Anybody Listening?
スパーリングの練習に付き合ってくれと、声は穏やかだったけれど、どこか威圧的に聞こえることを意識して、それは頼みではなく半ば命令のようだった。打てば響くようないつもの調子ではなく、やや弱々しい声が戸惑ったように途切れ、ああ、うん、いいよ行くよと、来るだろう?と念を押した後でやっと応える。
その時考えられる、その分野最高の人物と一緒に練習するというのは、そもそもGSPことGeorges St-Pierre本人が始めたことだ。だから、Rashadがそれに倣ってGSPに声を掛けたことに何の不思議もなかったし、いつものGSPならそれを即悟って、うれしいな光栄だと、そう言うべきだった。
その言葉がないことが、Rashadに、いやな確信を抱かせる。周囲が思っている以上に、 Matt Serraに負けたことが、あっさりとWelterの王者の座を奪われたことが、堪えているのだと、遠慮もなくそのことを周りに吐き出すはずもないGSP の性格を知っているから、Rashadは少しばかり心配していた。
誰であろうと全員がライバルの世界にいて、利害に関係のない友情を育てることはとても難しかったし、下手に弱音を吐けば、どこでどう回ってねじ曲げられてしまうかわからない、ここはとても狭い世界だったから、心の中にどんな嵐が吹き荒れていようと、表面だけは波も立たない穏やかさをたたえて、厳しい練習に励んで自分の身を痛めつけることで心の痛みをごまかす。いつだってひとりきりだ。
Serraに負けた後で、様々な人間たちがGSPに掌を返した。それを、Rashadは間近に見ていた。慰めの言葉を欲しがる男ではないし、言い訳を並べて悔しがることもしない。だからただいつもと同じに、肩を叩いて調子はどうだと訊いて、次の試合の時には、練習相手になってくれよと、それだけを確かめておく。ああ、もちろん、と笑うその表情が、けれどわずかに暗かった。
大丈夫かとは訊かなかった。あの負けを思い出さされることは、ただひたすらに苦痛だろうと知っていたから、それには一切触れず、大きな傷を負ったその痛みを、身内に抱えて癒せるのは、本人でしかないということを、Rashadは態度で示して、言葉は掛けなかった。
まだ無敗でいるRashadも、いずれは同じような痛みにうめくことになる。早いか遅いかだけの違いだ。遠巻きにGSPの、必死に自分を保とうとする姿を眺めて、Rashadは、そんなGSPの態度から、自分のために学べるものを学んでおこうと、ひとり目を細めた。
変わらない様子で練習に現れ、幸いにGSPも次の試合が決まっているから、誰もSerraとの負け試合のことは一言も口に出さない。GSPは、にこやかに微笑んで、差し出される握手に応えて、練習用のリングから下りてきたRashadの背を抱きしめた。
「久しぶり。」
「早く着替えて来い。とっとと始めよう。」
「せっかちだなあ。」
GSPをいっそう稚なく見せるフランス語訛りの英語が、耳に心地良く響く。
大きなジムバッグを抱え直してロッカールームへ向かうGSPの腰を、グローブを着けた手で叩くと、いつもの、顔いっぱいの笑顔が見えた。
さすがに、準備を終えてリングに上がってくると、顔つきが急に変わる。少しストレッチをして体をあたためて、まずはRashadではなく、トレーナーと軽く打ち合って、腕の伸びもステップの軽さも、以前とまったく変わっていないことを、Rashadはリングの外から確かめていた。
少なくとも、体調は万全そうだ。
まるで背中の辺りにスイッチでもあるように、普段の顔から、試合の顔つきに変わる。体から発する空気も、突然変わる。殺気というのではない、あくまで、単なる空気のようなものだ。
リングの外ではまったく普通の、威圧感などかけらもない男だから、リングに入った瞬間に、肩や背中が急に大きく見え始めるのに驚く。動物の威嚇の仕草に似て、けれどそれはこけおどしではなく、正しくこの男の内面があふれ出ている状態なのだと、その変化に慣れるのにしばらく掛かったことを、Rashadは思い出している。
ぴったりとTシャツの張りついている胸や肩辺りを見ると、すでに試合直前の体に近く調整しているようだった。Rashadのためにそうしたのか、それとも、Serraとの負け試合の後で、いっそう激しいトレーニングに励んだ成果なのか、訊かない方がいいのだろうと、その疑問は胸にしまっておくことにした。
ベストの状態のGSPと練習できるなら、理由がどうあれそれはとてもありがたいことだ。
階級の割りに小柄な Rashadが、自分よりも大柄な選手たちに対抗するには、スピードとパンチの強さしかない。引いて逃げて、小刻みに打ち込む。またすぐに引いて逃げる。追ううちに疲れて来た相手の頬に、フックを叩き込む。そんなRashadの戦い方を、つまらないし卑怯だと評している連中が多いのは百も承知で、勝たない限りは手の中に何も残らない世界で、体の大きさで最初から諦めるくらいなら、卑怯者の名でも勝って証明してやればいいと思った。
GSPが目の前に踏み込んで来る。それを避けて、足を後ろに滑らせる。体を反らせてジャブをよけると、間合いを探って、GSPの体が少し後ろへ戻る。
体の厚みと体重以外は、それほど差のないふたりだ。Light Heavry Weightとしては小柄なRashadと、Welterにはやや大柄──とは言え、Middleには少し足らない感じだ──のGSPと、互いの拳から逃げ切るために、動くスピードを少しずつ上げる。
トレーナーが声を上げ、リングのコーナーからふたりに指示を与えて来る。他の誰も、黙ってふたりの打ち合いを見ている。
GSP のタックルに、体を平たく下げて耐え、結局自分の下で潰れてしまったGSPの上に、体重に物を言わせてのし掛かる。背中が重なったと思う一瞬前に、くるりと返った体から腕が伸び、あごの下に肘が入る。避けるために右斜め後ろへ体を反らせた隙に、GSPがまた体を返して逃れてゆく。
まるで、最初からそう打ち合わせてあったようにも見える、恐ろしいほど滑らかな動きだ。
公式には15kgほど違う体重も、GSPのスピードの前にはあまり役には立たない。身長があと5cmほどでも高ければ、また話も違うのだろうけれど。
GSPを、決して圧倒できない自分の体格と技量を、けれどRashadはあまり恥とも思わない。階級が違えば戦い方も変わる。RashadがGSPからこうして学べることがあるように、GSPにもRashadから学べる何かがあるはずだった。
ふたりは、体格以外ほとんど似たところがない。だからこそ、数え上げればきりがない違いを好ましいと思っていたし、争うべきライバルとしてではなく、励まし合える仲間として、互いを大事に思っている。
腹に向かって突っ込み、片足を抱え上げた。リングの中央からコーナーまで、Rashadに押されながら、GSPはそのまま片足でたどり着いてしまう。相変わらずの腰の強さに、うっかり舌を打つ。何とか引き倒せないかと思っているうちに、時間が来た。
体を離す。互いに肩を叩き、微笑みを交わし、今度は別の練習のために、リングを一緒に下りてゆく。そうしながら、Rashadはさり気なくGSPの肩を抱き寄せ、ほとんどきれいに剃り上げている汗に濡れたその頭を、自分の方へ引き寄せた。
「わざわざ来てくれて、助かったぜ。」
故意に、語尾をわざと投げ捨てるように、少し乱暴に言った。
GSPが、マウスピースを外しながら、顔いっぱいに笑って応える。Rashadを見たその目が、けれどどこか淋しそうに見えた。
皆でがやがやと騒がしい食事を終え、GSPも同じホテルに部屋を取っていたから、ごく当然のように、荷物を置いてから自分の部屋へ呼んだ。
シャワーを浴びて着替え、ごく普通のTシャツにジーンズ、体をむやみに冷やさないために羽織ったパーカーもごくありふれたもので、こんな姿のGSPは、どこから見てもせいぜいどこかの大学生だ。
中へ招き入れ、酒を飲まないのは知っているから、ボトル入りの水だけ手渡して、Rashadはベッドの端に腰掛け、GSPはひとつだけ置いてある小さなソファに坐る。正面ではなく、少し斜めになるように向き合って、GSPが照れたように笑った。
「・・・呼んでくれてありがとう。来て良かった。」
椅子の中にゆったりと腰掛けているくせに、体の線がどこか硬い。伸ばした足の爪先が、神経質に床で動いているのを、Rashadは素早く見咎めたけれど、ちらりと視線を流しただけで何も言わない。
「礼を言うのはこっちだ。来てくれて助かる。」
「オレの試合は、まだ先だし。」
GSPの次の試合は、Rashadののひと月先だ。体調によっては、その時にRashadは、GSPのところへ練習相手になりに行くつもりでいた。礼の代わりでもあるし、次にまた自分が頼みやすくなるという、つまりはそういうことだ。
ボトルから水を飲む仕草が、似合わなくせわしない。キャップを元に戻した後で、手持ち無沙汰に、今度はパーカーの裾のひもをいじり始める。Rashadの方はほとんど見ずに、しきりに動いている自分の爪先をじっと見ている。こんなに落ち着きのないこの男を見るのは初めてだ。
別に驚きもせず、Rashadは少しだけ待った。
「膝蹴りに容赦がないのは相変わらずだな。歯が折れるかと思った。」
きちんと寸前で止まった見事な膝蹴りのことを、Rashadはわざと茶化して言う。GSPが冗談をきちんと聞き取れなかったのか、慌てた仕草で顔を上げ、あごを撫でているRashadに向かって、驚いたように目を見開く。
「気をつけたつもりだったのに、当たったなら悪かった。そんなつもりじゃなかったんだ。試合の前の大事な時にケガなんかしたら──」
しどろもどろに、少々不自由に使う英語が、フランス語訛りをきつくして、ぶつぶつと途切れてしまう。慌ててしまって言葉がつかえると、いっそうどもるように似たような音を繰り返し、Rashadはその途中で、やっと大きく笑って見せた。
「冗談だ。ケガしないのも才能のひとつだからな。練習でケガなんてのは最低もいいところだ。」
繰り返し繰り返し、この世界に入った最初から、トレーナーたちにきつく言われていることだ。相手に怪我をさせないこと、自分も怪我をしないこと、勝ち負け以上に、負傷を避けることは大事な才能だ。血を見ない怪我の方が実は恐ろしいけれど、血を見る怪我が練習中に起こるのは、不注意から起こる不名誉だ。
だからこそ、練習相手に誰を選んでいいというものでもない。次の対戦相手と似たようなタイプというのも重要だけれど、怪我をさせないしないという能力が充分かどうか、そちらはもっと必要不可欠だ。
Rashadは、GSPの選手としての才能以上に、その点を信頼していたし、それはきっとGSPも同じだろう。
「で、どうしてた?」
ふと目が合った瞬間に、その時を待っていたように、Rashadが訊いた。途端に、またせわしなく肩が揺れ、カーテンの掛かったまま、外など何も見えない窓の方へ何度か目をやり、あごを引いて上目遣いになってから、GSPは少し無理に作った笑顔で、
「相変わらずトレーニングばっかりだ。他は、別に、特に何も。」
選ぶ言葉に迷った間が、妙に苦しげに息を吐く音になる。
「そうか。」
ほんとうにかと、そう付け加えたいのを、Rashadは我慢する。人の話を聞くのを特に嫌がらないGSPは、けれど案外とおしゃべりでもあるから、これもまた見かけによらず聞き上手のRashadが、自分に向かって耳を傾けているのをわからないはずもない。
辛抱強いのはふたりとも同じだけれど、我慢強いGSPと忍耐強いRashadでは、その質が少し違う。これもまた、あまりあらわではない、ふたりの間の違いのひとつだ。
だからRashadは、先を促さずに、ただ待った。GSPの、椅子の肘掛けに置いた両手が、そのうちその表面を爪の先で引っかき始め、短く刈り込んだ丸い爪が生地に、かすかな音を立てて食い込むのを、Rashadは見えていない振りでじっと見ている。
「カウンセラーに、会ってるんだ。この間の試合のことを、話してる。」
そうか、と言う相槌だけを示して、それと良いとも悪いとも表情には出さずに、Rashadはあごと肩の先だけをちょっと揺らした。
何度か、Rashadと窓の辺りへ、瞳だけを行き来させて、それからついに諦めたように、両腕が滑って、大きく開いた膝の間に収まる。縮まった肩と丸くなった背中のその姿勢のせいで、いきなり体が、2階級下の大きさになったように見えた。
「負けたことを、あれこれ言い訳すべきじゃない。自分が100%じゃなかっただけで、それ自体もそれをわざわざ口にするのもMattに失礼だ。負けたのは全部オレのせいだ。Mattは、そういうオレより強かった、ただそれだけだ。」
Rashad の方を見ずに、わずかに視線をそらしたまま、GSPは吐き出すように言った。いつだって明るい声が、今は沈んで、歯切れもリズムも悪い。言ってはいけないことを、言うべきではないとわかっていることを口にしていると言う罪悪感が、端の落ちた唇の辺りにただよっている。
Rashadは、きちんと話を聞いていることを示すために、背中を伸ばしたまま、体を少し前に傾けた。顔は真っ直ぐにGSPに向け、どんな表情も浮かばないように注意して、GSPと視線が合った時にはそれを逃さずに、きちんと真剣な面持ちを崩さない。
「でも、どうしても言いたくなる時があるんだ。別に誰に言わなくってもいい、自分で、あれはこうだったからああだったから、別にオレがほんとうに弱かったわけじゃないって、自分で言い訳してるんだ。それが、いちばんいやだ。そんな自分が、いちばん許せない。」
いつの間にか、両膝の間で、握りしめた両手が震えている。食い込んだ指先が白くなって、試合の時に相手の腕や足を取った時にも、こんな風に力が入るのかと、Rashadはいつもの癖で、観察したことを頭の隅にメモしていた。
「そういうことも、ちゃんと話したか。」
うん、と形のいい頭を小さく振ってうなずく。
「父さんの病気が見つかったことも、いとこが交通事故で死んだことも、全部話した。試合前にそんなことが起きて、集中できてなかったことも話した。全部言い訳だ、でも、言わずにいられなかった。みっともないから誰にも話せない、でもあの時オレの中は、そんなみっともない言い訳でいっぱいだったんだ。オレは Mattに負けたんじゃない、自分に負けたんだ。タイトル取って浮かれてた。Mattのことも、きっと気づかずに見くびってたんだ。あのHughesを負かしたオレが、もう誰にも負けるわけないって。わかるだろ? オレが負けるのは当然だったんだ。オレは最初から負けてたんだ、リングに入る前から、オレは自分に負けてたんだ。オレは、そういうオレときちんと向き合えなかったんだ。今も、まだ、きちんと向き合えてるかどうか、よくわからない。」
激した声を抑えて、何度も小さく瞬きをする。唇をしきりに舐める舌が見え、噛んだ奥歯や喉の線で、涙をこらえているのがわかる。
少なくとも、一度は誰か──カウンセラーだろう、きっと──に話したことなのか、言葉の選び方にはよどみがない。それを、GSPにとっては良いことだと、Rashadは思う。
「だから、必死にトレーニングしてるんだろう? 考えてる暇なんかないように、一生懸命やってるんだろ?」
GSPは、頬を内側で噛まないために、口の中で舌を動かしていた。ストレスを示す動きだ。
体を動かして、何かに没頭していないと、まだそこへ頭が行く。その考えに、ずっととらわれてしまう。考えないためには、気絶するまで走って動くしかない。闘うための精神を厳しく鍛錬して来たけれど、そのために、些細な心の揺れを無視して、あるいはそれに気づくことすらなく、強固に打ち立てた壁にいつの間にかひびが入るまで気づかない。闘うことだけにあまりに夢中になり過ぎて、そのためだけに自分を仕立て上げて、それ以外のことやそれ以外の自分自身を無視してしまっている。弱い、たまには失敗もするただの人間である自分を、そのまま自分として受け入れることができないのだ。
強いだけの人間は完全ではない。弱点も何もかも、すべてをひっくるめて、人は初めて丸ごとの人になれる。
あの時負けて良かったのだと、Rashadは思った。Serraは、そうあるべくしてGSPを叩きのめしたのだし、Hughesを倒し、タイトルを奪った、いわば頂点にいたGSPに勝ったことで、SerraはWelterのベテランたちの面目を施し、GSPの、おそらく必要以上に満ちていた自信を、根本からへし折った。あの、誰もが目を背けるみっともない負け様は、GSPのために必要なことだったのだと、Rashadは、あの直後に感じたことを、また新たに、今は確信を持って感じている。それをもう、GSP自身も理解しているだろうと思って、だから自分では口にはしない。追い打ちは、今ここでは必要なかった。
「試合の前に、こんなこと聞かせて悪いと思ってる。別に、こんなことわざわざ話すつもりじゃなかったんだ。」
少し落ち着いた声が言った。今では、深く腰掛けていたはずの椅子から、半分以上体を乗り出して、体は相変わらず小さく縮めたまま、けれどやっと、口元が少しだけ、笑いに曲がった。
別に、とRashadは肩をすくめて見せる。
「どうせオレも、そのうち通る道だ。みんなそうだ。負けなきゃわからないこともある。」
まだ無敗のままの、そのままタイトル戦まで行くのだろうと、そう予想されているRashadが言う。GSPが、はっとしたように口元を指先で覆い、また奥歯を噛んだのが見えた。
どうして負けたんだと、おまえには失望したと、そんな聞こえない声ばかりを聞いていたのだろう。表情や仕草、慎重に選んだ語彙、あるいは、自分の前にある距離、そんなもので、人たちが自分から離れてしまったのを感じる。
惨めに負けたことで崩れた、心に厚く張りめぐらせていた壁の瓦礫の山の中で、ひとりぼっちだと思った。みんなは、瓦礫の向こうにいる。自分は瓦礫の下に埋もれたまま、自力で這い出るか、助けを待つか、あるいはどちらとも決められずに、じたばたとそこであがくのか。
Rashad、とGSPが呼んだ。弱々しい、かすれた声だった。迷子の子どもが、自分がひとりだとまだきちんと気づけずに、すぐ傍にいる親が応えてくれるだろうと期待している、けれど置き去りにされたという事実を半ば確信して、そのことを確かめるために呼んだ、そうして、応えてくれることを期待せずにはいられない、そんな悲しい声に、Rashadには聞こえた。
自分の方へ差し伸べられているその見えない手を、Rashadは正確につかんだ。
ほら、と言って自分の隣りを叩く。少し腰の位置をずらして、上掛けのきちんと乱れもないベッドの上を叩いて、こっちに来いと示す。
GSPが、やや戸惑った表情を浮かべ、どうするべきかと迷っている。
ひとりで考えるべきことだと、強いGSPが言い、誰かに頼りたい時だってあるじゃないかと、弱いGSPが言う。そして、今は煩わしいことには一切関わるべきではないRashadに、手を差し伸べられたからと言ってすがっていいものかと、迷っているのがありありとわかる。Rashadは、励ますように、促すように、にやっと笑って見せた。
「来い、ほら。」
もっとはっきりわかるように、大きな身振りで手招いた。
GSPはやっと椅子から立ち上がり、すぐ傍のテーブルの端にぶつかりながら、足を引きずるようにRashadのところへやって来た。Rashadの隣りに坐り、体の触れるその位置で、けれどまだ肩を縮めて、顔を伏せたままで言う。
「・・・友達がいるかって、訊かれたよ。こんなこととか、気にせずに話せる友達がいるかって訊かれた。」
横顔が、苦笑いに歪む。
「答えられなかった。」
肺の中の酸素を、肺ごと吐き出したような、重い重い息と一緒に、GSPがそう言った。
RashadはGSPの肩と腰に腕を巻き、そのまま抱き寄せた。そうして、練習の時にそうするように、体を滑らせて背中から抱きしめる位置に自分を収めて、そこで、そっとGSPの頭を撫でた。
きれいに剃り上げた髪がちくちくと当たり、頬からあごにかけて、やや伸び掛けたひげも触れる。Rashadの腕の中で、GSPがいっそう小さくなる。
幼い頃に、兄弟姉妹を、こうやって抱きしめて慰めたことを、Rashadは思い出す。
言葉が届けばいちばんいい。けれど、かなわない時には、こうして抱きしめるのがいちばんだ。体温が、人の気持ちをあたためる。硬く縮こまったそれをやわらかくして、外側を覆う殻を溶かしてゆく。幼い子だけではなくて、こうして大人になった後も、Rashadは誰にでもこんなことが必要な時があるのだと、口には出さずに我が身で思い知っている。
Rashadに抱きしめられて、少しずつ、GSPの体が傾いて来る。肩を近寄せ、背中を預けて、自分の体に巻かれたRashadの手を取り、そうして、ふっと糸が切れたように、うつむいたGSPの頬に、涙が流れ始めた。
Rashadをそれに驚いたりはせずに、ただ腕の位置を変えずに、GSPが泣きたいだけ泣かせておいた。声を殺して、涙だけが流れるその泣き方が、完全に素直ではないものとは思ったけれど、無理にそうさせる必要もない。泣きたいように、泣きたいだけ泣かせればいい。
Rashadは一言も発さずに、ただGSPを抱いて、時折頭や濡れてはいない頬の辺りを、指先で撫でた。
次第に体の震えが治まり、Rashadの腕を軽く叩いて、ありがとう、とGSPが小さな声で言う。
腕をほどき、そっと立ち上がり、まだ肩に触れた手をそのまま滑らせて、もう一度GSPの丸い頭を撫でた。
「ありがとう。」
もう一度、GSPが言った。
Rashadはバスルームへ行くと新しいタオルを濡らして、それを手にGSPのところへ戻った。
パーカーの袖で顔を拭っているGSPにそれを投げて渡し、ごしごしを顔を拭くGSPに、
「酒でも飲むか。」
と訊いた。
タオルから顔を上げて、GSPがちょっときょとんとした顔をする。
「酒は飲まない。」
知ってるだろうと言いたげなその表情に、Rashadは苦笑を交えて小さく舌を打つ。
「じゃあカプチーノだ。」
腰に手を当て、リングで対戦相手に対して胸を張るその姿勢で、Rashadは否を言わせない強さで言う。
「行くぞ。」
もうクローゼットから革のジャケットを出して着ながら、まだベッドに坐ったままのGSPを手招きする。
「食事制限が──」
「誰にも言わなきゃわからない。黙ってろ。」
言いかけるGSPを遮って、Rashadは唇に人差し指を当てた。
「ホットチョコレートが飲みたいんだ。明日2km余計に走ってやる。それでいいだろ?」
腕を通したジャケットの前を合わせ、早くしろ、とまたGSPを、もっと大きな仕草で手招く。不承不承という態で立ち上がったGSPは、タオルをベッドに放って、Rashadの方へ歩き出した。
部屋を出て、エレベーターへ向かいながら、RashadはGSPの肩に腕を回して離さない。GSPも、Rashadの腰に手を添えて、やっと薄く微笑んでいた。
「知ってるか、カプチーノはきっとモントリオールの方が美味い。」
「飲んでから言え。モントリオールの方が良かったら、今度オレが行った時に案内しろ。」
上がってくるエレベーターを待って、上を見上げながら言う。GSPが今度は小さく声を立てて笑う。
「カプチーノよりもカフェオレの方がいいな。」
「砂糖を忘れるなよ。」
自分の、Sugarという愛称に引っ掛けて、Rashadはそう言った。
その冗談をきちんと聞き取って、顔いっぱいに一瞬笑った後で、GSPが何か言いたげに唇を動かした。エレベーターを待っている仕草で、すいと視線をずらし、それから、
「ありがとう、Rashad。」
床にすぐに吸い込まれそうな、小さな声だった。
伏せた目が、上目に自分を見る。少し押せば、また泣くだろうと思った。その時に、自分が傍にいられればいいとも思う。思って、肩から首に腕を滑らせて、いっそう強くGSPを抱き寄せた。
石鹸の匂いのするGSPのこめかみに、音を立ててキスして、
「I love you、man。」
そのキスの意味を正しく伝えるために、片手でGSPの胸を叩いた。
「I love you、too。」
照れて笑うGSPの頬を自分の胸に引き寄せながら、もう一度、額にキスした。
やっと目の前にやって来たエレベーターが、音も立てずに扉を開く。
足を大きく前に踏み出して、
「That's my boy、Georges。」
声に、誇らしげな響きがこもるのを、Rashadは止められなかった。