Tea Time

 古いコメディの再放送を一緒に見終わった後で、Lupoがとっておきのデザートを冷蔵庫から出した。
 花京院は、お茶にしようと言ったLupoの言葉に従って、コーヒーを淹れようとしていたところだった。
 Lupoの掌ほどの平たい箱は、ただ素っ気ない白で、Lupoがもったいぶった手つきで、シンクのそばに中身を出す。ごく薄い緑の部分はムース状に見える、素朴に焼かれたパイだ。
 ふたりの間を一瞬で満たした甘い匂いに、花京院は素直に鼻を鳴らして、
 「何ですかこれ。」
 「キーライムパイ。」
 「きーらいん?」
 「キーライムパイ、キーライム、だ。」
 花京院の耳には、Pの前のMの音はほとんど聞き取れない。Lupoがゆっくり言う口の動きをそのまま繰り返して、キーライムパイと言ってから、やっと綴りが頭に入って来る。
 「初めて見ます。」
 「教会でパイを焼いたりするんだろう。」
 「アップルパイとかパンプキンパイなら。レモンメレンゲパイもたまに焼きますよ。でもキーライムパイは初めて聞きました。」
 「Lieuがお気に入りだって言うデリで買って来たんだ。ひと切れ分けてもらったらやけにうまかったから。」
 「るー?」
 「L.T.、Van Buren。」
 何を言ってるのかまったくわからないという顔をして、花京院は水を入れるためにコーヒーポットを持った手を止めたままだ。
 「Lieutenant(警部補)っていちいち言うのはめんどくさいから、そうやって短くするんだ。それでLieu。」
 「ああ。」
 やっと合点が行ったと、途端に花京院の口元が輝き、それからやっとポットに水を注ぎ入れる始める。
 「この間までL.T.だったのに、Lieuに変わったんですか。」
 コーヒーポットのスイッチを入れた花京院の隣りで、Lupoはもう切り分けて皿に乗せたパイの自分の分に、フォークの先を突き立てている。
 「Bがそう呼ぶせいだ。」
 ひと口目を口の中に入れたまま、もごもごと不明瞭にLupoが言う。
 パートナーのBernardを、LupoがBと短く呼び始めたのは、わりと最近のことだ。
 名乗り合う時は必ず苗字の日本人と違って、ここの人間たちはいつも名前で呼び合うのだと思っていた花京院は、少なくとも警察という場では、必ずしもそうとは限らないと知って驚いたことを思い出す。ここでは苗字で呼び合うという場面に出会ったことのなかった花京院に、それはとても奇妙なことに最初は思えた。
 Bernardが、最初は苗字か名前かはっきりせず、Kevinという彼の名前を知ったのは、Lupoと個人的に親しくなってからだ。
 LupoにBと呼ばれるBernardは、LupoをLupesと呼ぶ。愛称でさえ、お互い決して名前では呼び合わない彼らの照れのようなものを、花京院はひそかに感じ取っていた。
 教会という世界の対極にあるように思える警察という世界にいて、彼らは、花京院にはわかりにくい形で、互いを敬い合い、いたわり合っているらしい。わかりにくさの最たるものが、その苗字で呼び合うことにこだわる──恐らく、本人達は無意識だ──という点だったけれど、自分も、日本にいた頃も名前──いまだに、下の名前、と日本語で思い浮かべる──で呼ばれることの滅多になかった花京院にとっては、ある意味馴染み深い習慣とも言えた。
 刑事である彼らふたりの奇妙な頑なさを、生意気かと思いながら、花京院は微笑ましいと感じている。
 コーヒーは出来かけていて、Lupoはもう自分の分を半分以上食べ終わっていた。
 「ほら。」
 自分の分にはまだ手も着けずに、コーヒーが出来上がるのを待っている花京院に、Lupoは自分の分からひと口、パイをフォークの先に切り取って差し出した。
 ひと呼吸分逡巡した後、花京院は雛鳥のように口を開けて、Lupoのフォークの先へかぶりつく。行儀の悪いことだと、教会の静かさを思い出しながら、内心赤面していた。
 けれど、パイのひとかけが舌の上に乗った途端、その静けさはどこかへ飛び去って行った。
 「甘い。でも。」
 Lupoはまだフォークの先を引っ込めないまま、花京院が言おうとした先を素早く引き取る。
 「うまいだろ?」
 素直にうなずいて、さくりと香ばしいパイ皮の部分をゆっくりと噛み砕く。
 口の中いっぱいに広がる甘酸っぱさは、まさしくライムだ。香りの強さはレモンよりもずっと激しく、酸味はほんのわずか穏やかで、思わず笑みの浮かぶ優しさのようなものがある。口にしたことのない果物なのに、どこか親しげに思える、不思議な味わいだった。
 コーヒーメーカーが、やっと出来上がった合図に、子猫が鳴くような音を立てた。
 何も入れないコーヒーをLupoに渡し、花京院は、自分の分にはクリームを入れた。それからやっと、自分の分のパイの皿を、カップの傍、自分の手元へ引き寄せる。
 最初のひと口をきちんと食べ終わってから、Lupoの方は見ずに訊いた。
 「Lieutenantは、お元気ですか。」
 コーヒーを飲みかけた手を止めて、問われたLupoの視線がちょっと泳ぐ。それを横目に見て、Van Burenの癌の治療があまりうまくは行ってないのだと、Lupoが答える前に花京院は察した。
 けれどLupoは、期待とは少し違う答え方をする。
 「本人は元気そうだし、食欲もあるみたいだけど、懐ろ具合があんまり芳しくないらしい。」
 「・・・そうなんですか?」
 他人の私生活に立ち入る質問はどうかと思いながら、話の流れでつい問いが重なる。いないところでその人の噂話をするのは、あまり感心することではない。それでも、LupoにはLupoなりの、仕事場での屈託もあるだろうと、まるで懺悔でも聞くような気分で、花京院は話の続きを待った。
 「保険がないと、億万長者でも破産する癌治療だし、保険があってもできる治療が全部できるとは限らない。でも放っておいて悪化させるわけにも行かない。Lieuはああいう人だから弱音は絶対に吐かないけど、不安がたまってるのはオレたちでもわかる。心配なのは、結局病気だけじゃないからな。」
 そうなのかと、まだ大きな病気はしたことのない花京院は、実感は湧かないまま、Van Burenの不安の深さを思って心が痛んだのを、そのまま表情に浮かべた。
 「だからこっそり、Lieuを励ます会をやることにした。」
 「え?」
 「課の連中と、署内全部に、こっそり連絡回してる最中なんだ。Lieuにはバレないようにこっそり。」
 カップを持ったままの手を動かして、こっそり、とLupoが何度も言う。
 「Lieu宛てにカンパもやるんだ。小切手を用意するって連絡がいくつかもう来てる。」
 子どもが、大人に内緒で仕組んだいたずらの計画を打ち明けるような、どこか少年じみた表情のLupoを見返して、花京院は微笑みが浮かぶのを止められない。
 黒人の、しかも女性であるVan Burenは、どんな時も人から理由もなく蔑まれること、憐れまれること、そして施しを受けることを、決して良しとはしないように見える。その辺りの機微に、白人であるLupoが気づいているのかどうか、花京院は確かめようとすることは無礼だと思ったから、絶対に口にはしない。
 白人である彼を傲慢であると感じたことは今までなかったし、パートナーであるBernardが黒人であることにはまったく気づいてすらいないようなLupoの態度は、日本人である花京院には常に好ましいものだった。
 Van Burenに対するこの計画も、ようするにLupoの、人間としての普遍的なただの優しさから発したもので、それはLupoの花京院に対する態度と、根っこはまったく同じものだ。
 この人はこういう人だ。
 Bernardがうっかり花京院にこぼすほど、犬や猫にも優しい。容疑者やうそをつく自称目撃者に容赦はないけれど、被害者にはいつだって心を痛めて、心底親身になれる男だ。
 だからこそ、自分は今ここでこうして、Lupoと一緒にLupoのアパートメントで、Lupoのコーヒーメーカーで作ったコーヒーを飲み、Lupoの買って来たパイをつついている。
 パイを半分食べたところで、花京院はフォークを持った手を置いた。
 「今度、レシピを見つけて、このパイを焼いてみます。うまくできたら、Lieutenantに持って行って届けてくれますか?」
 Lupoがもちろん、という仕草で大きくうなずいてから、さらに子どもっぽい仕草で、
 「ただし条件がある。」
 花京院の方に、カップの取っ手に他の指は巻きつけたまま、人差し指を軽く突きつけるようにして、真面目くさった口調で言う。
 「オレにも同じパイを焼いてくれて、君が自分でデリバリーしてくれて、コーヒーを淹れてくれて、一緒に味見をしてくれたら、Lieu宛てに君が焼いたキーライムパイを持って行ってもいい。」
 Lupoの大仰に作った表情に合わせて、花京院も真面目な表情作り──まるで、裁判官へ意義ありと声を掛ける検事補Mike Cutterのように──、少し声を硬くした。
 「前向きに検討します。」
 そう言った瞬間、Lupoが笑み崩れ、すぐに続いて、花京院も破顔した。
 カップを持ったままの方の手が、花京院の肩へ回る。Lupoはそのまま花京院を、片腕の輪の中に抱き寄せた。
 花京院は、コーヒーからもパイからも手を離して、Lupoの腰に軽く腕を回す。
 こうして口づけが始まるのは、あまりふたりきりで会う時間のないふたりには、当然のことだった。
 「残りのパイは、半分持って帰るといい。」
 「自分で焼くための研究用に?」
 珍しく茶化すように花京院が、Lupoの肩にあごを伸ばしながら言う。
 「美味いパイをふるまったら、きっと教会への寄付金も増える。」
 首筋へ唇を落として来るLupoに、そうですねと返す声の語尾が、もうほとんど聞き取れないくらいに小さくなった。
 神父服の高い襟の中へ、Lupoの伸ばしたひげが入り込んで来る。くすぐったさに身を縮めながら、胸や肩は、いっそう近くLupoへ添ってゆく。
 長い上着の裾を割るLupoの手を、花京院は拒む気配すら見せずに、口づけを深めるために、革靴の踵を軽く上げ、部屋の明るさをやわらげるために、ぎゅっと強く目を閉じた。

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