Sugarly Sweet
大きな試合がひとつ終わる。もちろんそれはただの区切りに過ぎず、半年、早ければ数ヶ月後にはまた同じような試合が組まれ、大きな勝利の後にも気を抜くような時間もろくにないまま、次の練習期間が始まる。
1日の半分はジムにいて、空いた時間は食事と睡眠だ。異常なほど抑制された規則正しい生活、昨日よりも増した食欲、おとといよりも冴えた神経のせいの睡眠不足、急に襲われるジャンクフードへの欲求、まるで神への懺悔のように、何もかも罪悪感とともにトレーナーに報告して、また完璧に型にはまった生活の中へ自分を押し込んでゆく。
1年の大半がそんな生活だ。忍耐ばかりの日々に、時折訪れる──そのための必死のトレーニングだ──快感の一瞬は、八角形のリングの中央で高々と差し上げる腕、その掌の中に勝利を握り込んだ時だけだ。リングを下りた瞬間に、また忍耐ばかりの日々へ戻る。
その忍耐の日々のほんの隙間に、滅多とないその時間をかき集めて、自分だけの時間を作る。我慢を自分に強いなくてもいい──強いていた方がいいに決まっている──、トレーナーもスパークリング相手も必要のない、ほんのわずかな時間だ。
その時間を合わせて、何とか拾い集めたようなほんの数日を、ふたりは一緒に過ごしていた。
互いに、その間は必要のないトレーニングを口実にして、邪魔をするなと暗に自分たちの周囲に伝えて、小さな部屋に閉じこもる。ふたりきりだ。好きな時に寝て、好きな時に起きて、好きなものを食べる。それでも抑制の取り払えない、こんな時にも自身への厳しさを忘れることのできないふたりだった。
GSPが国境を越え、試合前よりは少し多い体重を気にしながら、Rashadの元へやって来る。こんな時には20kg近くなる体重差を、むしろ気にしなければならないのはRashadの方だったけれど、会って最初にするのは、テイクアウトのカプチーノに、好きなだけ砂糖を入れることだ。
「あーあー、ランニングマシーンに30分追加だ。」
スプーンが砂糖を運ぶたびに、コーヒーの類いは一切甘くしない──体重のためではなく、そういう好みなのだ──GSPが、Rashadをからかいながら諌める。Rashadはいいっと歯を剥き出した表情で、構わずに巨大な紙コップに入ったカプチーノのミルクの泡の上に砂糖を積んで、やっとスプーンと一緒に熱い液体の底に沈めて、ぐるぐるとかき回す。GSPは上唇をミルクの泡で白くして、そのままRashadに向かってにっこりと笑う。
3人掛けのソファに並んで座って、まだふたりの間には、触れ合わない程度の隙間が空いていた。
「カプチーノは絶対にモントリオールの方が美味い。」
「あーわかったわかった。」
やっと好みの甘さになったカプチーノを、Rashadは舌の上に転がしている。口の中全部に広がる砂糖の甘さを久しぶりに存分に味わいながら、唇についたミルクの泡を舌先で舐め取っているGSPの口元の動きを、横目にそっと盗み見ている。
「また来ればいいじゃないか。ジムの連中は喜ぶし、美味いカプチーノも飲めるし、一石二鳥だ。」
正しい表現を思い出しながら、GSPの英語が少し早口になる。フランス語にも同じようなことわざがあるのだろうかと思って、Rashadは甘いカプチーノをまたひと口飲んだ。
「砂糖の入らないカプチーノだな。」
そう言った途端に、GSPが子どもっぽく唇をとがらせた。
RasahdがGSPのいるモントリオールで出掛けてゆくとなれば、試合前のトレーニングがいちばん厳しい頃だ。そんな時に、カプチーノ片手に──砂糖入りだろうとそうでなかろうと──優雅に街を散策している暇などあるわけがない。
それでも、トレーニング自体苦痛ではないふたりだから、それはそれで楽しい──と言うと少々御幣がある──とわかっていて、肩を軽くぶつけ合いながら一緒に笑い声を立てた。
そうする間に、少し体が近づき、固い膝と膝が触れ合った後で、Rashadはあまりためらわずに、GSPの唇の端に自分の頬を滑らせる。わずかに体を引き掛けたGSPにいっそう近く肩を寄せて、ミルクとコーヒーの匂いのする唇を押し当てる。
唇を開けば、砂糖の甘い匂いもする。カプチーノのカップを、腕を伸ばして目の前のコーヒーテーブルに置いて、そうしたのはふたりほとんど同時だった。Rashadはソファに背中から倒れながら、まるでマットの中でそうする時のように、GSPを自分の上に引き寄せてゆく。
練習の時とは違って、体重の掛け方が遠慮がちだ。今の方がむしろ、裸ではない胸や腹をぴったりと重ねるのに躊躇しながら、GSPが長いドライブの後で少しひげの伸びかけたあごを線を、Rashadの首筋にこすりつけて来る。
骨と筋肉ばかりの背中に、Rashadは太い両腕を回した。
Tシャツと生地の厚いパーカーと、普通に会う時よりも体温が遠い。練習の時には汗まみれのシャツ1枚きりだし、試合の時には裸を見慣れているから、ごく普通の私服の互いに触れ合うことは、案外と機会がない。珍しさを楽しみながら、けれど結局は普段の忍耐強さなどすっかり忘れ果てて、Rashadはパーカーの裾から手を差し入れて、ベルトのないジーンズの腰の辺りを探ろうとした。
GSPが、途端に体を跳ね上げる。Rashadの手を止めて、上体を起こし、明らかに先に進むことには同意した熱っぽい目で、けれど別のことに心を乱されている落ち着きのなさをあらわに、視線をきょろきょろさせた。
まるで、Octagonの中で引き倒されて、これから失神するまで殴られる、その一瞬前のようにも見えるふたりの姿勢だった。
「・・・電話、しないと。」
肩越しに後ろを見るGSPの腰に、防御の姿勢でRashadは両足をがっちりと絡めた。
「無事に着いたって、家に電話しないと。」
両足首を重ねたその足を、ほどこうとGSPの手が動く。その手を、練習中と同じやり方で、Rashadが取って押さえようとする。
ここはジムではないし、練習中でもない。それでも、こんな姿勢になれば自然に体がそう動く。引き倒して殴り合うためではないのに、抱き合う姿勢はそれと酷似している。Rashadは、両脚の輪をいっそう強く締めた。
「・・・シャワーも浴びたい。」
「カプチーノが冷める。」
「それもあるな。とにかく先に電話させてくれよ。忘れたら警察に捜索願いを出されるんだ。」
後半は冗談のはずだと思いながら、けれどアメリカ人とはどこか気質の違う、ことにケベック州人であるカナダ人のGSPの家族ならそういうこともほんとうに有り得るのかもしれないと思って、Rashadはちょっと両眉を吊り上げて見せた。
両脚をやっとほどくと、GSPがその中から抜け出てゆく。いつもの力強さはない姿でふらりと立ち上がって、きょろきょろと部屋の中を見回す。
「携帯は・・・カバンの中だ。」
ひとり言のように言って、さてそのカバンはどこに置いたかと、また部屋の中を見渡す。GSPが抱えて来たジムバッグは、来てすぐにRashadがベッドルームへ放り込んだ。
「キッチンのカウンターにオレの携帯がある。」
どうせ充電器も持って来てはいないだろうし、そもそもここへ来る間に電源はずっと切ったままだったろう──そもそも、最初から使う気などさらさらない──GSPの携帯電話などあてにはせずに、Rashadはソファに横たわったまま、腕だけ上げてキッチンの方を指差した。
「・・・でも、長距離だし。」
「いい。」
遠慮するのを短く切り捨てて、早く行けと手の先を振りながらRashadは鼻の頭にしわを寄せた。
GSPは肩をすくめ、その仕草で感謝を示して、くるりと背を向けてキッチンへ向かってゆく。Rashadはソファから動かないまま、GSPの後ろ姿を眺めていた。
Rashadももう空で覚えている11桁の番号を、GSPがゆっくりと押している音が聞こえる。伸びた背中と、わずかに前に向かって折れた首と、肩幅の広さの目立つ上半身だけが、Rashadのいるリビングからは見えた。
淀みのない声が聞こえる。考えている不自然な間がない、やや跳ねるような発音の、GSPのフランス語だ。英語を使う時とそれほど違いがあるわけではなく、けれど明らかに言葉の間が滑らかな、不思議と普段の堅苦しい礼儀正しさがやや薄れる、GSPの話す声だった。
Rashadはおかしそうに口元をゆるめたまま、静かにソファから立ち上がった。
言葉の数は少ない。向こうが訊くことに短く答え、明らかに早く会話を切り上げようとしているのがわかる。足音と気配を消しても、Rashadが後ろに近づいたことに気づかないはずはなく、カウンターの縁に軽く寄りかかったまま、声を途切らせずに振り返ったGSPの腰に、Rashadは構わず両腕を巻いた。
何を言っているのか、フランス語は高校以来縁のないRashadにはさっぱりわからない。うなじに唇を押し当てると、さすがに慌てたように、送話口に向かって二言三言早口に何か言った。多分、もう行かないととか、もう切るからとか、そんなことを伝えたのだろう。
かすかに聞こえるのは女の声だった。通りの良さから、多分姉だろう──Rashadはまだ会ったことがない──と思った。腰に巻いていた腕を、片方は胸の方へ上げ、もう片方はもう少し下へ滑らせた。今度こそ、GSPは少し強い声で何か言って、Rashadの二つ折りの携帯を右手の中でぱたんと閉じた。
「先にシャワーを浴びるって──」
言葉が、素早く英語に切り替わる。その当たり前のことを、Rashadは少し残念だと感じた。
もう少し、GSPのフランス語を聞いていたかった。モントリオールに行った時さえ、練習中はRashadに気を使ってジムでの会話はほとんど英語だけだから、家族と接する生が剥き出しの、UFCの選手ではなく、ただの息子であり弟でありフランス語を話すカナダ人の男だというGSPを眺められる数少ない機会を自分で台無しにしたことを、Rashadは自覚していて自分を笑う。笑いながら、こちらに振り向かせたGSPの唇を奪う。
誰でもない、今はGSPですらない、ただのGeorges St-Pierreを、Rashadは腕の中に抱いていた。
我を忘れたら、うっかりフランス語で何か言うだろうかと、その場でシャツを腰からまくり上げながら考えている。腹筋の形がはっきりと掌に伝わる。Rashadと、ひどくせつなそうに名を呼ばれて、筋肉の動きが、Rashadの腹に伝わって来た。
カウンターに腕を伸ばし、GSPを片腕で抱いたまま、たった今GSPが使ったばかりの携帯の電源を、Rashadは忘れる前にきちんと切った。
カプチーノの甘さを思い出しながら、普段体の中に取り込むことを控えている砂糖のせいで、体全部に余分な糖分が回り始めているのを感じる。やけに頭の中が熱いのをそのせいにして、RashadはGSPの声をそそのかすために、そっとジーンズの中へ手を差し入れた。
ドアをきっちり閉めたベッドルームの中で、しわだらけのシーツに閉じ込められた小さな空間の中で、GSPのフランス語が聞けるかどうか、Rashadは自分の中でひとりこっそり賭けをする。
どちらに転んでも、勝つのはどうせGSPだ。自分は最初からずっと負け続けだと思いながら、もうひとつ負けを重ねるためにキッチンから出ようと、Rashadはタイル張りの床にきゅっとかかとを滑らせた。