強い者
Light Weightに、有望に思えるのがいるから見に来ないかと、誘って来たのはDana Whiteだった。社長の誘いを断るほど愚かでもないけれど、それ以上に、もしかしたらGSP級の逸材かもしれない、そんな匂いがすると言われたのが、気持ちの動いた大きな理由だった。
今は、Heavy WeightのFrank MirとNogueiraがそれぞれ若手のチームを受け持って、いずれテレビで放映されるその合宿の様子を、執拗に撮影している最中だった。
Serraも、Hughesと一緒に、それぞれのチームを受け持つコーチをやらされた。もうずいぶん前のことのように思えるのは、あれはたった1年前のことだ。
楽しくなかったと言えばうそになるけれど、もう二度とごめんだというのが正直なところだ。FrankもNogueiraも気の毒にと、Danaとの電話を切りながら、Serraはひとりで苦笑した。
有名な選手が練習所を訪れれば、もちろんその場の空気は湧く。この前は、近頃Nogueiraと練習をしている、Middle Weightの王者、Anderson Silvaが来ていたのだそうだ。
「Andersonの後じゃ、オレの分が悪いじゃないか。」
Serraは笑って、隣りのNogueiraを見上げた。
「現役の、しかもチャンピオンだった選手を直に見れるのは、いいことはあっても悪いことはないだろ?」
いつも細い目をいっそう細めて、Nogueiraがいたずらっぽく笑い返して来る。Serraのタイトルは、今はGSPの元にある──そして多分、もう戻って来ることはない──けれど、Nogueiraは今現在、れっきとしたHeavy Weightのチャンピオンだ。
この合宿が終わる時には、相手チームのコーチであるMirと、そのベルトをかけて戦うことが決まっている。
「懐かしいか?」
ポルトガル語訛りの、低い静かな声で、Nogueiraが訊く。
八角形の金網リング、Octagonを模したリングが置かれた広い練習場の隅で、ふたりは決して揃わない肩を並べ、あれこれと好きなことをしている若手の選手たちを、眺めるともなしに眺めていた。
「まあな。」
あまり幅のない肩をすくめ、薄い唇の端をちょっと下げる。懐かしいけれど、ぜひ戻りたいというわけではないと、選手たちと何やら話をしているDanaを憚って、Serraははっきりと言葉には出さない。
Nogueiraが、また微笑んだ。
体の大きさ──この階級では、特に珍しい体格ではないけれど──と恐ろしげなその容貌と相まって、笑うと、ことさら無邪気に見える男だ。
ブラジル人で柔術をやっていて、そのせいなのか、とても礼儀正しく、リングの中での戦いぶりと人柄が、珍しく良い意味で一致する人物だった。
SerraはGSPと比較的仲が良く、GSPはAndersonと練習をしていたりして、そのAndersonはこのNogueiraと、同郷であるとか、練習を通して師弟めいた関係もあるとか、そういう少々遠い繋がりで、Serraはどちらかと言えば今この場で、MirよりもNogueira寄りの立場だ。
顔見知りがまったくいないところに、ひょいと顔を出すほど打ち解けた性格ではないし、体の大きさが即敬意の大きさに通じてしまうこの世界では、いくら元チャンピオンとは言えWelterでも小柄なSerraは、大抵の場で軽く扱われることを覚悟する必要がある。
まだ無名の、この合宿を生き残れるかどうかわからない連中にまで見下した態度を取られるのは、それを鼻先で笑ってしまえるとしても、あまり気分の良いものではない。
それでも、Danaから誘われたのなら、そういう雰囲気はないと思って間違いはなかったし、この体格の男にしては珍しく、背の低い人間の心の機微を素早く読み取って、Nogueiraが気を使ってくれているらしいのが、Serraにはありがたかった。
それにしても、とSerraは思う。
始終和やかに、楽しげに互いをからかい合っている赤いタンクトップの連中はともかく、黒いタンクトップの連中の方は、なぜか顔に険が見える。
今も5、6人が、似非Octagonの中でばたばたとじゃれ合っているけれど、目が笑っていない。相手を常に威圧するような目つきで、チームメイト相手と言うのに、腹の中を探り合うような、そんな嫌な光が、その目の中にしょっ中見えた。
拳ではなくて、別の部分で駆け引きをする連中が、よくこんな表情を見せる。
そう思って真っ先に浮かんだのが、Serraにとっては天敵とも言えるHughesだった。
時々聞き取りにくい、Nogueiraのポルトガル語訛りの英語を、Nogueiraが耳元に顔を近づけて繰り返してくれるのを、半ば上の空で聞きながら、なぜかSerraは、リングから目を離せなかった。
危ないなと思ったのは、なぜだったのか。リングから漂う空気の悪さの中に、敬意というものがまったく欠けていると、そう感じたせいだったのかもしれない。
チームのコーチであるMirは、はるか向こう側の端にいて、リングには注意も払っていなかった。
そして、いつの間にか、全員がじゃれ合っていたのが、ふたりだけになり、そのふたりを、残りが小さな輪に取り囲んだ。誰も、それを気に掛けてはいないようだった。
並んだ、筋肉質の太い脚の間に見えたのは、ひょろりと細い体の、同じように細いだろう首に回った、浅黒い太い腕だった。
開き気味の唇の間から、歯列と舌先が見え、明らかにひどく締め上げられて、苦しさにうめいている。締めている方が、5割は体の幅が広かった。
首を締める腕を、力なく叩く白い手を、けれどその場の誰も気にしないのか、締め上げはゆるむ気配を見せない。
危ない、とSerraはまた思った。
やっと腕が外れ、細い体がずるりとマットの上に滑り落ちる。締めていた方はすっと立ち上がり、倒れているチームメイトをすぐに介抱する気もないようだった。
倒れている方はそのまま、ぴくりともしない。わずかにすき間からは、明らかに気絶している様子が見て取れた。
「おい!」
Serraは思わず声を上げて、リングに走り寄っていた。
リングの入(はい)り口へ回るのももどかしく、高い段を飛び上がり、金網を飛んで乗り越える。Serraの形相と勢いに驚いたらしい選手が、ばらりと輪をほどいて、近寄るSerraを遠巻きにする。
ぐったりと細い体を横たえて、顔色のないその選手の口元に、Serraはまず掌をかざし、呼吸のぬくみがないことを確かめた。
「Fuck!」
思わず、誰にとも知れない罵り言葉が口をついて出て、その場に、悪びれる様子もない突っ立ったままの、締め上げを楽しんでいたらしい選手を、そのしっかりとした筋肉の美しい足元から、上へ向かって見上げ、にらみつける。
何か言ってやりたかったけれど、今はそれどころではなかった。
Serraの慌てた様子に驚いたのか、ようやく練習場全体がざわめき、いつの間にかNogueiraがすぐ後ろに来ていて、MirとDanaは、リングに入るべきかどうか、外で迷いながら、野次馬根性で近づこうとする他の選手たちを、ありがたいことに抑えてくれていた。
Serraはためらうこともせずに、その場ですぐに、気絶している選手に人工呼吸を始めた。
回りに群がっていた足が、一斉に引き、幸いに数度呼吸を送ったところで選手はすぐに息を吹き返し、薄く開いた視界の中にいるSerraが誰かわからなかったらしく、
「大丈夫か? すぐには動くな。」
そう優しく声をかけると、力なくうなずき、その背後からNogueiraが顔を覗かせると、見慣れた顔にやっと安心したのか、また崩れるように肩をマットの上に落とした。
Danaが呼んだのか、意識が戻ったと見て取ると、Serraを押しのけるようにして専属の医者らしき男がやって来て、選手の上にかがみ込んで、あれこれ調べ始める。
Serraはいつの間にかびっしょりになっていた額の汗を拭って、大きく息を吐き出しながらリングを下りた。
その後ろを、Nogueiraが、締め上げた方の選手の襟首を引いて一緒に下りて来る。
今はリングの中をそっとしておこうと、みな揃ってリングを下りたところで、Nogueiraが、その選手の肩を軽く突いた。
それから、英語ではない言い合いが始まる。
Vinnyと、Nogueiraに躊躇もなく言い返すその選手に、チームメイトたちがたしなめるように声を掛けるけれど、言い合いはヒートアップするばかりだった。
Nogueiraはそれでも比較的冷静に、危険なことをするな、こういうことを甘く見るなと、ひたすらに言い聞かせているようだったけれど、Vinnyと言うらしいその選手は、何もかもを馬鹿にしたような表情で、言い訳ばかりを並べているように聞こえた。
背の高い、すらりときれいな筋肉の線を見せた、自分の優れた部分を正確に把握しているらしいそのVinnyに、Serraはまず不愉快な気分しか湧かず、Nogueiraに対する敬意もなさそうな態度に、同じブラジル人らしいのにと、顔をしかめて驚いていた。
Mirは腰に両手を当てて、まったく、という表情で首を振るばかりだ。
その間に、リングから、気絶させられた選手が、よろよろと医者の肩を借りて下りてきて、そこで彼よりも背の高いチームメートに手渡された。
さすがにMirは心配そうに彼の傍に寄り、Danaに許可を得るように目配せしてから、
「先に合宿所に帰れ。今日はゆっくり休んでろ。気分が悪くなったらすぐに電話しろ。いいな。」
彼に肩を貸すチームメートと一緒に、そのまま出口へ向かい始めた。
それを見送ったところで、またNogueiraとVinnyが言い争いを始めそうになったところに、Serraが割って入る。
「ここでやってるのは、殴り合いの殺し合いじゃない。人殺しがしたいなら、他の場所でやるんだな。」
自分よりも、優に20cmは背の高い、明らかにこちらを見下した表情のVinnyに向かって、Serraは遠慮なく指先を突きつけた。
「あいつが弱すぎるんだ。別にそんなに強く締めたわけでもない。」
謝罪も何もなく、ことさら胸を張るようにして、Vinnyが言う。
このクソガキ、とSerraは胸の中でだけつぶやいた。
「あれが試合だったら、おまえはとっくに反則負けだ。おまえみたいなのにはぴったりの負け方だな。」
言い過ぎかもと思ったけれど、外野の自分なら、この場の空気をさらに悪くしても許されると、そう計算して、わざと挑発するように言った。
Vinnyはやっとこめかみに血管を浮かせて、Serraの言葉を、その通り侮辱と受け取った。
「あの程度なら、反則負けする前にKOしてやるさ。」
顔色を変えたのは、Serraではなくて、他のチームメイトたちだった。そしてNogueiraも、さすがにまずいと思ったのか、声の響きを改めて、
「二度とやるな。今度同じようなことがあったら、おまえがおれのチームじゃなかろうと、すぐにここから追い出してやる。」
今にもVinnyに殴り掛かりたそうなSerraの肩はしっかりと押さえて、Nogueiraはその場にいる全員に聞こえるように、きちんと英語で言った。
「何でも好きなように。」
Vinnyは、最後まで態度を変えずに、ひとりでくるりとNogueiraとSerraに背を向けた。
チームメイトたちは慌ててそれを追いかけ、取り残されたふたりに、ほっとしたような表情を見せたDanaは、一応はたしなめておくつもりか、歩き去ろうとするVinnyたちを追いかけてゆく。
「態度だけはすでにチャンピオンか。」
呆れた声で、Serraは首を振った。
「悪かった。」
まるで、自分のチームの選手のことのように、Nogueiraが素直に言う。
「おまえさんのせいじゃないさ。あれじゃMirも手を焼くな。」
「Frankは元々、選手の素行には興味がない。リングで強ければそれでいいと思ってる。」
Serraの耳元で、Nogueiraが珍しく批判めいたことを口にした。
「まあ、確かにそれも正しいんだが。」
間違いではない。どんなに人の良い人間だろうと、強くなければ意味がない。ここは、そういう世界だ。
「ま、合宿が無事に終わることを祈ってるよ。オレはもう、前ので懲りた。」
半分以上本音を込めて、けれど少し茶化して言うと、やっとNogueiraが笑う。
「・・・まだ先は長いんだ。」
「お気の毒さま。」
もうDanaには聞こえないから、遠慮もなく肩をすくめ、Serraは悪くなった空気を変えるために、今はこの場を去った方が良さそうだと思う。
いろんな連中がいる。真っ当に戦いたいと思っている連中が大半だけれど、精神的に健康とは言いがたい連中が多いことも確かだ。自分も含めて、とSerraは思いながら、あのVinnyも、口先だけでは生き残れないこの世界の厳しさを、いずれ知ることになるだろうと思う。
強いだけでも足りない。ひとりだけで、強くなれるわけではないのだ。だから、外の世界よりもいっそう強く、周囲に対する敬意と言うものが、暗黙に求められる世界だった。
「あいつ、今度Andersonとでもやらせてやれよ。きっとすぐ黙るぜ。」
ははは、とNogueiraが大きく声を立てて笑った。Serraの小さな肩を叩き、けれど決して乱暴ではないその仕草に、きちんと込められた敬意を読み取って、Serraはたった今までとがり切っていた気持ちが、円く和んでゆくのを感じた。
強さだけでも、運だけでも、人の良さだけでも、凶暴さだけでも生き残れはしないこの世界で、チャンピオンへ上りつめたふたりは、互いにだけわかる気持ちを込めて、ふっと見つめ合う。
あのVinnyとやらも、こんな気持ちを理解できる時が来るだろうかと、思ったそのことをほとんど信じはせずに、Serraは願った。
ふたりは、笑い合って、しばらく肩を叩き合っていた。