TUF10/Justin&Marcus

Baby, Baby, Baby

 絹を裂く、と言うには少し野太い、低い悲鳴が、リビングの方から響き渡って来た。
 Justinは、ジェルで上向きに立てようとしていた頭頂部の柔らかな短い金髪にまだ指先を通したまま、何事かとバスルームから顔を突き出す。
 また悲鳴が聞こえた。他に誰もいないのか、悲鳴に反応する足音はなく、Justinは訝しがりながら、シャワーを浴びたばかりの濡れたタオルを首から外しもせず、小走りにリビングへ駆けてゆく。
 Justinのアパートメント全部よりも広いリビングの奥の隅で、背高い体を半分ほどに縮めて、Marcusが情けない表情で床のどこかを見下ろしていた。
 「どうかしたのか。」
 Marcusの、明らかに怯えた様子にちょっと驚いて、視線の先を自分でも探りながら、恐る恐るリビングの中へ爪先からそっと入ろうとする。
 Marcusが首を小さく振りながら、やっと長い腕を伸ばし、新品にしか見えないカーペット──きっと、この家全部なら、Justinの両親の家よりも値の張る代物だろう──の1点を指差した。
 何も見えない。Justinは目を細めてそこへ精一杯目を凝らし、否定の風情で首を振りながら、肘から曲げた両手を、肩近くまで上げて見せる。
 「・・・クモ、クモ、クモ!!」
 Marcusが、さっきと同じ高さの悲鳴を上げて、壁際を素早く走ってJustinの傍へやって来る。
 「くも?」
 自分より30cm近く背の高い、闇夜で会えば恐ろしい化け物にしか見えない、大量にいる一時的同居人のひとりである、元はフットボールの選手だったという黒人の男が自分の背中の後ろへ隠れるようにするのに、Justinはまだ訝しげな表情のままで首を回す。
 「くも?」
 また訊くと、MarcusはJustinの丸い──Justinだって、普通よりはやや大きい男だ──背中に体を縮め、肩越しにまた腕を伸ばして、そのクモとやらを指差す仕草をした。
 「ソファに横になってて、ふっと見たらいたんだ! 黒いヤツだ! 足が長くて妙にクネクネしてて、オレを噛むつもりだったんだ!」
 耳の傍でわめかれるのに、Justinは顔をしかめて、またMarcusが示した辺りに目を凝らし、そうしてやっと、象牙色のカーペットに、染みとすら思えないような小さな小さな黒っぽい点を見つける。
 Marcusの言う通り、それは少しずつ動いていた。
 「なんだ、クモか。」
 思わず落胆の声で言うと、心外だとばかりにMarcusがJustinの厚い肩を平手で叩く。この手もJustinの倍はありそうで、加減のよくわからないらしいMarcusにそうされると、肩の骨が折れるかと思う。
 「なんだじゃない! オレを噛もうとしたんだ!」
 自分の後ろでわめくMarcusをなだめようと、Justinは自分の目の前で掌を振って見せながら、
 「わかったわかった、今すぐ始末するよ。」
 異様に背の高いこの男は、長い手足に、笑えばこの上なく無邪気になるけれど普段は恐ろしげな容貌のせいで、実際よりもさらに大きく恐ろしげに見える。その化け物みたいな大男──そしてこれはJustin自身も偏見だとは思うけれど、美事に黒光りする肌の色も、彼をいっそう化け物めいて見せるのだ──が、小指の先ほどもなさそうなクモに怯えて、広い部屋中を逃げ回っている。
 可愛いなと、思いながら、Justinはとりあえずソファの傍にあった雑誌をそっと取り上げた。
 Justinが、手の中でくるくると雑誌を丸めたのを見て、またMarcusがわめいた。
 「殺すな!殺すな! 外に逃がしてやってくれ! 外の花壇に放してやってくれ!」
 注文の多いことだと、正直Justinは思って、クモの1匹や2匹、叩き潰したところでそれが何だと、ちょっと言い返そうかと振り返ったところで、Marcusが怯え切った表情のまま付け加える。
 「花についた虫を食べてくれるんだ。噛まれるのはいやだけど、クモは益虫なんだ。」
 それから、声を静めて、この上なく悲しそうな表情で、Justinに言った。
 「・・・殺さないでやってくれ。頼むから。」
 飼い犬が飼い主を見上げる、あの目だ。深い闇色の瞳が、Justinを見下ろしている。Justinは、一瞬考え込むような表情を作ってから、
 「・・・わかったよ、殺さないよ。」
 丸めた雑誌を、両手の中にまた平たく戻した。
 床に膝を折って、クモが確かにそこにいるのを確かめる。部屋の隅で自分を見守るMarcusの視線を、丸まった背中に感じながら、Justinは逃げようとするクモを先回りして、雑誌の端に追い込もうとする。
 「ほら、ここに上がってくれよ。」
 人の言葉などわかるはずもない小さなクモに向かって、真面目な調子で話し掛ける。逃げ回るクモを、傷つけないように追い詰めて、やっと雑誌の端から上に乗せ、そこから逃げて落ちてしまわないように注意しながら、Justinはそっと立ち上がった。
 「花壇だな?」
 Marcusに重ねて訊くと、まるで少女のように胸の前で大きな手を組み合わせて、Justinに向かって深くうなずく。Justinは、そのまま雑誌を目の高さに上げて、クモを逃がさないように気をつけながら、素早く玄関から外へ出た。
 大金を掛けて美しく整えられた前庭の、玄関近くの花壇へ、Justinは気をつけてクモを放した。クモは素早く花の葉の間に姿を隠し、どこへ行ったかと視線だけで追って、Justinは家の中へ戻る。
 Marcusは玄関のところで、Justinを待っていた。
 「言われた通り、花壇に放して来たよ。いいだろ?」
 「ありがとう。ほんとうに助かった。」
 胸の前で組んでいた手を外して、Marcusが言うと同時に両腕を大きく開いて来る。
 まるで、巨大な化け物の口の中にでも飲み込まれたように、MarcusがJustinを抱きしめる。感謝の意だと悟るまで、数秒掛かった。
 Justinは目を白黒させながら、自分を抱きしめて背中を叩き、ありがとうありがとうと繰り返すMarcusの、これも巨大な背中を眺めて、やっと落ち着きを取り戻すと、その背を自分も軽く叩いた。
 「役に立てて何より。」
 うっかり感情を込めるのを忘れて、辞書を読んでいるような調子で言うと、Marcusがまた大袈裟にありがとうと言う。
 今誰かが玄関から入って来てふたりを見たら、何事かときっと思うだろう。
 それでも、男同士、しかも総合格闘技をやるなら、他の誰かに触れ合うということは、つまりは殴り合う傷つけ合うということだったから、こんな風に誰かと、優しい気持ちを交し合うのはひどく久しぶりだと気づいて、JustinはMarcusと離れるのが少しばかり惜しくなる。
 「これから昼メシのつもりだったんだ。一緒に食わないか。」
 やっとJustinから体を離してMarcusが言う。
 「デザートにフローズンヨーグルトもあるんだ。」
 甘酸っぱさが舌の上に蘇って、たちまちJustinは話に乗った証拠に、目を軽く見開く。
 「クモ1匹でアンタの料理が食べられるなら、いつでもやるぜ。」
 庭で土いじりをするのが大好きだという黒人の大男は、この家でいちばん料理が上手かった。
 「ハレルヤ。」
 指揮者のように、Marcusが両腕を宙に向かって掲げる。
 「アンタが準備してる間に、オレはちょっと髪をいじって来るよ。途中だったんだ。」
 まだ湿っている、首に巻いたタオルを片手で上げて見せると、Marcusが促すようにバスルームへの道を開けた。
 すっかりジェルが乾いてしまった髪に手をやりながら、Justinは、この中では年嵩にも関わらず、皆にBabyと呼ばれるMarcusの可愛らしさに、ほころぶ口元を止められない。
 実のところ、背は30cm近く高いくせに、MarcusはJustinよりも少しばかり体重は下だ。RashadチームにいるJustinと、RampageチームにいるMarcusと、タイミング合えば、いずれOctagonの中でやり合う羽目になるかもしれない。Marcusに飛びついて引き倒し、上に乗って彼を殴る自分を想像した。振り上げた拳のやり場に、想像の中で困る。
 キッチンから、ご機嫌らしいMarcusが歌う声が聞こえて来る。
 ここで出会えたことを喜びながら、それに一体どういう意味があるのか、今初めて気づいたように、Justinは鏡を覗き込んで自分をにらみつけてから、けれどそれは数秒と続かず、またMarcusの明るい良く通る歌声に頬がゆるむ。
 笑う自分に向かって首を振って、Justinはもう一度シャワーを浴びるために、Tシャツの裾に手を掛けた。

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