休日の過ごし方
せっかくの休みなのに。変な人ですねとでも言いたげに、花京院がこちらを振り向いて笑う。
朝を少し寝過ごして、作ったコーヒーをマグに入れて、普段以上にだらしない格好のまま、Lupoは花京院のいる教会にやって来た。
今は特に信心深いわけでもないLupoは、それでも子どもの頃には親に連れられて来ていたこの教会に、行く所の失くなった花京院を預かってもらっている手前、礼と称して何か手伝えないかと、休みの日に顔を出すのにやぶさかではない。
来るたびに幾ばくか寄付するのはもちろん忘れない。とは言え、刑事の薄給では、せいぜい20ドル札を献金箱に滑り込ませるのが精一杯だ。
以前いた教会でそうしていたように、ここでも教会内の掃除と炊事を引き受けて、もし長くいられるなら花壇の手入れも手伝いたいと、額に汗を浮かべて花京院が言う。
掃除や炊事はもちろん皆で手分けしてやるのだけれど、例えば像の後ろだとか、告解室の仕切りの上の方だとか、あまり誰も手を出さないところを、少しずつひとりできれにしているらしい。
日曜の夜に、礼拝堂の床をきれいに掃き出した後で、信者たちの座るベンチもすべてひとりで拭いて、そのせいなのかどうか、近頃礼拝堂の中の空気の色が違うような気がすると、そう呟いてゆく人たちもちらほらいるという話だった。
花京院のそんな律儀さを、もちろん教会側は喜んで受け入れているし、ここへ来ることになった事情についてはきっちりと箝口令が敷かれ、あれこれ立つ噂も今のところはない。
Lupoには時々、この花京院の律儀さが痛々しく見える。これが素の性格なのだろうと思っても、まるで罰を与えられているように黙って立ち働く花京院を見ていると、そんなに必死にならなくてもいいと、その肩にふと手を置きたくなる。
日本人ですから。
手を汚して働くことは、ここで言われるようには苦役ではないのだと、花京院はLupoに説明する。
楽しいとは言いませんが、正しいことだと教わってますから。人としての徳を積むためです。
徳と言う言い方は、説明されてもLupoにはよくわからなかった。ふたりきりで話をする時に、花京院はいつも言葉を選びながら、教会で学んだ以外のことを控え目に口にする。14まで育った祖国のことを、どんな風に覚えているのか、口数は少なく語る言葉のひとつびとつで、Lupoはまだ子どもの花京院が駆け回る、見知らぬ風景を想像する。
14歳の花京院に起こったことと、Lupoの兄に起こったことは、ふたり一緒に不器用に避けて、主には互いが子どもだった頃の思い出や、近頃起きたことばかりを話題にして、それで今は充分なふたりだった。
今日は、教会の窓を外側から全部きれいにして、花壇の雑草もついでに抜く手伝いもしてから、ちょうど午後の半ばになったところで、花京院がLupoに声を掛けた。
「お茶にしましょう。少し休んで行って下さい。」
庭仕事用の手袋をLupoが外したのを受け取りながら、先に立って台所の方へ行く。外はむやみに明るくても、教会の空気はひやりとしていて、中はたいてい薄暗い。こんな雰囲気に、やはり薄汚れたジーンズにTシャツ姿──働く者の姿としては、非常に正しい──では少々神様に失礼かと、Lupoは花京院の後ろを歩きながら、鼻の頭に浮かんだ汗を、泥染みのついたシャツの肩で拭った。
こんな薄汚れた格好でも、少なくとも、硝煙と血の匂いのするスーツよりはましだろうと思う。珍しくジーンズの後ろポケットに入ったままの携帯は今日はまだ一度もならず、今のところ、Lupoの管轄地域ではまだどんな変死体も発見されていないと言うことだ。
「紅茶でいいですか。」
設備は古ぼけているけれど、広さだけはたっぷりとある台所の真ん中に、そこで数人なら肩を寄せ合えそうな、どっしりと重い素朴な木のテーブル、そこには冷たい水の入ったグラスがすでに置いてあり、Lupoは言われる前にそこに座って、湯を沸かし始めた花京院の後ろ姿を眺めた。
テーブルクロスなどと言う上等なものはなく、皿がこの上で割れてしまったり、ナイフを落としてしまったりしてできたのだろう傷に表面を覆われ、水の染みらしいものもあちこちに見える。けれど掌を置くとじんわりとあたたかいこのテーブルが、Lupoはとても好きだった。このテーブルに、こうして腰が下ろせるのも、ここにいる花京院のおかげだ。
恐らく、昔ここにいた誰かが作ったものなのだろう。椅子も同じように重く傷だらけで座るときしんだ音を立てるけれど、後100年はこのまま、この台所に居座り続けるように思えた。
グラスの水を飲んでしまって、Lupoは花京院が向こうを向いているのをいいことに、テーブルの表面を掌で何度も撫でた。
時々指先に引っ掛かる傷跡も、ひとつびとつ丁寧になぞる。真新しい時からこのテーブルはきっとこんな風で、なめらかでも艶々と美しいわけでもなかったろう。大事にはされても、それは明らかな価値あるものに対してとは違い、自分たちに必要で、その用を充分に成してくれるからという理由であって、美しいからとかきれいだからとか、そんなことは、今まで誰もこのテーブルに対して感じたことはないのかもしれない。大事にはされても、丁重に扱われるわけではないこのテーブルの存在と、殺人捜査課の刑事である自分の姿が、何となく重なるように思えて、Lupoはもう一度、テーブルの表面をそっと撫でた。
同じタイミングで花京院がこちらに振り返り、用心深くマグをふたつ手にこちらにやって来て、ひとつをまずLupoの前に置いた。
「今日はありがとうございました。助かりました。」
椅子に座りながら花京院が言う。
どういたしましてと、軽く言ってから肩をすくめ、照れ隠しのために、持ち上げたカップの縁に顔を隠す。
「休みの日なのに。」
また花京院が言う。明らかにこちらに気兼ねしている声音を聞き取って、Lupoは微笑みを返した。
「自分の部屋はきれいにする気にならないんだ。」
冗談だと思ったのか、花京院が笑い返して来る。その笑みにうっかり心がほどけて、Lupoはぼそりと本音をもらした。
「のんびり何かできるなんて、刑事にはそれだけで贅沢なんだ。」
Lupoがこんな風に、弱音ともつかない本音をこぼす時には必ず、花京院は慈愛としか言いようのない表情を浮かべる。こちらを包み込むように見つめて、そうできるなら両腕で抱きしめてくれそうに、Lupoはいつも、そうやって花京院に抱きしめられる自分を想像する。そこでなら、兄の死や他の有象無象の死について、包み隠さず語れるような気がする。
「お返しに、部屋の掃除の手伝いに行った方がいいですか。」
まだ自分の分の紅茶には手を着けずに花京院が言う。あくまで冗談めかして、けれど、Lupoが身の回りのことに手が回らず、ほんとうに人手が必要なら申し出に応じると、本気の部分はきちんと含ませて、さすがにそれに飛びつくほど図々しくはなく、
「・・・その時は真っ先に頼みに来る。」
とだけ、Lupoは少し声をひそめて答えた。
その時唐突に、一緒に暮らせばいろんなことが一緒にできると思いついて、Lupoはその思いつきに自分で驚いた。
もちろん今のアパートメントは、ふたり暮らしには少々狭過ぎる。犬もいる生活には、できれば一軒家が望ましい。
紅茶を飲みながらそんなことを思いめぐらせて、考えるうちに、勝手に言葉が口をついて出た。
「この間行った町で食べたチリが、すごくうまかったんだ。」
話の繋がりを探ろうとするように、自分の方へ少し耳の向きを変えた花京院の仕草に、Lupoは慌てて言葉を継ぐ。
「小さい町で、裁判所はちゃんとあっても、警察署なんかない。いるのは保安官で、仕切ってたヤツは麻薬売買と殺人でオレたちが逮捕した。それ以外には滅多と交通事故もなさそうな町で、何しろチリがうまい。」
支離滅裂だと、自分で思いながら一気に言った。
ええと、と心の中で考えて、とりあえずけりをつけるために、さらに意味のない一言を付け加えた。
「犬を飼って住むならあんな町がいいと、思ったんだ。」
そうですか、と気遣いの相槌を打って、花京院がやっと自分の紅茶をひと口飲んだ。
「そんなところなら、しょっちゅう呼び出されずにすみますね。」
「多分土日はちゃんと休める。」
「それなら家のこともちゃんとできますね。」
茶化すように花京院が言った。
「できたら庭の広い家で、大きな木があるともっといい。犬が、リードなしで走り回れるくらい。」
いつか自分が住むかもしれない家を想像しながら、Lupoは先を続けた。
「こんなテーブルを置いて、所得税申告の書類に頭を抱えて、これなら殺人犯の弁護する方がマシだって、そんな風に──」
ふたりで一緒に声を立てて笑った後で、今度はLupoが花京院に訊いた。
「君は、どんな家に住みたい?」
言いながら、自然に、テーブルの上に乗せた腕に寄りかかるように、向かいの花京院へ体を軽く乗り出した。
花京院は困ったように首を傾げ、どう言ったものかと言葉を探している。
「僕は、家なんて・・・。」
「どんなところに住みたいくらい考えるだろう?」
強引かと思いながら、重ねて訊いた。花京院がいっそう深く苦笑を刷くのに、答えてはくれないのかと、落胆を感じて、必死に聞き出そうとする自分を少し恥じてから、質問を引っ込めようとした時に、戸惑いながら、やっと花京院が唇を開いた。
「・・・本棚がたくさん置ける家なら・・・。」
「本棚?」
それなら1階に広いスペースのある家でないと、とLupoは思った。
「父が、本をたくさん持ってたんです。」
過去形で言う花京院の唇の端が、微笑みに上がったまま、かすかに、ほんとうにかすかに、震えていた。
花京院の言う父が、血の繋がった父親のことなのか、それとも14歳から3年間、花京院の面倒を見ていた──Special Victims Unit的に言うなら、"年端も行かない少年の彼を飼っていた"だ──養父のことなのか、もちろんどちらと確かめることはできず、きっと前者のことに違いないと信じたいのは、花京院の傷にうっかり触れてしまった自分に対する嫌悪感のせいだ。
Lupoは素早く表情を消して、まだ少し熱い紅茶を、突然一気に飲み干した。
そろそろ行かないとと、わざとらしさを隠せないままLupoが立ち上がると、花京院も一緒に立ち上がって、お引き止めしましたと、少しばかり申し訳なさそうに言う。
車の鍵や携帯をちゃんと持っていることを確かめて、それから、持って来たコーヒーのマグの所在を思い出せないことに気づく。
Lupoの仕草に探しものを悟ったのか、花京院が、ああ、という表情を浮かべて、台所のシンクの方へ寄った。
「すいません、勝手に洗っておいたんです。しまう前にもう1度すすいで下さい。」
すっかり乾いてきれいになっているマグをLupoに差し出して、それから、自分が座っていた椅子をきちんとテーブルの下へ押し入れ、花京院はLupoを見送るつもりか、台所を一緒に出て行こうとする。
やっと我に返ったように、Lupoも花京院を見習って椅子の位置を元に戻し、マグを片手に花京院と一緒に台所を出た。
肩を並べて、建物の規模の割には広く幅の取ってある廊下を歩き、駐車場に近い裏口へ向かう途中で、下の方へ視線を落としたまま、小さな声で花京院が言った。
「今度、図書室の本の整理をようと思っているのですが、手伝っていただけますか。」
自分から何か頼みごとなど滅多と口にしない花京院が、Lupoの方を見ずに訊く。
足は止まらず、裏口へ向かいながら、
「もちろん。いつでも。喜んで。」
つっかえながら、けれど即答して、Lupoは意味もなく、花京院が洗っておいてくれたマグを手の中に握りしめた。
裏口を出たLupoの背中に、ではまたと、花京院が挨拶を残し、ドアが静かに閉まる。
肩越しに見た花京院の表情は、少なくとも不愉快にそうには見えなかったと思いながら、Lupoは自分の車に向かってゆく。
まるで待っていたように携帯が鳴り始め、車に乗り込みながら、Lupoはすっと刑事の貌に戻って、もう告げられる現場の方向へハンドルを切っていた。