秘めごと
「携帯とかコンピューターとか、キーボードは元々好きじゃないんだ。」ちょっとすねたような声が、キッチンから飛んで来る。
Rashadはそちらには振り向きもせず、小馬鹿にしたような相槌を返して、目の前のモニタに視線を据えたままだ。
水を使う音、戸棚を開ける音、ガラスの触れ合う音、そして、静かな足さばきの足音、あまり広くはないアパートメントに、ひとがひとり増えるだけで随分と気配が変わるものだと、思いながら、気にしてない振りで、しっかりと聞き耳を立てている。
それなりに趣味の良い──と自分では思っている──家具で適度に埋められた部屋は、けれど主があまりここで時間を過ごすことに熱心でないことを示すように、どこか空気が沈んでいて殺風景だ。
仕方がないことだ。試合があれば、長期どこかへトレーニングに出掛けることは珍しくはなかったし、ひとりで暮らす部屋は、ただ寝るだけの場所になる。
懐ろに入るファイトマネーが増えても、使う先をすぐには思いつけず、トレーニングに費やす金を少し増やした後で、車はまだ買い換える必要がないしと、平凡に、自分のいる部屋を飾るということに落ち着いた。
それでも、値段の心配をあまりせずに、好きな音楽を聞く機材を揃えられることは幸せだと、モニタからふと目を上げて、部屋の隅にきちんと据えられたステレオをちらりと眺めた。
こぽこぽと柔らかな音が聞こえ始めて、コーヒーの香りが、部屋いっぱいに広がる。自分でいれないコーヒーというのは、よけいに香り高く感じるものだ。
マグカップがカウンターで音を立てる。決して騒がしくはないその気配を、Rashadはとても好ましいと思う。
「今時携帯でメールも使わないなんて、よくDanaが許してるな。」
「めんどくさいんだ。言われても笑って知らん振りしてるよ。オレは試合をするために契約してるんであって、別にDanaとメール友達になりたいわけじゃない。」
「携帯もロクに電源入れないくせに。」
「うるさいなあ、いいじゃないか。」
キッチンとリビングで、背中を向け合ったまま軽口を叩き合う。コーヒーが注がれる音がして、木の床を、スニーカーのゴム底が滑って、こちらへやって来る。
肩越しにわずかに振り返ると、見ているだけで心が洗われるような美しい足運びで、ほつれたところなどどこにも見えないジーンズの裾が、ゆっくりと近づいて来る。見た目よりもずっと静かな足音だ。
「で、今どの辺?」
肩越しに差し出されたコーヒーを両手で受け取って、Rashadは自分の真上に向かって上向いた。
唇の片端を吊り上げて、Georgesが笑っている。
「ダウンロード中。これからインストールして、音を確かめて、使ってみて終わりだな。」
「ダウンロード、はは、全部任せた。ちゃんと使い方も教えてくれよ。」
肩を叩かれる。試合でするような、そんな叩き方ではもちろんないけれど、それでも強さはしっかりと感じる手応えだった。
今はトレーニング中ではないし、ここは試合のある会場でもない。ふたりがただ純粋に、ただの友人でいられる場所だ。友人という言葉には少しばかり違和感があるけれど、それ以外により適切な言葉を思い浮かべることができずに、Rashadは自分の傍に立っているGeorgesを見上げて、自分の肩に置かれたままのその手に、頬ずりするように顔を傾けた。
Rashadは、車で20分も走ればカナダとの国境へたどり着く、そんな辺りへ住んでいる。それでも、Georgesの住むモントリオールには、決して近いとは言えない。車で7、8時間掛けて互いを訪れ合うのが、決して億劫なわけではなくて、忙しいふたりには、そんな時間は滅多と許されない。
試合が決まれば、すぐにトレーニングが始まる。食事も睡眠も何もかもがきっちりと管理される時間だ。よそ見をすることは許されず、そもそもそんな気もないふたりは、互いのトレーニングに、練習相手として互いを呼び合うことで、試合に向けて集中しながら、ほんのわずかだけ、選手ではなく個人としての時間を持とうと、誰にも知らせずにひっそりと必死になっている。
とは言え、試合前は試合だけが優先されるから、ただ一緒に時間を過ごせる──ジムやホテルで、食事の時間と休憩時間を──ことに満足しなければならない。
練習中に、ろくでもないことを考えるわけには行かないから、一緒に入られるとは言え、ある意味これはふたりには拷問に近かった。
精神鍛錬だと思えばいいよ。Georgesが笑って言う。肩に触れ、腕を伸ばし、胸や背中を重ねて、互いの汗を匂いにむせながら抱き合う。けれどそれは抱擁のためではなくて、練習のためだ。トレーナーの声と同時に体を離し、一瞬だけ、互いにわかる目色で視線を交わし、けれどそれだけだ。
そこで踏みとどまるのに、試合に集中するよりももっと強靭な精神力が要求される。確かに、精神鍛錬だ。
Georges ほどはストイックに徹することのできないRashadは、さり気なくGeorgesに触れ、触れたままの時間を長くして、誰の前でも構わずに、 GeorgesをMy Boyと呼ぶ。時にはBabyと言葉をすり替えて、それに別に深い意味はないのだという振りが、すっかりうまくなってしまった。
周りは、Rashadは、親しくなれば親しみを隠さない男なのだと思っているし、Georgesもまた、誰にも分け隔てなく気さくな男で、対戦相手や練習仲間には、まるで子犬のようにじゃれつく──それが、親しみの表現だ──くせがあったから、ふたりが練習以外の場で親しげにしていたところで、それはただそうだというだけだと誰もが思うだけだ。
親しさというその意味が、ふたりの間では少し違う意味に使われ始めてから、結局は隠せば現れてしまうから、無駄に主張する必要もない代わりに、むやみに隠そうとする必要もないと、そう黙って結論づけて、Georgesは、たまにBabyと呼ばれて、リングの外で腰の辺りに触れられることを避けもしないし、RashadはGeorgesと、一度も公式に対戦したことがない──階級が違う──にも関わらずごくごく親しい間柄にある、ということを隠さない。
親しいのは同じジムにいたことがあるからだとか、My BoyやBabyという呼び方は、Georgesの、どこか童顔めいた容貌を茶化したものだとか、わざわざ説明しなくても、周りは勝手に誤解して理解してくれる。
それをただ笑って流して、ふたりは、そっとふたりきりでいる。
Rashadは黙ってキーボードを叩き、ダウンロードの終わったアプリケーションのインストールを始めた。
このラップトップは、Georgesがわざわざモントリオールから持って来たものだ。
携帯は、社長のDanaとトレーナーに言われて無理矢理持たされているけれど、自分のコンピューターは持っていないと言うのに呆れて、Rashadが半ば無理矢理買わせたのだ。
インターネットに繋げば、少なくとも時間を気にせずに話すことができると口説いて、渋るGeorgesがやっとその気になり、
「でもどうしていいかわからない。」
と言うので、会うついでにセットアップもしてやると、そう言ったのが先月のことだ。
何だか、会う口実にコンピューターを買わせた形になってしまい、インターネットには何とか繋げてもらったと言うGeorgesの機械音痴っぷりに驚きながら、格闘技に関してなら世界クラスのこの男が、その他のことにはひどく疎いのが、そのことをひとつひとつ知ってゆくのが、実のところ楽しくもある。
別に大層なことをする必要はない。メッセンジャーでも入れて、使い方を教えて、メールクライアントでも設定すれば、少なくともネットのあるところでなら互いの動向を知ることが簡単になる。
携帯嫌いのGeorgesは、ほんとうに完全に自由な時間でない限り携帯の電源は切りっ放しだ。携帯のメールも使わない。連絡が欲しければ、練習中のジムに電話をするのがいちばん早い。
Georgesは、それでいいじゃないかと真顔で言うし、雑音で邪魔をされるのが嫌いなRashadも、せめて自分とくらいは連絡を取れるようにはしておいてくれとは言えず、その真ん中辺りで、普通のメールのやり取りくらいで手を打つことにした。
インストールが無事終わり、アプリケーションを立ち上げ、きちんと動くことを確かめてから、やっとGeorgesに振り返る。
手取り足取りに近く、モニタとキーボードを指差しながら、ここはこうして、あれはああでと、丁寧に教えてゆく。
Georgesの顔がモニタに近づき、肩の位置が重なる。顔が並び、時折触れ合う頬に、ふたりは一緒に声を立てて笑った。
「これならメールのIDも取れるし、面倒くさくなくていいだろう。」
「何だかよくわからないけど、ありがとう。」
またRashadの肩を叩き、Georgesが顔いっぱいで微笑んだ。
腕を伸ばし、Rashadが空にしたマグを取り上げ、
「コーヒー、まだあるよ。」
そのままキッチンへ行こうとするから、立ち上がって、腰に両腕を回した。
不意に近づいた唇に驚いて、けれど逃げはせずに、Georgesが背中をわずかに反らす。マグを持った両手をだらりと下げて、きれいに整えられたRashadのひげがあごや口元をこするのに、少しだけ唇を開いて応える。
唇は離れても、Rashadの腕の輪はゆるまず、その中で体を返すこともせずに、Georgesが、少し困ったように微笑んだ。
「コーヒーに、砂糖は入れない主義なんだ。」
Rashadの、コーヒーとよく似た膚の色合いと、Sugarというリングでの愛称を引っ掛けて、穏やかなフランス語訛りがそう言う。
それを、にやりと、試合の前後にわざと見せる不敵な笑いで受け取って、Rashadはいっそう腕に力を込めた。
ジーンズには入れないTシャツの裾から、素早く両手を滑り込ませる。硬い筋肉を撫で上げ、肩甲骨を掌で包む形に、一緒にそのシャツをまくり上げた。
「ミルクなら入れてもいい。」
Georgesの白い膚のことを、そんな風に言ってみた。
かちりと、背中で音がした。Georgesが、両手にそれぞれ持っていたマグを、片手に持ち替えたらしい。片腕が、応えるように背中に回って来る。
一緒にいられるのは、ほんの3日間だ。トレーニングを少しだけさぼることを、ふたりが許し合える最大限だった。
これ以上時間を無駄にしたくなくて、RashadはGeorgesのジーンズに手を掛けた。
マグが、とか、コーヒーが、とか、よく聞き取れない声で言うそれを、さっさと、もっと深い口づけでふさぐ。
後ろで、コンピューターのモニタがスクリーンセーバーに変わったのが、Georgesの灰色がかった薄青い目に映ったのが見えた。