Red Water
積もって凍った雪のせいで、タイヤがつるつると滑る。細い道を慎重に曲がり、歩くよりもゆっくりと進む車の先に、やっと目当ての墓石が見えた。少しでもコントロールを失うと、突っ込む先はすべて、どこかの誰かが埋められた後の墓石だ。色や形に、それぞれ差異があっても、こうやって墓地に並べば、どれがどれと、目を凝らしでもしない限り大した違いは見えない。
自分以外の人影は見当たらない。Peteは車から、携えて来たコーヒーの紙コップを取って、外へ出た。
整理しやすいように、適当に区切られた墓地は、まるで小さな町のようだ。車を止めたのは大通り、墓地が整然と並んでいるのは小さな通り、足跡のまだないその小さな通りを少し進むんで、踏んだ雪のぎゅっと音の立てるのに、Peteはなぜか先へ進むのを、一瞬ためらった。
手袋をしない指先が、コーヒーのぬくもりに助けられているとは言え、すぐに凍え始める。ポケットから出したもう一方の手にカップを持ち替えて、Peteは自分を励ましながらもう数歩先へ進んだ。
Peteの膝の高さの、半分くらいしかない墓石は、周囲の同じ大きさの墓石と同様、家族が自分たちにはわかるようにと違いを際立たせようという空しい努力の結果、腐った死体がそうなるように、悲しい無個性の中に沈んでいる。
刻まれた名字と、父親の名でやっとそれと分かるその墓石の前で、Peteはしばらくの間無言でいた。
いずれそこへ入る母親のために、父親と並んだその部分は、これから刻まれる名前を待って、まだつるりとしたままだ。
名字と、両親の名を一緒に刻んだ後に、それでもわずかばかり空白のまま残るだろう石の下の部分へ視線を滑らせて、Peteは自分の名はそこへ入り切るだろうかと思う。
掌の中のコーヒーが、もう冷め始めている。
この下へ、先に逝った父親と一緒に埋められるだろう母親は、もうずっと病院で寝たきりだ。Peteが話しかけても、近頃は反応すらないこともある。
その時が近づきつつある。Peteは、それが心底恐ろしい。5人の姉がいても、母親を失えば、Peteはほんとうにひとりぼっちになってしまうのだ。
「やあ、父さん。」
やっと、絞り出すように声を掛けた。
「凍ってしまうかな。」
真っ白い息が、顔の周りを覆う。今日はきちんと後ろに束ねている長い黒髪が、珍しく視界に入らない。
Peteは墓石の前に、ゆっくりと膝を折った。
台座の部分の芝生──すっかり枯れて、茶色くなっている──が顔を覗かせるまで、素手で積もっている雪をどけ、そこへ、持って来たコーヒーを倒れないように置く。
「みんな元気だ。」
決してうそにはならない言い方で、詳しいことは何も含まず、もはや天国の住人である父親に何を報告したところで、何がどうと言うこともない。報告することがないというのがほんとうのところだ。
両手を上着のポケットに突っ込んで、Peteは広い肩を寒さに縮めた。
今日はバレンタインデーだ。恋人たちや夫婦や、大事な人たちのいる誰もが、互いを大事に思い合っていることを盛大に祝う日だ。たとえ一方的な想いにせよ、それをあらわすことを大っぴらに許される日だ。
あなたのことをこんな風に思っていると、プレゼントやカードで精一杯にあらわす。愛しているという言葉と一緒に、今日1日は、大事な誰かのことだけを考えていても、誰もそれを不謹慎とは言わない。
今日は、父親の命日だった。
周囲の空気まで甘ったるくなるようなこんな日を選んで、わざわざ父親が逝ってしまったことを、忌々しく思ったことがある。大事な誰かと過ごすべき日に、こうやって墓地へ足を運ばなければならない──長男として、ひとり息子としての、当然の義務──ことの鬱陶しさ、ただただ甘やかな1日に、まるで暗い影を落とすような、この湿っぽい墓参の習慣を、けれど今では、これはもしかしてPete自身のためなのかもしれないと、思うようになっていた。
バレインタインを、恋人と過ごさない絶好の口実、父親の命日と言えば、ああそうかと人たちは納得してくれる。恋人がいない、大事な誰かがいない、そのことへ触れずに、ただバレンタインを祝えないと、そう言えばそれですむ。
家族を皆置いて、先にひとり逝ってしまった父親の孤独と、生きて家族のいる──ふん、と鼻で笑った──Peteの孤独と、どちらがどれだけ深いのだろうかと、棺の中の父親に、訊けるものなら訊いてみたいとPeteは思う。
誰かが、自分のことを考えていてくれるのだと、はっきりと実感できる日。今日と言う日に、Peteは父親の墓前に、ひとりでいる。
他の連中、JoshやKennyやJohnnyは、今頃家族と一緒にいるだろうか。子どもをどこかに預けて、妻や恋人と、少しばかり特別な場所へ、ふたりきりで出掛けるのかもしれない。愛し合っていることを確かめ合う、誰も彼もが浮かれるこの日に、Peteはひとりきり、死んだ父親を見下ろしている。
Peteは、この夫婦に、遅く生まれた子だった。娘を5人持った後で、それでもどうしても息子が欲しいと、そうと誰かに強いられたわけではなかったけれど、夫婦は少しばかりに必死に、完全に手遅れになる前に、息子をもうひとり欲しがった。
50年連れ添って、家族を大事にし、醜い夫婦喧嘩がなかったとは言わないけれど、穏やかに愛し合う、いい夫婦だったと、ひとり息子のPeteは思う。
やっと生まれたPeteに、溺れるほどの愛情を注ぎ、父親と同じ名を与えられたPeteを、まるで若返った恋人のように母親は扱い、父親はPeteの肩に、念願のひとり息子──自分の雛形──という無言のプレッシャーを乗せ続けた。
ふたりは真っ当に愛し合い、けれど自分たちの子どもを無視することは決してせず、いつだって家族が何より大事で、この世でまず守らなければならないのは家族であると、ふたりは自分の子どもたちにきちんと叩き込んだ。
姉たちは、概ねそれにきちんと倣った。うちのひとりは、両親には決して打ち明けないけれど、同性愛者の自覚を持って、表向きは友人と称する恋人の女性と、普通の夫婦と変わらない関係を築いている。
Peteだけが、ひとりきりだ。周囲の友人たちが親になってゆくのを横目に見て、近頃ではそれに素直に嫉妬すらする。自分そっくりの子どもを抱く、愛する誰か。そこへ帰り、そこで寝て、1日の半分を一緒に過ごし、恐らく死ぬ時を分かち合うのだろう、大事な誰か。
Peteには誰もいない。
バレンタインに気に掛かる誰もいない。誰かに思われていると実感できるこの日は、裏を返せば、自分がそう思える誰かがいるかと、自分の内を覗ける日だ。
誰かのために、足元が浮くような気分を味わう。視界に姿が入るたびに、突然世界が明るくなる。考えるだけで、胸の中があたたかくなる。死を考えるよりも、その人と一緒に過ごせる有意義な時間の方を大事だと考えるようになる。酒よりも抗欝剤よりも自分の皮膚を切り裂くよりも、確実に自分の心を落ち着かせてくれる、誰かを大事だと思う、想い。
寒々とした、冬の真ん中の墓地よりも、Peteの心は荒涼として、色のない灰色に塗り込められて、春の来る気配などどこにもない。
父親は、皆に看取られて逝った。ベッドの周りに皆が集まり、母親がそのしわばんで骨だけになった手を握り、父親はもうとうに意識はなかったけれど、それでも誰かがそばで声を掛ければ、きっと聞こえているに違いないと、そう思えるような、最期まで穏やかな表情だった。
コーヒーが好きだった父親が最期に飲んだコーヒーは、Peteが見舞いにと持って行ったものだ。
父親の体を気遣って、いちばん小さなサイズにした紙コップは、Peteの大きな掌の中にすっぽりと隠れ、
「そんなもの、わざわざ持って来なくてもいいのに。」
病院の、色がついただけのような薄いコーヒーに辟易していた父親は、口ではそう言いながらうれしそうにPeteの手からカップを受け取って、たった10秒でそれを飲み干した。
もっと大きいサイズにすればよかったと、Peteは今も後悔している。
生きている人間が、死んでゆく人間にできることなど、たかが知れている。死んでゆく人間は、その手に何も持って逝けはしない。ただ身ひとつで、ひとりきり旅立つしかないのだ。
最期を見守ろうとするのは、最期まで何かしようとするのは、死んだ後も同じ事を思い続けるのは、生きている人間のエゴだ。そんなエゴを剥き出しにできるのも、生きているからこそだ。
「もう行くよ。」
墓石に向かって、Peteは言った。思いがけず、寒さのせいではなく、声が震えていた。
また地面に向かってしゃがみ、置いたコーヒーのカップを取り上げて、蓋を取る。思った通り、何も入れないコーヒーの表面には薄く氷が張り始め、それをカップを揺すって壊すと、Peteは、中身を少しずつ地面に振りかけた。
雪が茶色に染まる。凍った地面になかなかコーヒーは染み込まず、積もった雪の下へ流れ込んで、下から雪を崩してゆく。
雪のはかなさと、死んだ時の父親の体の頼りなさが、Peteの目の奥で重なった。
空になったカップを片手で握りつぶし、車の傍にあったごみ箱の中へ放り込んだ。
自分が歩いて来た足跡以外見当たらない。ここへ来た自分の車がつけた跡を同じようにたどって、墓地の外へ出る。
車の中へ入る前に、Peteはもう一度父親の墓を振り返る。
母親がここへ埋められれば、父親はもうひとりではなくなる。その時は、そう遠くはない。
死んでさえも待つ人のある父親に、妬ましさを感じて、喉の奥に苦味が広がった。
その苦味を消すために、どこかでコーヒーを買おうと思う。父親がそう好んだように、砂糖もクリームも入れず、自分の髪の色と同じほど濃いコーヒーの熱さを恋しがる振りをして、Peteは車の中に入って、素早くドアを閉めた。