似た者同士
Serraに負けたばかりの悄然とした背中の表情を、ふたり分後ろから見ていた。何も見えないように足早に退場しながら、その頭の中に渦巻いていただろう感情を推し量るのはたやすい。
たった5カ月の栄光は、天国から地獄だ。その有様の悲惨さに、掛ける言葉もなく、誰もが彼を遠巻きにしていた。
Rashadも、その中のひとりだった。
あの背を抱いて慰められなかったことを、今も後悔している。
脳が揺れたのがわかった。意識と体が分離する。目の前のすべては鮮やかだったけれど、体の感覚がない。ずるりと金網を滑る背中、足に力が入らない。もう一度振り上げられる拳を見た後で、視界が真っ暗になった。
相手を挑発するための虚勢も、無礼な仕草も、素で嫌いではない。相手が見る見るうちに表情を変え、怒りに肩をいからせる様を見るのが楽しい。
そこで生まれた隙の中に、拳を突っ込んでゆく。
瞬間的な怒りは、爆発的な力にもなりうるけれど、それをコントロールして使いこなせなければ、ただの持ち腐れだ。あるいは、その怒りによって狭まった視界のせいで、逆に死角が増える。力が増大すると同時に、弱点もまたあらわになる。
そんな自分の闘い方を、大学で専攻した心理学のせいにして、Rashadは本の中に書いてあったままのことが、まさしくその通りに起こる人間の不思議さを、講義でよりもリングの中の試合でより深く学んだ。
今は、自分の方が、その手の内にはまってしまった。負けるのだと思った。負けたのだと思う。無敗の記録はここでストップだ。悔しさも情けなさも同時に味わって、けれど、肩の力はすっかり抜けていた。
負け惜しみに見えるだろう笑顔を浮かべて、それは確かに正しいのだと思いながら、実のところ、胸の中に吹く爽やかな風を、誰にもそうとは知らせずに、振り向く後ろに見送る。
予感があった。今まで通りの試合運びにはならないだろうと、予感があった。
挑発には乗らない。隙を見つけるまで辛抱強く引き続けるRashadよりさらに、相手は忍耐強いだろうと思えた。感情は完璧にコントロールされ、指先まで隅々、思った通りに動く体が、Octagonの中で飛び跳ねる。こうだと思い決めた通りに試合を進める強靭な精神性、覚えがあると、逃げながら、そう思った。
笑わない、愛想を振りまくでもなく、ひょろりとそこに立って、あまり筋肉があらわでない体だけを見れば、侮るなという方が無理だ。威圧感もなく、殺気もない。人込みにまぎれれば、顔さえろくに覚えてはいないだろう、そんな印象だった。
ようやく正面から見つめ合って、闘う構えを取ったその前で、Rashadはただ両腕をぶらりと体の横に下げ、自分より背の高い彼が、構えのせいで目下にいるのを、下目に見下ろした。
普通なら、それだけでぎらりと光る怒りが、彼にはなく、Rashadの挑発の態度に気づいてすらいないように、彼はただ、自分の闘いの中にすでに没頭しているようだった。
上滑りした自分の挑発のポーズに、Rashadはすでにそこで自信を崩しかけていた。けれど、今ではチャンピオンと呼ばれる自分が、こんなところで狼狽をあらわにするなど許されなかったから、その威厳だけは全身に保って、皮膚の下のぴりぴりとした震えを、必死で押し隠した。
彼が構えを解く。拳の形だった両手がRashadに伸び、姿勢をさらに低くして、丁寧な握手に、Rashadの片手が包まれる。
敵意も悪意もない。ただ純粋な、これから拳を交わす相手に対する、どうぞよろしくという、敬意のこもった挨拶だった。
殴り合うのに、憎み合う必要はないのだ。けれどRashadは、相手に憎まれる必要があった。憎んでくれれば、攻撃する理由になる。相手を殴り倒すのに、躊躇が減る。
嫌なヤツだというポーズは、そのためだ。
嫌われることなど怖くはない。強さだけがすべてのこの世界では、嫌われることは勲章ですらある。
それなのに、彼は、Rashadににっこりと微笑みかけることはしなかったけれど、ごく当然のように真っ直ぐな敬意を示して、憎しみなどかけらも感じさせなかった。
この感覚には覚えがある。
彼の仕草が、思い出させる。
手を抜くつもりは毛頭なかったけれど、負けてもいいと思った。思ったその時に、Rashadはすでに負けていた。この男は、無敗の自分を叩きのめすのに相応しいと、それがRashadの、彼に対する敬意のあらわれだった。
完全に意識が戻って、痛みをこらえながら、素直に苦笑がこぼれた。
今夜負けてしまったことで、肩から振り落とせたよけいな重荷を、惜しいとは一瞬も思わずに、Rashadは軽くなった体で跳ねるように起き上がる。
もちろん、負けてよかったなどと知らせるわけには行かないから、態度だけはしおらしく、悄然さを混ぜて、ああ悔しいさと、そう口にする。それは完全にうそではなかったから、心は痛まない。
同じように、あの日チャンピオンの座から引きずり下ろされたあの男に、電話をしようと思う。
あの日Rashadが掛けることのできなかった言葉を、あの男は穏やかによこしてくれるだろう。気をつけないとHの音の抜ける仏語訛りで、時折きちんとした言葉と表現を選び損ねながら、次に勝てばいいさ、負けることも必要なんだと、Rashadが今思うそのままを口にするだろう。
まったく同じような立場だ。情けない負け方もそっくりだ。だからふたりは、前よりもいっそう近しくなって、とは言えその後タイトルを取り戻した彼は、今はれっきとしたチャンピオンだ。そこへ居続けるつらさをその肩に背負って、彼はもう、負け犬ではない。
負け犬になったRashadは、それを、思ったよりもずっと素直に受け入れている。そんな自分を、心のどこかで誇らしく思った。
それは、あの男から学んだことだ。
両手でする握手の仕草、相手よりも深く頭を下げることをためらわない、あれがあの男の強さだ。
Rashadを負かしたMachidaは、次にRashadaが挑戦者として這い上がって来るまで、同じところへとどまれるだろうか。そうあって欲しい気もしたいし、そんなことはないだろうと思ったのは、やはり悔し紛れだったのか。
敗者のインタビューを受けるために身支度を整える。伸ばした体が痛むのに黙って耐えながら、あの男のことを考えるたびに胸の内のあたたかくなるその理由を理解するのに、心理学のテキストが役に立たないことを思い出していた。