夜の色
ふと目が覚めて、すぐにまた眠ってしまおうと目を閉じたのに、なぜか引き寄せられるように闇へ目を凝らして、それから、顔を横に向けて、隣にある、淡く浮き上がる白い輪郭を視線でなぞった。大きくはないベッドに、ほんのわずか隙間を置いて、見ているだけなら薄く見える背中に腕を伸ばしかけてから、寝返りを打つように、Lupoは自分の側のベッドの端へ体を返した。
まだベッドに残る背中が裸と同じに、自分も裸であることに気づいて、冷えないようにとまくった毛布をきちんと元に戻し、ベッドの足元からぐるりと部屋を中を回る。まだ眠る彼の側の床に、ベッドで脱いで放り出したあれこれを見つけた。
シャツを頭からかぶり、ただ足の動くまま部屋を出て、明かりは点けずに手探りで居間のソファへ行く。テレビでも見るかと頭の隅で思いついたのに、手はリモコンへは伸びないまま、真っ暗な部屋の中でぼんやりと、物の形を目で追った。
意識の半分はまだ眠気を主張しているけれど、後の半分は冴え返っている。ベッドに戻っても、きっと眠れないまま朝を迎えてしまうだろうとLupoは思った。
夜の夜中に、ひとりでもないのにこうやって起き出して、ただぼうっとしているのというのも妙な気分だった。
何をするとも思いつけず、けれど目が覚める直前に見た夢の断片が、頭の後ろ辺りをうずかせている。
死んだ兄が、淋しそうに微笑んでいた。何か話をしていたはずだけれど、内容は覚えていない。ふたりきり、抱き合おうとした気がする。ただやるせなく微笑むだけの兄を、力いっぱい抱きしめようとして伸ばした腕が、触れたか触れないか、夢から醒めたのは、ちょうどその辺りだったろうか。
兄が病気で死に掛けていたことも、自殺を考えていたことも、Lupoは知らなかった。兄の家族の誰も、知らなかった。兄はひとりで苦しんで、それを誰とも分かち合わないまま、ひとりで死んだ。分かち合うことで、自分の苦しみが減るわけでもなく、ただ周囲に苦しみを撒き散らすだけだと悟って──悲しいけれど、現実だ──、何もかもを飲み込んだまま、ひとり逝くことを選んだ。
兄の苦しみに触れられなかった誰も皆、今ひどく苦しんでいる。彼の苦しみは終わったけれど、周囲の苦しみは始まったばかりだ。
気づくことはできなかったのか、助けられなかったのか、せめて慰めることはできなかったか、引き止められるだけの愛情を示せなかったか、なぜひとり苦しんで逝ってしまったのか、幼い子たちを置いて、いずれ死ぬにせよ、自らそれを早めることはなかったではないか、なぜそうやって、残された人間の苦しむ方法を選んでしまったのか、なぜ一言でも、苦しい怖いと言ってはくれなかったのか、あらゆることを考える。自分を責め、兄自身を責め、兄の身近にいた人間たちを責め、自殺を手伝った人間を責め、その人間の家族を責め、兄の死病を責め、その病気を治せない医者たちを責め、そしてまた、何もできなかった自分を責め、何もさせてくれなかった兄を責める。
兄の死によってこの街に戻って以来、考えることは減ったけれど、相変わらず兄の死はLupoの心をとらえて、ずっと放さない。誰かが死んでも、世界は止まらずに回ってゆく。人の死に関わることを仕事にしているLupoは、そのことにほとんど毎日触れている。
死と自分を切り離す術を、仕事のために身に着けたLupoにとって、兄の死は複雑な影を胸の内に投げ掛けたも同然だった。
兄の死を事件として扱い、けれどそれは家族の死でもあって、兄の死を嘆くと同時に、その背後にある謎をひとつびとつ追い駆け、解き、時には醜い現実に直面しながら、その背後にあった兄の死の事情を白日の下に晒したことを兄の家族──残された兄の妻である、義理の姉──に責められ、誰よりも親(ちか)しい家族の死を素直に嘆くことの許されない自分の立場を、Lupoは心の底から呪った。そして、自分にこんなことをさせる兄を、心のどこかで恨んだ。ほとんど憎しみに近く、恨んだ。
誰もせいでもない。誰も悪くない。死病に侵された兄は、もがき苦しむ姿を妻や子どもたちに晒す気になれず、その苦痛に耐えられないと思って、できるだけ残された人間たちを苦しめないために、安らかな死を選んだ。いずれはやって来る醜く苦しい死を、眠りの中の死に替えて、自ら手元に引き寄せただけだ。
それでも、1日でも1分でも長く生きていて欲しかったと思うのは、結果として兄が苦しむ姿を見ずにすんだからかもしれないとも思う。
様々な死に様を目にして、死んだからこそやっと聞こえる声もあるのだと、Lupoは知っている。死体は無音だけれど、決して無言ではない。死者にならない限り、誰にも届かない声さえもある。
口には出さないだけだ。あれならいっそ死んだ方がましだったろうと、ひそかに目をそらす被害者やその家族もいる。死ねば少なくとも、殺人として犯人を追える。殺人と単なる傷害や暴行では、問える刑の長さが明らかに違う。
兄の死を思う時に、誰かひとりを責めることのできない、だからこそ死んでしまった兄を責めるのがいちばん苦痛が少ないのだという現実と、自殺を受け入れることのできない自分の考え方と、けれどやはりこれがいちばんすべての人間にとって苦しみの少ない方法だったのだろうと思う弟である自分の気持ちと、あらゆる考えが頭の中を満たす。どれかひとつが正しいと割り切れず、誰かが完全に間違っていると指摘もできない、ひどく荒涼とした場所にひとり取り残されたような、茫漠とした気分を味わう羽目になる。
兄を憎いと思う自分に戸惑いながら、けれどその気持ちを悪いことだと否定もできず──それだけ、Lupo自身も傷ついている──、兄を憎む自分を、Lupoは時々嫌悪する。
殺人課の刑事でなければ、もっと素直に、兄の早過ぎた悲しい死を嘆くことができたのだろうかと、兄の死を、赤の他人の死のように扱わなければならなかった自分の立場さえ、今も時折疎ましい。
気がついたら、まるで自分を抱きしめるようにして、両腕を掌でこすり上げていた。寒いわけでもないのに、部屋の空気がひどく冷たくて、今この場にひとりでいることがひどく淋しくて、そしてひとりきりだという思いに、数瞬酔う。こんな風にもっと傷つけば、兄を憎む気持ちも正当化されるような気がする。そして、兄を憎むことを許されれば、兄を許せるかもしれないと思った。
兄の名を、思わず喉の奥でつぶやいた時、出て来た部屋のドアが開く音がした。
「・・・大丈夫ですか。」
花京院が、肌を見せない程度の姿で、そこに立ってLupoを見ていた。
ソファに坐って、前かがみに膝を抱きしめるように体を折っているLupoを、心配そうに見る目が細まる。
「・・・目が、冴えて、ちょっと眠れなかった。」
慌てて普段の表情を取り繕い、体を起こして、けれど立ち上がるのをためらった隙に、花京院がいつもの、その場その場で違うはずの意味が読み取れない微笑みを浮かべて、Lupoの隣りにやって来た。
「眠れないなら、コーヒーでも淹れますか。」
まだ丸まったままのLupoの背中を、ごく自然に撫でる。今は少し冷え、抱き合った熱さの跡もない、白々しく感じられるLupoの背中を、まるであやすように、ゆっくりと花京院が撫で続ける。
「いや、いい。」
明かりはつけない部屋で、ソファに並んで坐り、花京院の掌のあたたかさに、Lupoは思わずゆっくりと瞬きを繰り返した。
どうかしたかと、言葉では訊かずに、動く花京院の掌が尋ねている。見ていた夢の話をしようかと短い間迷ってから、Lupoはやはりそのまま口を閉じた。
「・・・明日の朝、近くの店で朝メシにしよう。」
明日ではない、もう今日だ。その間違いを、ふたりとも指摘はせずに、花京院はただLupoに向かって笑いかける。
「いいですね。滅多に食べないベーコンが食べられる。」
「ハムの方が好きかと思ってた。」
「自分で作らないなら、何でも美味しいと思います。」
仕事のせいが大半とは言え、ろくに自分で料理などしない自分に対する揶揄──炊事は、教会での花京院の仕事のひとつだ──かと思ったけれど、そうではないらしいことにLupoが気づくより先に、花京院自身が、自分がうっかり発してしまった嫌味に気づいたように、ちょっと唇の端を下げる。
「・・・あなたとは関係なく、僕がそう思うだけです。料理は嫌いじゃないんです。」
こんな、言葉をやり取りする裏側の意味を汲み取る素早さは、やはり日本人のものなのだろうかと、決しておしゃべりではない自分が、花京院といるとひどく軽薄に饒舌に感じられることを、Lupoは思い出して、そうして、ふたりが出会ったきっかけがあまり好ましいものではなかったことも同時に思い出した。花京院がほとんど自分のことを語らないのは、主にはにこやかに語れるような内容ではないからなのだと、自分がまとめた報告書の内容のことを考える。
人の心の動きに聡いのは、日本人であるせいなのか、それとも或いは、そうして過酷さを生き延びて来たからなのか。
兄のことも含めて、自分も決して平坦に生きて来たわけではないけれど、自分よりはるかに若い──まだ、子どもと言ってもいいくらいだ──花京院の、短い人生の内容には勝てず、勝てないことを素直にうれしがるほど無邪気でもなく、兄の死に、ひそかに打ちひしがれていた時に出会ったというのは、やはり何か意味があるのだろうと、Lupoは何度も思ったことをまた改めて考えていた。
「少しでも、眠った方がいいですよ。」
まだ掌の動きを止めずに、ささやくように花京院が言った。
「ああ。」
明日からまた、死体と殺人犯に付き合う日々だ。ふたりきりで朝食を取った後で、刑事の顔に戻る自分が向ける背を、まだ神父という表情を消せないまま見送る花京院の、何となく淋しそうな様子を思い浮かべて、Lupoの胸の中は自分勝手にそれになごめられてゆく。
背中からそっと離れた花京院の手を、Lupoは逃がさないとでも言うように、しっかりと握った。
「ベッドに戻ろう。」
手を握られたまま、花京院が先に立ち上がる。手を引かれて部屋に戻る形で、けれどドアの手前で、Lupoは足を止めた。
伸びて引っ張られた腕を振り返って、花京院が体半分だけLupoへ向く。Lupoは、その時だけは稚じみる、大きな笑顔を浮かべた。
ドア枠へ花京院の背中を押し付けるように、胸を合わせて、両腕の中に閉じ込める。暗くて静かな部屋の中で、今はまだ、明け方よりも深夜に近い時間だ。Lupoの意図を悟って、肩の辺りを固くした花京院に構わず、Lupoは額や頬を合わせてから、そのまま唇を、目的の場所へ滑らせた。
乾いてしまっている唇。初めは戸惑いが勝って、それからそっと行き交い始める呼吸。Lupoの頬に、花京院が両手を添えた。
あたたかい体。しゃにむに重ねて触れ合わせる皮膚。その奥の奥にある、骨には絶対に触らない。ふたりは生きているからだ。
死者はいずれ、骨になる。白く乾いて清潔な、重さも質量も失くして、誰とも見分けのつかない、ただの骨に還る。棺に納められ、地中深く埋まった兄のことを考えた。兄の体はまだ、彼だと見分けがつくだろう。あそこで骨になるには、一体何年掛かるのだろう。それでももう、人のぬくもりはとうにない彼の体だ。
死を恐れて、人のぬくもりを求める。生きている証の体温に触れる。皮膚をこすり合わせて、そこに生まれる熱が体の内側を潤し、そうして文字通り、躯の内側に触れ合って、心臓の動きと血の流れをじかに確かめる。そのために、誰かと抱き合いたがる。
骨に触れないのは、そこにかぶさる肉と皮膚があるのは、生きている人間の特権だ。
唇が開き、湿った音が始まる頃には、また床に落ちる、脱ぎ捨てたあれこれを踏みつけながら、ふたり一緒にベッドに戻っていた。
ひとりではないから、ひとりではないと確かめたかった。自分の背を撫でていた花京院の手を取り、掌に口づける。ぬくもりに感謝しながら、自分もぬくもりを与え返すために、Lupoは、シーツから浮いた花京院の背の隙間に、片腕を差し込んでゆく。
明ける朝も、約束した朝食のことも今は忘れて、ふたりがまた眠りに落ちるのは、もう少し先のことだった。