GSP

承前

 突き上げてくる吐き気を耐えることができずに、ランニングマシーンから飛び降りて、その場にうずくまった。
 様子がおかしいのに気づいて、トレーナーが走り寄って来る。
 「おい、大丈夫か。」
 這いつくばった姿勢のまま、背中と胃を喘がせ、苦しさに耐えようとしたけれど、床に着いた手の間に、短く吐き出す息と同時に、胃の中のものを吐き出していた。
 「おい、バケツ持って来い! それからクリーナーも!」
 オレンジ色の、もうほとんど消化の終わっている昼食だ。鼻を刺す匂いに、うっかり目に涙がにじむ。
 ばたばたと足音が入り乱れ、けれど決してうろたえてはいない様子で、目の前の床に、小さなバケツが置かれる。その真上ににじりより、たった今吐いたばかりの汚物のなまあたたかさに膝先を浸しながら、バケツの中に顔を埋める。そしてまた、全身を喘がせて、吐いた。
 「よーし、そのまま全部吐け。我慢しなくていい、無理はするな。」
 落ち着いたトレーナーの穏やかな声が、痛みに引き絞られている胃の辺りを、なるべく優しく撫でているような気がして、気がつけば、吐き気を助けるように、大きな手が背中を軽く押していた。
 「Georges、動けるか?」
 相変わらずバケツに顔を伏せたまま、やっとの思いで首を振る。
 吐き出せるのはもう胃液しかなく、その匂いも、自分では気にならない。気にするような気力は、もうどこにも残っていなかった。
 やっとバケツを手放し、立ち上がろうとするけれど、足にも上半身にも力が入らない。汚物で汚れた顔を、後ろからトレーナーが、自分の首に巻いたタオルで拭ってくれようとする。
 自分と他人の汗の匂いに、また吐き気がこみ上げて来る。
 そうして初めて、床の汚れが気になり始めた。
 「・・・床・・・。」
 汚してしまって申し訳ないと、言ったつもりが声にならず、悔しさに顔だけ歪めた。トレーナーがそれを見て、気にするなと、Georgesを抱え起こしながら言った。
 「よくある。みんな初日はこんなもんだ。」
 もうひとり、誰かが脇から腕を差し入れ、トレーナーとふたり掛かりで抱えられ、やっとの思いで足を前に出す。引きずるようにロッカールームへ連れて行かれ、そこにある長いベンチに、そっと横たえられた。
 ほら、と手渡された真新しいきれいなタオルで顔を覆い、自分のみっともなさが恥ずかしくて、礼を言いながら、けれどまともにトレーナーの顔も見られない。
 「少し休め。気分が良くなったら、今日はもう帰ってもいい。どうせ今日の分はほとんど終わりだ。」
 ベンチのそばに、きれいな空のバケツを置き、余分のタオルをもう2枚、指し示してからトレーナーはロッカールームを出てゆく。
 ひとりそこに残されて、まだ残っている吐き気に、また全身を波打たせた。
 細いベンチから、転げ落ちるように床に下り、体を伸ばしたわめ、それを繰り返しながら、胃から広がる、体中を引き絞られる痛みに、必死で耐える。その合間にまたわずかに吐いて、今はここにひとりきりだという安堵のせいか、さっきよりも素直に、目から涙がこぼれた。
 トレーニングは別に初めてではない。空手の練習はずっとして来たし、時間と金に余裕がある時は、なるべくジムにも通っていた。
 けれど今日初めて、いわゆる総合格闘技と言われるそのためのトレーニングに正式に参加して、あまりの厳しさに、根を上げるより先に、体が諦めてしまった。耐えられない。もう動けない。これが限界だ。もうやめろと、痛みが言う。その痛みに耐えられずに、身をふたつに折って、また吐く。空の胃がうごめいて、何もないのに、吐き気だけが続いている。
 今はもうほとんど色のない、うっすらと黄色がかった胃液を吐いて、泣きたくもないのに、みっともなく顔が汚れている。
 厳しいものだという覚悟はできていたけれど、その一歩を踏み出した今日という日に、こんな目に遭うとは思ってもいなかった。
 苦しい。走り続ける足の痛みではなく、動き続ける肩の痛みではなく、打ち続ける拳の痛みではなく、体の内側で、内臓のその中が、痛みを発して訴えている。無理だ。やめろ。ひどすぎる。
 あきらめろと、その声を聞いた時に、吐くと同時に喉に鋭い痛みが走った。覆いかぶさったバケツから少しだけ体を起こし、何が起こったかとその中を改めて覗き込むと、ひと筋よりは量の多い赤が、まだ唇から垂れた唾液に混じって、どこからか血を吐いたのだと思った瞬間、また喉と胃が、同時にひどく痛んだ。
 血の色に少し頭が冷えたのか、タオルで口元を押さえ、やっとのろのろと立ち上がる。
 ロッカールームを出て、ふらふらと練習場へ向かい、短い廊下からドアを開いたところで、トレーナーが振り返った。
 「おい、大丈夫か。」
 ひどい顔色らしいのが、トレーナーの表情から窺える。それに笑い返すような余裕はない。
 「・・・血が・・・。」
 タオルを離してそう言って、喉の辺りを指差すのが精一杯だった。その声も、自分が思ったよりもずっと弱々しくかすれている。
 「血?」
 トレーナーの両手が、こめかみへ伸びて来る。言うと同時に顔を上向かせ、口を開けろという仕草をされた。
 「吐き過ぎて喉を切ったな。多分腫れるぞ。熱が出たらすぐに医者に行け。2、3日は熱いものも酒も飲むな。できるだけ体を休めろ。今無理したら元も子もなくなる。」
 言われるその間に、喉の痛みはどんどんひどくなり、鼻から通る呼吸すら響き始めた。
 心底心配そうなトレーナーの顔に、やっと帰る決心がつく。
 声を出そうとしても喉が痛むので、ただうなずくだけにして、今度は着替えるために、ロッカールームへ背中を回す。
 もうここへは戻って来れないかもしれないと、短い廊下を戻りながら思った。


 普通なら20分の距離を、30分以上かけて運転して、やっとの思いで家にたどり着く。
 転がるように家に入ると、もう喋ることさえできないほど喉が痛んでいたから、そのことを短く紙に書き残して、シャワーも浴びないまま、服を脱ぎ捨てて自分の部屋のベッドに飛び込んだ。
 母親は、メモを見て心配するだろう。
 喉が痛い。しゃべれない。熱いものは摂らない方がいい。しばらく寝る。邪魔しないでくれ。
 何をしても、決して間違ったことはしないと息子のことを、心の底から信じている彼女だけれど、息子が体を痛めつけるのを冷静に眺めていられるほど、冷たい人でもない。世間並みに心のあたたかい、そして人並み以上に愛情深い人だから、彼女に心配は掛けたくはなかった。
 練習の初日にこの有様では、一体何を言われるかと、汗に冷えた体がなかなかあたたまらないのに、毛布の中で体を丸める。
 自分で決めたことだ。空手だけではなく、もっと先へ進むのだと、そう決めたのは自分だ。
 柄の悪い連中のたむろう辺りへ住んで、それに染まりたくはなかったから、まずは自分を護るために、何かをしなければならなかったから、そうやって始まったことだった。
 腕を振り、足で蹴り上げる。誰かを痛めつけるためではない。自分のできることを、自分の目で確かめるためだ。
 結局期待した以上に身長は伸びず、顔立ちもどこか幼いままだったから、見た目で見くびられることはよくあったし、だからこそ、その拳の素早さに、誰もが舌を巻いた。
 誰かを傷つけたかったわけではない。自分が傷つきたくないと同じほど、誰のことも傷つけたくなかった。だから、手ひどい傷を負わせる前に、圧倒的な力の差を見せて戦意を失わせること、そのために、誰よりも早く走り、誰よりも高く飛び、誰よりも長く腕を伸ばし、ただそのためだけに、ずっと続けて来たことだった。
 素手で殴り合い、蹴り合う。ルールはあるけれど、それは相手を必要以上に傷つけないためであり、殺し合わないためのルールだったから、死ぬ覚悟でもない限り、あそこへ行き着くのは、ひどく馬鹿げたことのように思えた。
 それでも、血が沸く。あそこに入り、あそこに立ち、目の前にいる誰かを叩きのめすために、ただそれだけのために、拳を振り上げる。歓声や賞賛のためではなく、ただひたすらに、勝ちたいという、ただそれだけのために、あの中へ入ってみたいと、そう思った。
 どんな気分だろう。金網に囲まれて、人目に晒されて、その中で、名前すらよく知らない誰かと殴り合う。ほんとうに、まるで獣の世界だ。
 誰にも言わずに、ずっと身内に飼っていた獣が、叫んでいた。あそこへ飛び込みたい。あそこで思う存分暴れたい。何もかもを解き放って、煩わしいことはすべて外へ投げ捨てて、ただ己れの中の獣の咆哮にだけ従って、ひとであることを忘れた戦いをしたい。数瞬後のことなど気にもせずに、ただこの時だけのために、勝って生き延びることだけを目的に、あの中を走り回り、動き回り、つかみ掛かり、引きずり倒し、締め上げて、殴る。
 自分の中に、そんな衝動があることに、気づいてすらいなかった。血の沸騰するその音と熱さに、自分で驚いていた。
 自分の強さを、試したいと思った。
 けれど、あそこにたどり着く前に、その強さがないことが証明されてしまったのかもしれない。
 たかが練習で、吐いて倒れてしまうほどつらいものだとは思わなかった。限界の先へ無理矢理押し出されて、そこで踏みとどまることができずに、あっさりと崩れ折れてしまう自分のみじめな姿など、想像したこともなかった。
 恥ずかしさに悔しさに、そしてまだ体のあちこちにうずく痛みに、生まれてこの方味わったことのない深い挫折感が、今は空っぽの胃を満たしている。
 自分は、所詮この程度だったのだと、思い知ったのは初めてではないけれど、こんなに深く、身も心もぽっきりと折れてしまったように感じるのは初めてだ。
 喉の痛みは激しくなる一方だった。トレーナーがそう言った通り、熱も出て来たらしい。明日、医者に行く時間はあるだろうかと、忌々しげに考えている間に、やっと眠りに落ちていた。


 ベッドの端に重みがかかり、きしんだ音と同時に、体が軽く揺れた。
 すでに目覚める直前に浅くなっていた眠りがそれで破られ、開いたドアから差し込む明かりに目をしばたたかせると、自分を見下ろす影がそっと腕を伸ばして来るのに、まだ夢うつつで顔を向ける。
 「大丈夫か?」
 低くひそめた声と一緒に、頬に、硬いざらついた掌が触れた。
 弱った息子を見下ろす父親の目は、心配そうに、けれどひたすらに優しいばかりで、薄闇にやっと慣れた目に、少し丸くなり始めた肩や背中の線が飛び込んで来る。
 眠そうに目をこすって、小さく何度かうなずくと、近頃急にしわの深くなった口元が、微笑みに持ち上がる。
 「ずいぶんしごかれたみたいじゃないか。」
 目の前の父親そっくりの笑みを、同じように口辺に浮かべて、けれどそれは少し苦笑に近く、またそれに何度か浅くうなずいてから、急にこみ上げて来た悔しさと情けなさに、目の奥が熱くなった。
 父親の手が、頬や額を撫でる。ほとんど剃り上げている頭へも指が伸び、それから、1日の終わりにうっすらと伸びたひげにも触れ、皮膚や骨の感触に、息子がすっかり育ち切っていることを確かめると、そのことを喜んでいるとも淋しがっているとも、どちらにも取れる表情で、また薄く笑う。
 空手を教えてくれたのは、この父親だ。
 小さな手を取り、拳を作らせ、それをどう振るうのか教えてくれたのは、目の前の父親だ。
 道を示してくれた師同様の父親の手を離れて、自分の道を歩き始めたその決心を、それは巣立ちの瞬間にも似ていたけれど、結局はまだ、父親の大きな翼の下からは抜け出せてはいないのだと気づく。その下に、永遠に憩っていたいと、甘えた気持ちが一瞬湧いた。
 思ったその時に、けれどもうそこへは戻れないのだと、心底気づいてしまった。不意に淋しさに襲われて、無理に作った笑顔に細くなった目尻から、涙がひと筋こぼれた。
 それが父親に見えたのかどうか、わからなかった。
 もう、歩き出してしまったのだ。後戻りはできない。時折父親の背の幻を見ながら、そこを歩き続けるのは、自分ただひとりだ。
 幼い頃、そうして息子を寝かしつけたように、父親の唇が、そっと額に触れる。昔に比べれば柔らかくなったひげが、ざらりと当たって、その感触に、どんな言葉よりも強く慰められた気がして、思わず父親の肩を、両腕で強く引き寄せていた。
 よしよしと、幼い子をあやすように、父親の手が頭を撫でる。
 何があったのか、息子が何を考えているのか、父親にはわかっているのだろう。何もかも吐き出して、全部放り出してしまいたいと思ったのだと、言ってしまう必要はないそのことに、心の底から安堵した。
 いつか、笑い合えればいい。泣いて、諦めかけたこともあったと、そう白状して、笑い合える日が来ればいい。
 そんな日がいつかきっと必ず来ると、そう思った。
 父親の体が離れ、
 「母さんが、おまえのために冷たいスープを作るそうだ。できたら起こしに来るか?」
 いつもの、必要以上に親しい素振りを見せない父親の表情で、少し普通に戻った声が言う。
 喉の痛みを気にしながら、うなずいて応えた。
 視線を合わせて、珍しい長さで見つめ合った後で、父親がまた、手を伸ばして頬を撫でた。
 「愛してるよ。」
 オレもだよと、唇だけで言った。父親が、何とも言えない表情で、微笑んで、立ち上がった。
 ドアが閉まり、また闇が戻って来る。
 今はベッドの中に真っ直ぐに体を伸ばして、天井をにらむように見上げた。
 必ず、あそこへ行き着いてやる。ひとりでも、もう大丈夫だ。絶対に、もう、諦めない。
 まだ痛みばかりの残る体の中に、血の沸く音が満ちてゆく。傷ついた喉を撫でる呼吸が、けれど爽やかに肺に入り込んでゆく。
 長い長い道の先に、金網に囲まれた、八角形のリングがはっきりと見えた。歓声を浴びながらそこへ上がってゆく、自分の後姿が見える。自信に満ちたその背が、微笑みを浮かべて後ろへ振り返る。その視線の先に、自分を見守る父親がいるのだと思った。
 GSPと呼ばれ、チャンピオンベルトを腰に巻く自分の姿をまだ知るはずもなく、まだそれをただの夢だと思いながら、闇の中で目を閉じた。

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