Warped
「オレ、おまえの前で裸になるの、いやだ。」真昼の明るさも気にかける様子もなく、次々に服を脱ぎ捨ててゆく、新しい愛人の背中に向かって、小さな声で、けれども精一杯の抗議を込めて、アンソニーは呟いた。
うなじにある、Los Angelsの刺青が、アンソニーを嘲笑うように、ゆっくりと冷えて硬張ってゆく様が、まるで昔溺れた幻覚のように、アンソニーの視界を覆ってゆく。
振り返り、デイヴは、ひどいロシア語訛りのスペイン語ででも話しかけられた、という表情を見せて、目元をほころばせる。
柄にもなく、蠱惑的、という言葉が頭に浮かぶ。
どうしてこんなにも、この男は魅力的で美しく、劣等感を刺激される自虐的な感覚に、アンソニーを引きずり込むほど、悪魔的に凄艶なのか。
手を伸ばし、デイヴは、アンソニーの頬に触れた。
首を傾け、デイヴの唇が近づいて来るのを、逡巡と期待の入り混じった、もう慣れてしまった感覚に埋没しながら、下目に見ている。
そんなつもりもないのに、デイヴの舌先に、即物的に昂ってゆく、躯。
ジョンに恋していた頃には、自分のことを、柄にもなくストイックだと思っていたのが、今は嘘としか思えない。
手慣れた人間の手にかかれば、機械仕掛けのぬいぐるみみたいに、ボタンひとつで声が漏れる。こんなにも、たやすく。
あの頃──ジョンが、いた頃──はまだ、同性に魅かれて、躯を重ねたいということが、現実にどういうことなのか、よくわかっていなかったのだ、と思う。ジョンが愛しくて愛しくて、それを素直に恋だと認めても、その後にあるはずの具体的な現実は、空白のままだった。どうしていいのか、わからなかった。
結局一度だけ、ようやく口説き落としてベッドには入ったものの、硬張ったままのジョンに、無理矢理触れる気にもならず、ほんとうに一緒に夜を過ごしただけ──たまたま酔っ払って泊まった、というのとちっとも変わらない──で、一度きりのその夜は終わってしまった。
それすら、自分をまともな異性愛者だと信じたがったジョンには、充分に忌まわしい思い出になってしまったのか、台無しになった人生を返してくれと、彼は宗教に溺れ始めている。
ジョンの脱退も、その宗教への傾倒も、どちらもアンソニーを手酷く傷つけていた。
もちろんそんなことを告白すれば、デイヴは多分鼻先で笑って、何も言わずにアンソニーを組み敷いてしまうのだろうけれど。流れるように事を運ぶデイヴにとっては、アンソニーのそんな話も、滑稽な笑い話に過ぎないのだろうと思う。微笑むだけで、どんな男も女も、デイヴの意のままになるのだろうから。
デイヴの両手が、シャツの下に滑り込み、背骨に沿って這い上がりながら、薄い布切れを剥ぎ取ってゆく。
デイヴに比べれば、まだ幾分戸惑いがちに、アンソニーはデイヴの髪の中に指を差し込み、耳の後ろを撫で始める。
ふたりで床に倒れ込みながら、明る過ぎる真昼の日差しの中、時折アンソニーは、羞恥を込めて、肩の辺りを震わせる。
どうしたら、こんな風になれるんだろう、一体。アンソニーは、頭の隅で考える。そうとは、ばれないように、瞳は、かたく閉じて。
デイヴの、いつも奇妙に淫らに見える舌が、耳の後ろから首筋に、流れてゆく。
思わず声が漏れかけて、代わりにアンソニーは、大袈裟なほど肩をすくめた。
ギリシアの彫刻を思わせる、削り取ったような線に縁取られた、体。滑らかな皮膚と、その皮膚が描く、なだらかな流線。ゲルマンやアングロ・サクソンに比べれば、幾分小柄で、いかにもラテン系らしい、しなやかな骨の形と筋肉のうねり。
額から後頭部へ、そこからまっすぐに背骨を突き抜ける衝撃が、逢った瞬間にアンソニーを襲った。信じられないほどそれは、欲情に直結した感覚だった。
剥き出しの、熱っぽい皮膚を、血の出るほどこすり合わせてみたい、そんな、欲望。それは瞬時に、デイヴに伝わった。
体中で、おれと寝てみたいって、あんた言ってるみたいだったよ。デイヴがそう言った。否定できなかった、嘘ではなかったから。
やや切れ長の、潤んだような熱っぽい視線。ジャングルにひそむ獣のように、息を潜めて、デイヴはアンソニーの欲情を、ためらいもせずに挑発する。
仔猫に思わず微笑みかけるような、ジョンに対する穏やかさとはまるで正反対な、きりきりと体中を締めつけられるようにデイヴが注ぎ込む激しさの中に、アンソニーはあっと言う間に巻き込まれていた。
デイヴの指先と舌先に陥落しない男や女が、この世にいるはずがないと、自己嫌悪をごまかすために、アンソニーは信じてみる。
デイヴの指先が囁く。アンソニーの躯が、言葉を置き去りにしてそれに応える。驚くほど、素速く、素直に。
デイヴの掌が、アンソニーの髪を撫で始めた。
おまえといると、気持ち良くなりすぎて、恐いんだ──デイヴは、何のことだかわからないとでも言いたげに、薄く笑いながら、アンソニーを組み伏せた。
いつもそうだ。デイヴは、軽々とアンソニーを扱う。お気に入りのシャツでも着るように、アンソニーを自分に融合させてしまう。
言葉の底にある意識の、通じないもどかしさを、膚に語らせて補わせ、ふたりの間にはますます、音を持った言葉が不必要になる。
けれど、アンソニーは、いつも不安で、息苦しさを感じている。語り合う言葉があるのに、デイヴはそれを聴こうとしない。アンソニーの唇を塞ぎ、躯で語ることを、半ば強制する。アンソニーが、躯で語るその言語に、慣れてないというのに。けれどその強制は、抵抗するには、あまりにも強大過ぎた。
いくら人前で裸になろうと、気にしたこともなかったのに、デイヴに下目に見下ろされる時、本当に貝にでもなってしまいたいほど、アンソニーは、いつも自分の躯を恥じた。
みっともない自分。惨めな自分。出来損ないの自分。中途半端な自分。デイヴの視界の中で、みるみる委縮して小さくなってゆく、自分。
けれどどこかで、その心地良さに酔う、瞬間。
快楽だけに覆われて、その中で窒息することが究極の、ふたりの空間。逃れたいと思う端から、もっと高みに昇りたいと思う。
ヤバい薬みたいだ──。
ソファに背をもたせかけ、顎を反らして目を閉じて、開いた両足の間の、こんなことには馴れきっている愛人の頭を、アンソニーはゆっくりと愛撫する。逃げるべきだと囁く自分と、堕ちたっていいんだと呟く自分と、そのせめぎ合いの真ん中で、途方に暮れている自分とを、その指先で、表現しながら。
デイヴ、と呟くと、顔を上げてアンソニーの耳に唇を移して、トニー、と囁きが返ってくる。
背骨がしびれて、体中の力が抜けるような、甘い囁き。誰も今まで、トニーという愛称を、そんな風に呼ばなかった。自分が、これから甘いケーキにでもなる、溶けたマシュマロのような、そんな気にさせる、囁き方。デイヴの、いつもの。
そうと頼んだわけでもないのに、ふたりの時には、特にこんな時には、デイヴはアンソニーをトニーと呼んだ。
トニー。懐かしい響き。子どもの頃は、みんなアンソニーをそう呼んだ。今、その愛称は、魔法の呪文のように、アンソニーを無抵抗にする。
デイヴはもしかすると、こんなことを、別にアンソニーとだけしているわけではないのかもしれない。他の誰かの耳元でも、別の呪文を唱えて、こんな時間を積み重ねているのかもしれない。アンソニーにとっては、自尊心の一部と引き換えになるほどのこんなことも、デイヴには、喉の渇きを癒す水くらいに、日常茶飯事なのかもしれない。
多分、そうなのだろう、とアンソニーは思う。
自分の欲望にだけ、限りなく忠実なデイヴが、愛してるとは決して言わないのを、アンソニーはむしろ、尊敬を込めて感謝すら感じている。陳腐な台詞でごまかせる相手だと思われるのが、身震いするほどいやだったので。
すべてに趣味のいいデイヴが、自分を遊びにせよ選んだのだと思うと、なぜと自分に問いながら、心のどこかでそれを誇らしくも思っている。
いるかもしれない、デイヴの他の相手に、もちろん嫉妬は感じるけれど、一方で、もしデイヴがアンソニーだけを守っているなら、それは完全にアンソニーを困惑させるだろうとも思う。
だって、オレは、デイヴに惚れてるわけじゃない。寝たいとは思う。デイヴと寝るのは楽しい。でも──。
世間の思惑も、社会の規範も、軽々と、そして奇妙に美しいやり方で超越している──ように、アンソニーには見える──、この快楽至上主義の同性愛者は、愛してると囁く対象ではなく、むしろアンソニーが、そうありたいと願う、生きた偶像に近かった。理想の形が、人間の姿で、アンソニーを愛撫している。
同化願望が、こんな形で満たされる──もちろん、錯覚に過ぎない──ことを、アンソニーは想像すらしなかったし、デイヴがその両腕を、アンソニーに向かって開くことに、もちろん一片の期待もなかった。
恋はいつも、アンソニーにとっては、受け入れられるより拒絶されるはずのもので、ことに相手が女でなければ、想う相手が自分を受け入れてくれることは、奇跡に近かった。
ただ、起こってしまった、こと。デイヴとアンソニー。
躯が語る言葉が、ひどく正直なことを、もちろんアンソニーは知っている。デイヴはどこまで、アンソニーの思惑に気付いているのだろう。それとも本当に、躯を重ねて得る快感以外には、まるで頓着しないのだろうか。
デイヴの背中に、両腕を回す。動くたびに浮き沈む、背骨の線に、言葉の代わりの想いを、指先から注ぎ込む。
いつか、伝わるのだろうか。躯が語る言葉では語りきれない、アンソニーの思考が、皮膚から注ぎ込まれて、いつかデイヴの奥底に届くのだろうか。そうしたら、心まで、デイヴは受け止めてくれるのだろうか。そうしたらアンソニーは、生身のデイヴを、愛せるのだろうか。
同じ行為と、違う思惑。重ならない目的と、一致した行動。
アンソニーが、別のことを考えているのに気付いたのか、引きずり込むように、デイヴがまた囁く。トニー。トニー。トニー。
思考のない真っ白な空間。デイヴはそこに、アンソニーを連れてゆく。肯定も否定もなく、ただある自分を、直視できる、空間。向き合うふたつの躯。ふたつの違う自己が、融合してけじめもなくなる、瞬間。
空間の皓さは、アンソニーを怯えさせる。自己喪失の、巨大な恐怖。デイヴと同化を望みながら、けれどデイヴの一部になってしまいたくはなかった。融合しながらも自己を保つには、アンソニーはまだ不安定すぎるから。
アンソニーを飲み込みにかかる、デイヴの意識。
アンソニーは、唇を咬んだ。意識が逃げるのを、食い止めるために。
結局は、確かなものは何もない。わからなければ、試してみるしかない。躯を繋げることが、必要なのかどうか、アンソニーにはまだわからない。人を想うことが、こんな形の同化を通してしか表現できないのだと、結論づけるのは、早急すぎる、と思う。
デイヴの指が、乱暴に髪に絡みつく。痛みがまた、別の波を運んでくる。
急に、アンソニーは、笑い出したくなった。
こんなにも親密に、何もかもを融け合わせた時間を共有している自分たちの間の、限りない隔たりが、ひどく滑稽に感じられた、ので。
この、広大な隔たりを埋める過程を、人は愛と呼ぶのかもしれない。
動きを止めた、汗ばんだ愛人の背中を、アンソニーは優しく抱いた。心を、込めて。
あからさま過ぎる日差しが、相変わらず頬を刺している。その、鋭い白さから逃れるために、アンソニーは瞳を閉じた。
訪れた甘い柔らかい闇の色は、デイヴの、髪と瞳の色に似ていた。
自分の掌のように、愛しくなりつつある、人でなしかもしれない男の肩に、唇を滑らせながら、アンソニーは、溺れてもいい、とふと思った。