く。洗面台の縁に、最初は置いていた手を、手持ち無沙汰に腰に当てていた後で、鏡の下に立ててある、もう1本の歯ブラシに伸ばす。
 あまり使われた跡のないそれは、Lupoの使っているそれとは形も色も違う。すっかり乾いていて、昨日買って来たばかりのようだ。
 Bernardが触れずにいる、これもそのひとつだ。
 まれに過ごす夜のために、Lupoが用意したものだった。着替えも置いておけばいいと言っても、彼はまだそうする決心がつかず、あちこちに痕跡を残しているくせに、そうとはっきりわかる証拠は、ここにはほとんど見当たらない。
 穏やかに笑う、日本人の彼は、BernardやLupoと違って、わかりやすく言葉で何もかもを伝えるということは絶対にせずに、いつも遠回しな言い方をして、こちらに悟らせる方法を取る。慣れない最初、彼の言葉の訛りや些細な言葉遣いの間違いのせいかと思ったけれど、この街で生まれ育った人間たちよりもよほど美しくここの言葉を操る彼は、何もかもをあからさまにすることを徹底的に嫌い、その物静かな頑固さは、Bernardにも負けないほどだったからLupoが太刀打ちできるわけもなく、彼のその遠回しな表現に慣れ始めた頃には、慣れようと思った理由が同情や単なる好意以上のものとLupoも気づいて、そうして今では、彼用の歯ブラシが、Lupoの狭いアパートメントの浴室に置いてあるというわけだ。
 Lupoは、口の中の歯ブラシを動かしながら、彼の歯ブラシを手に取って眺めた。
 先のことをしっかりと決めないまま、今はとりあえず教会の世話になっているという建前上、Lupoとのことを大っぴらにすることはできず、そもそも大っぴらに──まだ──する気もない彼だから、とっくにそのことを知っているBernardやVan Burenの前ですら、あからさまな態度は絶対に取らない。
 彼がLupoに触れ、Lupoに触れられることを受け入れて、のびのびと自由に呼吸をするのはここでだけだ。
 余裕のある朝の爽やかさに、心に隙が生まれて、彼のことを恋しいと思った。
 24時間一緒にいられなければ死んでしまうと思い込めるような、そんな純情さはもうとっくの昔に卒業したと思っているから、会えないまま1週間過ぎようと、心が乱されることもない──そう、自分を律した──けれど、ふと立ち止まる時間が生まれた時に、彼の面影が足元へ忍び寄って来る。
 蛇口から勢い良く水を流し、Lupoは自分の歯ブラシと彼の歯ブラシを、片手の中にまとめて一緒に洗った。
 先から滴をたらす歯ブラシが、自分の下で躯を縮める彼の姿と重なる。会いたいと、また思った。
 音を立てて2本の歯ブラシをカップの中に放り込み、ごしごしと顔をタオルで拭いながら浴室を出る。
 昨日の服装に、シャツとネクタイだけ替えて、きれいなシャツに袖を通してから、気づいた。 胸元の、上からふたつめのボタンが、きちんとついている。この間このシャツを着ようとして、ボタンを留める途中で糸が半端に切れてしまったのだ。その日1日くらいなら、無理に着れないこともなさそうだったけれど、どこかでボタンを失くすのも業腹だったし、何しろVan Burenに見咎められた──ちょうど、彼女の目線の位置だったから、見逃すはずがない──らまたあの顔をされると、そのままクローゼットに戻したのだ。
 そのボタンが、今はきちんと元通りになっている。
 Lupoはシャツの前を持ち上げて、よく見ようと顔を近づけた。
 自分がやったのでなければ、直した誰かはひとりしかいない。
 他のボタンよりもやや太い糸が、ボタン穴の中にきれいに並んでいるのが見える。他のボタンよりも背高く──足元と言うべきだろうか──つけられ、おかげでシャツの生地がそこだけは引きつれない。安物のシャツに加えられた作業の丁寧さに、Lupoは軽く目を見開く。
 もしかすると、ここに並んでいるシャツの何枚か、すでに彼が糸の弱ったボタンを丁寧につけ替えているのかもしれない。
 今すぐシャツを全部調べてみたい気がしたけれど、すでに出掛けるぎりぎりの時間とわかっていたから、Lupoは今身に着けたシャツのボタンを留める手を早めた。
 Lupoの生活をまったく乱さない彼が、そっと残した痕跡を、Lupoはいとおしむために、数秒だけシャツの前に掌を当てて、自分のその手の指先に、まるで彼の手にそうするように、かすかに唇を押し当てる。
 それからきっぱりと気持ちを切り替え、バタバタと、いつもの朝の調子で部屋を横切り、キッチンからコーヒーを取って、バタバタと玄関へ向かう。
 ドアを閉める直前、誰もいない部屋の中をぐるりと目だけ動かして見渡し、それから、
 「行って来ます。」
 彼がどんな時もそうする真似をして、Lupoはばたんとドアを閉めた。

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