星の男
どこで何をしていると、今時は本人に訊く必要もない。オンラインで、FacebookだのTwitterだのそんなところを覗いていれば、会いたい誰かが今日はどの辺りにどのくらいの時間にいるか、大体見当がつくようになる。Juniorは空港から真っ直ぐに、Ramseyのいるジムへ向かった。ジムにいなければ、そこからすぐの彼の家へ、直接訪ねて行く気でいた。
負けなど微塵も考えていなかったようなあの試合前の態度では、1週間経ったとは言え、恐らくまだひどく落ち込んでいるだろうと思った。3年契約を賭けた試合は、第1ラウンド開始から4分経たずにTonyに見事にノックアウトされて終わった。それまでのRamseyの試合を覚えていれば、それは信じられないほどあっけない終わり方をした試合だった。
すでにカナダ入りをしていたJuniorは、皆と集まったホテルの部屋で試合を見て、そうして思わず、普段は縁のない罵り言葉を口にして、リングで子どものように泣きじゃくるRamseyと、気持ちだけは一緒に泣いていた。
インタビューを受けるTonyを眺めて、けれど見ていたのは、そこには映っていないRamseyだった。見えない彼にひとり拍手を送り、6週間の合宿を一緒に過ごして、今では師弟ではなく家族同様に思える彼の姿を、Juniorは画面に探して、ひとり手を打ち続けていた。
誰でも負ける。負けることは恥ずかしいことではない。ただ、負けに慣れて甘えるな。負けたからこそ次に勝てるはずだと、そう信じるためにだけ負けろと、自分がそうNogueira兄弟──特に、Antonio──に言われ続けたと同じことを、Juniorは自分のチームの選手たちに言い続けた。Ramseyは今、そのことを思い出してくれているだろうか。自分が伝えたつもりのひとつびとつを、殴られた痛みと一緒に細胞に染み込ませて、骨に刻むように憶えていようとしてくれたろうか。
どれほど慰めの言葉をかけられたところで、負けたという事実は変わらない。負ければ、傷ではなく心が痛む。足元が崩れて、もう2度と這い上がれないと、そんな思いに押し潰されそうになる。だからこそ、負けることを恥じるなと、負けたことに負けてしまうことの方を恥じろと、そう教えたつもりだったけれど、自分のひどい英語で、どれだけ真意が伝わったのか、今はそれを不安に思っている。
気持ちは、言葉だけで伝わるものではないと、そう言うのもNogueira兄弟だ。伝える方法はいくらでもある。伝わらないのは、もしかすると、受け取る気などない向こうのせいかもしれない。だから、気にせずにただ伝えようとし続けろ。伝わるべきところへは、いつか必ず伝わる。諦めるな。Antonioのあの声が、耳の裏側で鳴った。Juniorはそうだねとその声に応えたつもりで、ひとり肩をすくめる。
Ramseyのいるジムなら、名乗れば自分が誰だかわかってもらえるだろう。必死で説明する必要はないはずだ。顔を覚えていてもらえれば助かる──幸い、かすり傷ひとつ追わずにリングを出ることができたから──けれど、それはひとまず期待しないことにした。
TUF11の勝者、Court McGeeがいるはずだし、誰だか知らないがとっとと帰れと、追い出される心配だけはないはずだ。それでも緊張しながら、やっと着いたジムのドアを押して、Juniorは大きな肩を縮めるようにして中に頭だけまず突っ込んだ。
馴染んだ汗の匂い、マットの上を素足が滑る音、サンドバッグが殴られて鎖が揺れる音、どこのジムにもまったく同じ空気が満ちている。Juniorは思わず微笑んで、それから滑り込むように全身で中に入った。
ドアが閉まる途中で、頭を剃り上げた大柄な眼鏡の男が、何か用でも?と言い掛けた口の形のまま、どうやらJuniorが誰かを見分けたらしく、
「Ramsey!」
と、大声を奥へ向かって張り上げてくれた。
スパーリング中だったRamseyが、ヘッドギアをつけた頭をこちらへ振り向けて、マウスピースを外さないまま、あの目も口も大きく驚きに開いて、次の瞬間そのままロープを飛び越えてこちらへ走り寄って来る。
ジムの中を、Ramseyの足の運びと一緒にざわめきが走り、ふたりは合宿の間中いつもそうしていたように、飛びついて来るRamseyをJuniorが肩の上に抱き上げ、しばらくの間、ここがもう合宿所ではなく、周囲にいるのがあの時のチームメイトたちでもないことを忘れた。
「いつ、ここに?」
「ついさっき着いた。空港から直行した。」
「ワーオ。」
大袈裟なRamseyの喜びようは、けれどもちろん演技ではなく、やっとJuniorから少し離れてヘッドギアとグローブを外し、後ろを振り向くと、
「ちょっと休憩! すぐ戻る!」
ジムの中に声を放ち、どうやら責任者らしいさっきの眼鏡の男がわかったわかったと手を振るのに、Ramseyが手を振り返して、そのままJuniorの腕を取って、ジムの外へ連れ出そうとする。
表へまた出てから、さっきの男が、Ramseyの試合に一緒に出ていた、泣きじゃくるRamseyに肩を貸していた男だと思い出す。ああ、あの男がこのジムのコーチかと、Juniorはちらりと中を振り返った。
表から裏へ回り、そちらは道路には面していない静かな裏口近く、皆がそこで休憩するのか、置いてあるピクニックベンチに、ふたりは並んで腰を下ろす。
「忘れてたよ、おとといの試合、おめでとう! アンタが勝つのはわかってたけど、あそこまでCarwinをボロボロにするとは思わなかった。」
Juniorはちょっと苦笑いを返して、
「・・・あそこまでする予定じゃなかった。レフリーが止めてくれると思ったけど、止めないから仕方なかった。おかげで手が痛い。」
左手を軽く握って顔の前に上げて見せると、Ramseyが少し心配そうに眉を寄せて、
「痛めた?」
「多分。でも大したことない。」
Juniorの拳に、Ramseyがテーピングの手を重ねて来る。
「これで殴られたら、オレなら向こうまでフッ飛ぶね。」
「すぐ戻って来て後ろから首絞めるんだろ?」
「して欲しいんならそうするよ。」
いつもの調子の軽口が重なる。あの、合宿所の時のままだと、ふたりで同時に思って、あの時の同じ笑みを一緒に浮かべていた。
こうやって近くに寄って向き合えば、いやでもRamseyの顔のアザが目に入る。Tonyのあの左は、軽く入ったように見えたけれど、やはり当たった目元には傷を残していて、赤いその跡は、涙の跡のようにも見える。Juniorは笑顔を消さないまま、それを見つめていた。
Juniorの視線の位置に気づいて、Ramseyが微笑んだままうつむく。
「・・・オレは、負けちゃったけどね。」
「・・・Ramsey Pie、そういう時もある。誰だって負けるんだ。」
「勝ったアンタがそう言っても全然説得力ないよ?」
自分を、子どもみたいな愛称でからかうように──からかうのは目的ではない──呼んだJuniorの肩におとなしく額を乗せて、口先だけは軽く、Ramseyが言う。笑おうとしているらしいのに、Juniorは付き合って軽く笑った。
「オレが負けたから、心配で会いに来てくれたんだ。」
頬同士をこすりつけるようにしてから、Ramseyが顔を上げる。鼻先が触れそうに近く、Ramseyが、すくい上げるようにJuniorを見ていた。
「どっちでも、会いに来るつもりでいた。」
言った途端、受け取った言葉を吟味するように、Ramseyの眉が動く。いつ見てもきれいなRamseyの瞳が、動かずにJuniorを見つめている。
Ramseyの最初の試合の後だったか、Ramseyの出自の話になって、彼の名字が、彼の父親の言葉では"星"を意味するのだと教えてくれた。その時に、だから彼の瞳はまるで星のようなのだと思ったことを、Juniorは憶えている。自分のそれよりも色はひと色浅い、けれど覗き込むと底なしのように深い、茶色の瞳。空気の澄んだ夜に見上げる星のようだと、Juniorはそう思った。
星の瞳に吸い込まれそうになりながら、Juniorは、自分の言葉と振る舞いが少しは彼への慰めになっているのだろうかと、少しずつ不安になりながら──英語で少し込み入った話をする時は、いつだって不安だらけになる──、それでもできることは、こうやって言葉を掛けて、彼を抱きしめることだけだったから、首の後ろにあった掌を頭の方へ滑らせて、汗に湿った髪をぐしゃぐしゃと撫でてやる。
「・・・オレに、会いたかった?」
頭に置いた手の動きが止まって、手首の陰から、Ramseyの片方の目が見える。ちょうど傷のある方、涙のように見える跡が、問い詰めるように、Juniorの視界いっぱいに広がる。Juniorは、声の響きに少し戸惑って、怯んだように一瞬息を飲んでから、心を込めて次の言葉を口にした。
「会いたかった。」
どんな嘘も聞き逃さないと、緊張していたRamseyの肩の線が、一瞬後にゆるむ。
Juniorの手を取り、痛めているそこへ唇を近づけてから、
「オレも、会いたかった。一緒にいたかった。」
言葉の途中が湿り始める。どこかで糸が切れたように、突然Ramseyの体はJuniorの方へ寄り掛かって来て、そこでくったりと力を抜いてしまった。
体を近づけて、両腕でRamseyを抱き止めて、JuniorはRamseyの髪を撫でた。今までは、Ramseyが勝った時に必ずそうしたように。今は、負けた彼を慰めるために。
あのリングに、彼と一緒にいたかった。負けても勝っても、その結果を一緒に受け止めるために、Juniorは心底あそこにいたいと思った。テレビの画面を眺めているだけの自分が不甲斐なくて、自分がいないからRamseyが負けたと自惚れる気持ちはなくても、彼とそこまで一緒に上り詰めたのだと、自負はあった。けれどそこには負けたRamseyが誰かの肩で泣きじゃくっているだけで、Juniorの姿はなかった。
あの誰か、確かJohn何とかと言う、さっきの眼鏡の男、あの男に、Juniorは嫉妬していた。あの場にいて、Ramseyを抱きしめて慰められる彼を、心底うらやましいと思った。あそこにいるべきだったのは自分だ。自分以外の誰でもない。自分が、あそこにいて、Ramseyの試合を一緒に戦うべきだった。
Ramseyが泣くのは、自分の肩でだけだと、今泣き始めたRamseyをあやしながら思う。
「次がある。次勝てばいい。」
「・・・うん。」
「諦めずに、ずっと同じように頑張ればいい。いいヤツのところには、いいことがめぐって来るんだ。」
「・・・アンタ、決勝の前にも同じこと言ったよね。」
Juniorの肩を濡らしながら、それでも笑いを混ぜて、Ramseyが揚げ足を取る。
「何度でも言うさ。いいヤツのところには、いいことがめぐって来る。絶対そうだ。そうだろ?」
いいヤツ、というだけではなく、今では大事な誰かになりつつあるRamseyを抱きしめて、Juniorはもう1度同じことを言う。
自分もこんな風に、Nogueira兄弟たちに慰められたのだ。今は自分が同じことを、Ramseyにしている。
いろんなことは、こうやって世界をめぐっている。そうやって、良い人たちには、良いことが起こる。Ramseyにも、良いことが起こる。それはもう決まっていることだ。
うん、とJuniorの肩の上で、Ramseyがうなずいた。
「いいヤツのところにはいいことがめぐって来る。絶対に。うん、そうだ。アンタの言う通りだ。」
まだ、涙は止まっていなかった。
抱きしめて、額や頬や、届くところにいたわりのキスを何度も何度もして、JuniorはそうやってずっとRamseyを抱きしめている。
星を空に帰す前に、まるで名残りを惜しむように、JuniorはRamseyの湿った髪を、大きな掌で撫で続けていた。