娼館の客
その客は、常連ではなかったが金払いの良い、女も丁寧に扱う、評判のいい男だった。
軍帽も含めて、隙なく軍服を着、足を踏み入れてすぐ、迎えに出た女主人へ礼を尽くすようにその帽子を脱ぐ。やや丸みの強い頬の線に薄い唇、軍人特有の傲慢さがそこに見え隠れして、優しげに微笑みながらそれがなぜか蛇の類いの生き物を思わせるので、私はこの客があまり好きではない。
客の方も、顔も体もせいぜい人並み程度の私になど、単なる礼儀で視線をくれるだけで、特に声など掛けられたこともなかった。
私は、自分が場違いな女であることを自覚していた。相場よりもずっと高い金を払って女たちと寝るこの家で、私の顔も体もその金額に見合っているとはとても言えず、それでも女主人は、きれいな女に気後れする男たちもいるからと、私のような女もここへ置き、確かに女主人の言う通り、10人にひとりくらい、誰かに連れられて来てはおどおどと顔も上げられず、その誰かが選んでくれたとびきりの売れっ妓には恐ろしくて触れられないと言った風に、壁際で花ですらなく、空気のようにただ顔を並べている私を選ぶ男もいるにはいた。
毎日ではなく、数人でもなく、女主人が慎重に選んでくれた男と寝ていれば金がきちんと貯まる、あるいは借金を返せる、ここはそんな家だった。
客は今日、後ろにひとり、兵隊を従えていた。ふたり一緒か、あるいはこの兵隊に対する特別な褒賞か何かと思っていたら、客に言われて一歩前へ出たその兵隊は、まだ年若い娘だった。
道理で背も高くないし、ずいぶん華奢だと思っていたが、まさか女とは思わず、それでも嵩張る迷彩服の埃くささを吹き飛ばすように、よく見ればとてもきれいな娘だった。
ここで働く女たちと同じくらい華やかに着飾った女主人は、コケティッシュな仕草で娘に向かって目を細めて小首を傾げ、その視線は、明らかに売り物の女を品定めする時と同じ目だったが、客は女主人のそんな目の色をむしろ気に入ったように、これも唇の端を上げて満足そうに微笑む。
娼館に若い女など連れて来て、まさかこの娘はここに売られるわけではあるまいにと、私は他人事(ひとごと)ながら、娘の先行きをひとり勝手に心配する。もっとも、売られるならここは確かに悪い場所ではない。売られる先によっては、地獄のような思いをする羽目になる。
兵隊のこの娘は、文字通りの地獄を何度も見ているのだろうが、日に何十人もの男と寝なければならない売春婦の地獄と、この子ならどちらを選ぶだろうかと、私は考えていた。
この客には馴染みの妓と言うのは特にいなかったし、やっと夕方になったばかりのこの時間、客たちが顔を見せるにはまだ早い時間だったから、家の妓たちのほとんどがここに集まって、退屈そうに娘を眺めている。
「それでは後を頼む。終わる頃に迎えを寄越そう。」
客はそれだけ言って、女主人とそこへ並んでいた私たちへ軽く会釈をし──何とお優しく礼儀正しいこと──、軍帽をかぶり直してひとり家を出て行った。
残された娘は、居心地悪そうに表情をいっそう固くし、私たちをじろじろ見るのが失礼と思うのか、あるいは私たちを汚らわしいと思うのか、床のどこかへ視線をさまよわせてまだひと言も発しない。
女主人は、その娘の頬へ向かって、優雅に、赤く塗った指先を伸ばした。
「おきれいなこと。兵隊なんてもったいない。ここに来れば、美味しいものを食べて、好きな音楽でも聞いて1日中過ごせるのに。沼の中を這い回って蛭に血を吸われる心配なんて、二度とせずにすむの。」
どこもかしこも線の円い女主人の声は、見掛け通りに円くて甘い。この声で、何人の女を口説いてここへ連れて来たのだろう。私もそのひとりだ。後悔はあまりしていないが、騙されたと、思っているのも事実だった。
娘は、女主人の指先を避(よ)けたりはせずに、
「私は戦車乗りだ。沼の中に入ったりはしない。」
と、頓珍漢に答えた。その言い方に、女主人は思わずと言う風に軽く吹き出して、この見た目通りに生真面目そうな兵隊の娘の、男のような物の言い方を、奇妙よりは新鮮と取ったらしい女主人の頭の中の動きが、私には手に取るように分かる。
娘は確かにお世辞抜きに美しい顔立ちをしていたし、その声は思ったよりも低かったが、黙っていてもこの仕事はできる。私は、客と寝るよりは余興で歌を歌うことの方が多く(目当ての妓を待つ間に、私に歌わせるのだ)、声だけは褒められることがよくあるが、この娘くらいきれいなら、少々無愛想だろうが言葉遣いで興醒めしようが、金を積んで寝たがる客はいくらでもいるだろう。
さて、この子はいつから私たちの朋友になるのか。後で迎えに来るとあの客が言ったのだから、今夜今すぐと言うわけではあるまい。
「とにかく、まずはお風呂に入りましょう。どうせお湯をためられる浴槽なんてものはないんでしょう?」
からかうように決めつけるように女主人が言うと、娘はちょっとだけ鼻白んだような表情を浮かべたが、どうやらそれは図星だったのか、言い返すことはせずに、そのままおとなしく女主人に手を取られた。
女主人は、私たちの間をすり抜け、ぎくしゃくと歩く娘を、この家のいちばん奥へある自分の私室へ誘(いざな)ってゆく。すれ違いざま、女主人に目配せされた私は、戸惑いながらふたりの後をすぐに追った。絹のスリッパや皮のサンダルを履いている私たちと違って、娘の足はいかにも重くて固そうな軍靴に包まれ、この家にやって来る客で、こんな風体の者など見たことはないと、私は半ば呆れてもいた。
他の妓たちは、私たちが去ってゆくと同時に、自分の部屋に戻ったり居間へ行ったり、好き勝手に家の中へ散らばってゆく。女たちの足音も消え、気配だけが長い廊下を伝わって来るその最後の部屋へ、招き入れられた娘の後から私も入り、ドアをそっと閉める。
女主人は、部屋の続きにある浴室のドアを、娘のために指し示しながら、同時に私に視線を投げ、
「そこの箱を全部開けて、中身をきれいに並べておいて頂戴。」
女主人の、大き過ぎる天蓋つきベッドの傍の床に、大小様々な箱が山ほど並んでいる。明らかに服や下着や靴の類いだ。私など、とても手の出せないような高級品ばかり扱う店の名前が、箱の上にちらりと見えた。
「じゃあ、お風呂へ。」
女主人はまるで娘を逃がすまいとするかのように、その手を取ったまま、浴室のドアを開けてふたり揃って姿を消した。すぐに水音が始まり、その間に、女主人が優しく娘に話し掛ける声が聞こえる。
あら、髪は長いのね。よかったこと。いいからお湯の中によく浸かって頂戴。爪を柔らかくしないと。いいの、髪もちゃんと洗わないと。石鹸で洗ってその後は? 何もしないの? お化粧したことは? ああだめだめ、そっと撫でるの、こすっちゃ駄目。
私はいつ女主人が、娘に男と寝た経験はあるかと訊くかと、耳をそばだてていた。若くてきれいな女の処女は高く売れる。私の処女は2割増し程度だったが。でもおかげで借金が返せた。借金がきれいに片付いた後も、結局ゆくところもなく、私はこの家で娼婦を続けている。
私は、女主人に言われた通り、床に坐り込んで、そこにある箱をひとつびとつ開け始めた。箱から想像した通り、ドレスが何着かと、それに合わせたらしい新品の、幾種類もの揃いの下着、コルセット、サンダルやハイヒール、イヤリングがドレスの色に合わせて同じ数、どれもこれも、私には手の出ない、客から贈ってもらった憶えもないような品ばかりだった。
あの娘のためだろうと思って、これを用意したのは一体誰かと、ひとつびとつ、余計なしわがついたりよれたりしないように、丁寧にベッドの上に広げて並べながら、私の胸は小さな嫉妬に疼いている。
自分で買えないなら、客に甘えた声でねだればいい。精一杯の媚態を見せれば言うことを聞いてくれる客が、今までいないでもなかったろう。そうしないのは、私のひととしての矜持だとか、美しくもない自分の分をきちんと弁えているからだとか、きれいごとはいくらでも並べられるが、結局のところは私の不器用さ──そして不器量さも──が私を一人前の娼婦にすることを妨げ、娼婦になり切らない自分は、売れっ妓の誰それとは違う、まだ真っ当な人間なのだと必死で思い込んで、ここにいる他の妓たちを内心は見下していると言うわけだ。
私は確かに娼婦だが、路上に布でも敷いて、どこかの暗がりで袖を引いた客と寝るような売春婦ではないし、日に何人もの客と寝た挙句に病気になったり何度も孕んだりして死ぬ羽目になる売春婦でもない。女主人たちは、私たちを高級な娼婦だと言って、安く体を売る女たちとは違うのだと言う。その中で私はそんな"高級な"娼婦になり切れずに、様々な事情で娼婦になり切っている女たちを、内心で実は蔑んでいる。
外見も醜い私は、内面はもっと醜く、だから美しいものの前では圧倒されて、それを隠すために何も感じてなどいない振りをするのだ。客の男たちが、肌を合わせることで私の内面にちらりと触れ、私の醜悪さに当てられる。ここにいる妓たちは私のよそよそしさを、蔑みの別の形と気づいているのだろう。
あの兵隊の娘に嫉妬して、娘がこれから身に着けるのだろう装身具の美しさに気圧されて、今私はひどく惨めだった。
女主人は娘に話し掛け続けていて、体のどこのどの部分をどんな風に洗うのか、文字通り手を取り足を取り教えている風景が私の前の前に浮かぶ。私の時にはずいぶんぞんざいだったのだと、それを聞きながら、思い至っていた。
うなじや首筋は丁寧に、こすらないように、石鹸をたっぷりと使って撫でるように。耳の後ろは、ひりひり痛くなるほど磨き上げる。肘と膝と手足の爪先と足裏とかかともそうだ。手の甲は、そこから手首と指の間も、ほとんど石鹸の香りを塗り込めるようにそっと洗う。
ここへ来て以来、私たちは頻繁に手を洗うことさえ咎められ、水を使うなどもっての他だときつく言われている。交代で通って来る何人もの女たち──私たちの母親くらいの年齢──が家事の一切合財をし、客たちのために、私たちは生活の臭いなど一切させないように、女主人にそう厳しく躾けられていた。
あの娘の手はどんな風だろう。戦車乗りだと言ったが、たまには戦車の手入れも自分でするのだろう。機械油にまみれ、ねじや歯車に直に触れ、指先を切ったり掌をすり切らせたり、あるいは痕の残るほどの火傷もありそうだと、私はわざと意地悪く、あの娘の手足や体を、あちこち傷だらけで日焼けだらけに違いないと想像した。
私は、ふたりが浴室から出て来るのを待つ間、ひたすら大きくて柔らかいベッドの端へちょこんと腰を引っ掛け、そこに並べた装身具のひとつびとつに見入っていた。
あの娘に合うようにと選ばれたに違いないものたちは、どれも色鮮やかで艶やかだ。あの兵隊の娘に一体着こなせるのかと、私は自分のことを棚上げして考え続ける。帽子をかぶっていたから分からないが、あの娘の髪はどんなものだろう。日焼けして、手触りの悪いちりちりとした髪しか思い浮かばない。けれどそれは私がとても意地が悪いせいだ。
私の髪は、ぺたりと真っ直ぐで、そのくせあちこちにはねると一向に言うことを聞かない。後ろから、首の辺りへこの髪をまとめて握り、ほとんど手綱のように扱う客もいる。私はそうされるのが好きではなかったが、仕事の最中に客の興を殺ぎ、途中で他の妓のところへ行かれてはたまらないので、私はいつも黙ってそうされている。
うなじから手を差し入れ、髪の中に指を突っ込み、私は自分の髪をそっと梳いた。手入れだけはきちんとしてある髪は、きしきしと硬い手応えのくせに、するりと指はきれいに通る。この髪を撫でながら、好きだと言ってくれたのはどの客だったか。あの好きは、この髪に向けてのものだったのか、それとも私自身へだったのか、結局訊けないままだった。客の戯れ言を、いちいちそんな風に憶えているほど、私は自分を褒めてくれる言葉に飢えている。
特にこんなところにいて、四六時中他の妓たちと比べられれば、諦めはしても妬みは全部は消えはしない。分を弁えていると言うことが、すなわち私が自分の全てを受け入れて達観していると言うわけではないのだ。私を選んだ客が、次にも私を選ぶことが滅多とないのが、寒々しい現実を私に見せつける。心のどこかでこの仕事を憎み、私を買う客を憎み、一緒に働いている妓たちを憎んでいる私の、そんな憎悪が表情に出ないわけがなく、ただでさえ不器量の私をいっそう醜くしているのだ。私はそのことに、長い長い間知らん振りを決め込んでいる。何をどうしようと美しくはならない私が、今さら媚びた笑みを必死で浮かべても、それこそ醜いだけではないか。
私はこんなに卑屈で嫌な女だったろうかと、あの娘に嫉妬していると自覚してからうっかり覗き込んでしまった自分の胸の内に、慌てて蓋をしようと自分の腕を抱いた時、やっと浴室のドアが開いた。
私は慌ててベッドから立ち上がり、ふたりの方へ体をねじった。
入った時と同じに、女主人に手を取られ、真っ白いバスローブに身を包んだ娘が、湯に当たって赤く上気した頬で、体があたたまったせいかどうか、どこかなごんだような様子でそこに立っていた。大きなタオルで頭を包み、タオルの先に首が不安定に揺れるのを気にしながら、女主人に導かれるまま、大きな三面鏡の前へ坐らせられる。バスローブとゆるく曲線を描く椅子の脚の間から見える娘の足首は、驚くほどほっそりとしていた。
私はしばし椅子の背に隠れている娘の体の線に見惚れ、鏡の中に映る娘の剥き出しの素顔に見惚れ、女主人が私を手招いているのに、少しの間気づかなかった。
「何をしてるの。早くここに来て、準備を手伝って。」
円い声をやや高くして、女主人に呼ばれて私は我に帰り、慌てて娘の傍へ行った。
なるほど、私がここへ呼ばれたのは、この娘の髪を整え化粧をするためだ。
お茶を引くことの多い私は、暇つぶしによく他の妓たちの髪をいじり、爪をきれいにしてやる。利き手の爪をきれいに塗るのは難しいし、髪を後ろから見て映えるようにきちんと整えるのも、鏡があっても限界がある。他の忙しい妓に頼む気にはならず、同じくらいきれいな妓にはやっかみで何をされるかわからないとそんな風に思うのか、誰とも特に親しくはせず、ほんとうに空気のような私──大事な客を取られる心配もない──には、そんなことも気軽に頼めるらしい。ようするに格下と思われているのだと気づいても、私は単純に目の前の妓が、始める前よりも見映え良く立ち去ってゆくのが楽しく、化粧の手伝いをするのは決して嫌いではなかった。
この程度でも、役に立っているのだと思うことができたし、何より、もし娼婦として働けなくなっても、このまま髪を結ったり爪を塗ったり、そのためにここへ置いてもらえるのではないかと、そんな腹づもりもあった。そういう意味で、この娘を美しく飾ってあの客の前へ再び連れてゆくのは、私には素晴らしい機会だと思えた。
私は、鏡の前を塞ぐように娘の前へ立ち、娘の素顔を初めてまじまじと眺めた。
むきたて卵のように、つるりとした頬。少し横に広いが、ふっくらと形のきれいな唇。思ったよりずっと輪郭がはっきりとして、先端がややとがり気味なのが、顔立ちからすればただ生意気そうに見えるはずなのに、この娘の顔の中に収まると、むしろそれは凛々しく清潔に見えて、どれほど派手で下品な化粧をしたところで、この娘の清らかさは隠せないような気がした。
私は、娘の頭越しにベッドの上の装身具へ目をやり、どの色のドレスを着せるべきかと黙ったまま思案する。私の視線でそれに気づいたらしい女主人が、
「あの赤かしらね、やっぱり。」
と、まるで私におもねるように言う。
ドレスは3着、鮮やかだが派手過ぎはしない大輪の薔薇のような赤いドレスと、珊瑚色をふた色濃く深くしたような落ち着いたピンク色と、そして最後は、若葉の色を泥の中に沈めたような、美しいがこの娘には地味過ぎる緑色のドレスだ。そう言えば、この緑は迷彩服にも使われている色だと、眺めて私は気づいた。
この娘の、ほとんど真珠のような肌の色には、あの赤がいちばん映えるに違いない。どれほど派手にしたところで、下品にはなりようがない、この娘の奇妙な気品だった。
私は、そんな必要もないのに、指先で娘のあごを持ち上げた。品定めするように、娘の顔の向きを何度か変え、右と左と何かを見極めようとしているような振りで、私は娘の顔を自分の好きに動かし、好きなだけじっくりと眺めた。
娘はもう、ひるんだような様子もなく、私にされるまま、見つめる私の視線を真っ直ぐに受け止めて、そうして私の心の内をきちんと見透かしているように、結局先に戸惑って、視線を外したのは私の方だった。
「爪を見せて。」
私は娘に言った。娘は律儀に両手をきちんと揃え、手の甲を上に向けて、ぴんと伸ばした指先を私の方へ差し出して来る。女主人に言われて、恐らくしつこく湯の中であたため柔らかくし、爪の先はブラシで丹念にこすって来たに違いない。まだ赤みが差して、いかにも洗い立てに清潔に輝いている。けれど残念ながら──当然ながら──、爪は短く丸く刈り込まれ、色を乗せるには少々難がある。
私は娘の指先をつまみ、そうして何かを確かめている振りをして、さりげなく娘の手にも触れた。
「ふうん。」
見定めたが感想は口にしない、そんな風を見せつけて、私は娘の手を返し、体をねじって鏡台の上へ振り返る。そこへ乗った様々なマニキュアのビンを、選んでいる振りで何本か取り上げ、顔に近づけてはちらりと娘を見返す、と言うことを4、5回やってから、私はまた娘の方へ向き直った。
「任せて大丈夫よね?」
女主人が、娘の斜め後ろから、ほとんど揉み手をするように私に向かって話し掛ける。ここへ来てから、女主人にこんな風に話し掛けられたことがあったろうか。この娘は、あるいはあの客は、女主人にとってよほど重要らしい。
「きれいにするの、好きだもの。」
私は媚びたように首をすくめ、客にさえ滅多と聞かせることのない可愛らしい声で笑う。娘は、私たちのそんなやり取りを、ほとんど無表情で見ていた。
この表情が驚きに変わり、そして思いがけずきれいになった自分に、最初は照れ、慣れるうちに自信に満ち始めて、立ち振る舞いも変わってゆく、私はこの娘の、その様変わりを見たいと思った。化粧が終わり、髪が整い、あのドレスを身に着けて立ち上がり、鏡の中に自分の姿を確かめた後、固い殻で鎧ったような娘の、まるで私たちとは違う世界にいるような、自分はこちら側とは関わりがないのだと言わんばかりのこの無表情が、艶と媚びを含んで微笑むのを、ぜひ見たいと私は思った。
自分がどれほど美しいのかを目の当たりにして、これこそがほんとうの自分なのだと知って、これを利用せずにはいられない気分にしてやると、私は心の中で誓いながら、振り返って鏡の中の娘の瞳に、自分の視線をひたと当てた。
私はこれと心に決めて取り上げたマニキュアの小さなびんを鏡台の上に戻し、別の、体中に塗るローションのびんを取り上げて、すっと娘の足元へ膝を落とす。
私の仕草に驚いて、素早く椅子の下へ逃げ込んだ娘の足を、無遠慮にその足首をつかんで引き出し、私は床にすっかり坐り込んでしまうと、娘の爪先を自分の膝に乗せ、振り出したローションを掌の間に軽く広げて温め、それから、バスローブの裾を大きく割って、娘の足に塗り始めた。
そんな必要があるとも確かめはしなかったが、肌がいっそうなめらかになるならその方がいい。骨張った膝小僧が私の目の前で線の固さをを増し、娘が他人の手に触れられ慣れていないのを感じながら、この子は生娘だと私は心の中でひとり決めつけていた。
足の指の間にも自分の指先を差し入れ、娘の肌に好きに触る。膝裏の青白さを、見ずに指先にだけ感じさせて、私は今まで誰にもしたことのない──もちろん、どの客にも──丁寧さで、娘の肌をなめらかにすることに没頭する。
腿の、きわどい辺りまで裾をまくり上げた時には、さすがに娘ははっとそこに手を置いて、それ以上は脚とその奥が見えないようにして、それでも私の滑る手にはまったく逆らわず、もう片方の脚も同じように私が撫で上げるのを、相変わらず無表情に眺めていた。
両足ともが終わると、私はまた立ち上がり、今度は娘の胸元を開こうとした。さすがにそれには一応抗って、娘は胸を腕で抱え込むようにして、
「今度は何だ。」
と私に訊くので、
「ドレス、胸元も背中もむきだしだから。」
見えるはずの皮膚は、すべて手を入れるのだと、私は手短に伝えてやる。
「背中も?」
「そう。」
娘の、手入れをしていないのに形の良い眉が寄る。わずかに浮かんだのは、戸惑いではなく嫌悪のようだった。裸にされ、風呂に入れられ、あれこれいじくられるよりも、人前に裸の背中を晒す方が嫌なのか。不思議な考え方だと私は思った。あるいは兵隊と言うのは、ごく自然に無防備な姿を隠すように、訓練で叩き込まれているのかもしれない。
娘は瞳だけを上下に動かして、納得はしていないが諦めた様子で、私の目の前で椅子から立ち上がった。そして椅子の後ろへ立って鏡に背を向けると、背中がすべて出るようにバスローブをはだけ、前も、乳房だけは隠れるように両手で覆い、首筋と肩の力を抜いた。
私は、まるで生け贄のような娘の前へ回り、また掌にローションをたっぷりと出して、娘の首筋へ触れた。
ぴんと張った肌。どれだけ指を押しつけても、隙なく弾き返して来る、確かに若い肌だ。この肌を、むしろ下着やドレスで覆い隠すことが惜しくなって、私は娘に向き合って、つい無言になる。
骨の形の目立つ肩。鎖骨の窪み。二の腕には筋肉の形がはっきりと見え、そこには柔らかさは期待できそうになかったが、皮膚の自然の照りが、何もかもをどうでも良くしている。
胸のふくらみの始まる辺りへ掌を乗せ、私はまるでこの娘の客がそうするだろうように、娘の不意の柔らかさを愉しんでいる。下から、娘自身の掌で軽く持ち上げられ、そうしなくても意外な大きさの丸みが、娘の組んだ腕の奥からあふれそうになっていた。
しっかりと閉じられた脇へも指先を差し入れ、腕の内側にもローションを塗り込み、私は上目に、娘の引き結ばれた唇の線を見ている。辱められていると感じているに違いないその唇が、湯の熱が冷めたせいかあるいは私の、やや不埒に動く手のせいか、わずかばかり色が失せ、けれど震えてはいないのを、私は内心舌打ちしながら眺めていた。
私は意地悪く、鏡を避けた娘の肩を押して体を回すように促し、今度は背中に掛かる口実で、娘の姿を鏡の方へ向けた。
半裸に剥かれた自分の姿をそこに認めて、さぞかし恥じ入るだろう。美しくされると言う言い訳で、まるで人形のようにあっちを向けこっちを向けと動かされて、それとも命令に従うのは、もう習い性になっているだろうか。私はほとんど舌なめずりしながら、娘の薄くて細い肩越しに、娘の表情を盗み見た。
私の予想に反して、娘は真っ直ぐ顔を上げ、鏡の中の自分の姿から目をそらしてはいなかった。ほとんど挑むように、むしろ盗み見をする私の視線を素早く捕らえ、何の感想も浮かんでいないその瞳の色が、私を射抜いて来る。その真っ直ぐさを受け止め損ねて慌てて顔をうつむけたのは、私の方だった。
突然ドアがノックされた、今まで一切口出しせずに私たちを眺めていた女主人は、くるりと体の向きを変え、急ぎ足にそちらへ向かってゆく。ドアの外の誰かから私たちの姿を遮るように、わずかに開けたドアの隙間で短いやり取りが交わされた後、女主人は私たちを振り返り、
「なるべくすぐ戻って来るけど、後はお願いね。」
妓たちだけでは済まない客が誰か来たらしい。女主人はもう少しだけドアを開き、猫のようにするりと体をすり抜けさせて、そこから姿を消した。それさえ優雅な足音の気配が、よく磨かれた床の上を滑り去ってゆく。私はその小さな音に3秒耳をすませた後で、娘の背中の上で手を止めた。
「坐って。」
これでこの娘とふたりきりだ。私は一体何か自分でもわからない、ひりつくような期待に、喉の奥が急に乾いて、舌が上あごに張りついて動かなくなるような心持ちだった。
娘は私が言った通り、バスローブを羽織り直してまた椅子に腰を下ろし、そして私は、今度はマニキュアのびんを片手に、再び娘の足元へ坐り込む。
いっそうなめらかさを増した娘の足を自分の膝の上に改めて取り上げ、今度は爪先をつまみ上げた。
間近に眺めれば、まったく手入れの足りないその爪先に、それでも私は鮮やかに赤い色をそっと乗せる。小さなブラシにすくい取ったきらきらしい赤を、娘の爪先に丁寧に移してゆく。
色を加えた途端、娘の足はいっそう艶を増し、そこだけ見れば性別の定かでない子どものそれにようにも見える娘の足が、一瞬で確かに女の持ちものに変わる。私は掌の中に娘の足を包み込み、できるだけゆっくりブラシを動かしながら、体の末端だけが女になった娘の様を、視界の中にひとり愉しんだ。
靴のせいか歩き方のせいか、いびつにいじけた小指の爪さえ、塗れば宝石のかけらのようにも見え始める。
5枚の爪を塗り終えて、少し目先から遠ざけて、私は自分の仕事ぶりを確かめた。
「爪先は上げておいて。」
毛足の長い絨毯でせっかく塗った色をこすってしまったりしないように、かかとをしっかり床に着けておくように言って、私はもう片方の爪先に取り掛かった。
娘は、何をしても何を言っても、私がどう触っても、何の反応も感想も示さず、変わってゆく自分の姿を一体どう思っているのか、私には一向に伝わって来ず、こうして直に素肌に触れていれば、分かるはずの他人の心の揺れが、この娘に限っては私には感じられないままだった。
爪先だけでもこれだけ変わるのだと、それを見せつけるためだった私の目論見はそこであっさりと崩れ、私は落胆しながら立ち上がり、今度は娘の顔に乗せる色を選び始めた。
肌を全部覆うのは最低限でいい。この娘の顔立ちなら、ドレスの色に負ける心配もない。
私は娘の髪からタオルを取り除き、まだ乾いてはいないその髪を下ろして、意外な長さに驚きながら、娘の肌の色と髪の色の組み合わせを素早く見て取り、一瞬で、最後に整える髪の形と、そこから顔へ落ちる影を引き立てるための色を心の中で選び終わっていた。
その後の私は、まるで絵描きのように、ほとんど一心不乱に手を動かし続けた。目の前に、すでに出来上がった娘の顔があり、私の指先はただ、その娘の顔にこの娘の顔をできるだけ近づけるためにだけ動き、娘のまぶたに鮮やかな影をつけ、頬骨の線を際立たせ、すでに挑むように光の強い瞳を、ややぼかすように、それでもまつ毛はくっきりと立たせて、そうして眉の形を、すべてをまとめるために整えた後で、どこよりも意志の強さを示す唇に、私はようやく取り掛かる。
足の爪に乗せたそれよりも、ひと色鮮やかさを抑えた、けれど同じような赤で、まずは唇の輪郭をはっきりとなぞる。すでにふっくらと丸いその唇を、ことさら大きく見せる必要はなく、私は正確にその輪郭をとらえ、ただ赤く線を引いた。
娘の顔に自分の顔を近づけ、片方の手であごを軽く持ち上げて、娘の唇に見入る私は、まるでそこに接吻しようとしているようにも思え、色を塗る前ならそうできると、私の心の片端でそんな声も聞こえ、わざとらしいピンクにつやつやと塗られた自分の唇のことはすっかり忘れて、私は娘に口づけたい衝動を別のところへ追いやるために、ほとんど無我夢中で娘の唇を赤く塗った。
私は、自分がたった今生み出したばかりの娘の新しい貌(かお)に見惚れ、こんなに美しく誰かを飾り切ったことがないと、内心で得意にあふれていた。自分が生み出した美に私は浮かれ、少し前にはこの娘の前で惨めにぺしゃんと潰れていた自分の心のことなど、もう思い出しもしない。
娘の、肌と同じになめらかに触れて来る髪をきちんと乾かした後で、私は選んだ下着を娘に手渡し、身に着けるように言った。
娘は、私と鏡から体を隠しながら、私が手渡した下着をひとつずつ着け、私はその後でひとつびとつ娘が着けた線を整え直し、今ではもう私の手指がどんな風に触れても娘は眉筋ひとつ動かさない。
ドレスを着ける前に、下着姿のまま、私は娘の髪を、わざとくすませた金色の髪留めで持ち上げ、残りは軽く垂らした形に決めた。
無造作な髪の終わらせ方が、娘の若さを静かに際立たせて、その髪をそれ以上は崩さないように注意しながら、私が足元へそっと広げた赤いドレスに、娘が、赤く塗られた爪先を差し入れてゆく。
ゆるい線が脚を覆い腰を覆い胸元を覆い、腕の始まりにやっと引っ掛かる形に作られたわずかな袖──と呼べるなら──は見るからに繊細なレース状で、そこからは肩も首も背中もすべて剥き出しに、胸元は思ったよりも上品に覆われているが、娘の胸の意外なほどのふくらみが、猛々しさを隠し切れずにそこに現れていた。
後ろへ向かってさりげなく裾長になり、いかにも女らしい曲線を描く腰から下の線を裏切るように、ドレスの右脚の前面には鋭く切れ込みが入っている。娘が動けば、そこから脚が覗き、赤と白のコントラストに、私ですら目を奪われた。
私は3歩後ろに引いて、娘の全身を眺め、ほとんどため息のように呼吸を深く足元へこぼした。
そうして、娘の素足にやっと気づいてから、慌てて女主人のベッドへ戻り、髪飾りと同じように落ち着いた金色の、細い紐を組み合わせた華奢なデザインのサンダルを取り上げ、私はまた娘の足元へかがみ込んだ。
足を持ち上げられ、傾いた体を支えるために、娘の手が、手元に向かってうつむき込んだ私の肩に掛かる。娘の指先は軽く、羽のようにかすかな触れ方だったのを、私に触れたくはないのだろうと卑屈な気持ちは不思議と湧かず、私は初めて娘の方から私に触れて来たと言うただその一点にだけ、気持ちを集中させていた。娘に触れられて、心臓の音が、喉元までせり上がって来ていた。
かかとの高いそのサンダルを履いて、動けばよろけそうになる娘に手を貸し、私は再び娘を椅子に坐らせて、最後の仕上げに、娘の耳にこれは鮮やかに白みがかった金色のイヤリングをしゃらりとぶら下げ、そして、短く刈り込まれた手の爪に、ほとんど無色にしか見えない、淡い真珠色のマニキュアを乗せた。
娘の手を取り、娘の爪を染めながら、私はうつむいたまま娘に話し掛けた。
「今日は何があるの?」
「別の基地からも将校たちが集まって作戦会議だそうだ。」
「そこへゆくの? 作戦会議に、こんなに着飾って?」
「会議の後に酒宴があって、私はその時の警備だそうだ。銃も持たずに。」
美しく装った娘の唇からこぼれる固い響きの言葉たちは、娘の言葉遣いと相まって、私の耳にはまるで外国語のように聞こえる。娘は心底可笑しそうにも、ただの皮肉にも見える形に唇の端をわずかに上げ、
「ただの嫌がらせの見せ物だ。あの男は私を嫌っているから。」
声の調子を落としてそう付け加えたのは、真からの本音のように聞こえた。
「嫌がらせで、こんな格好をさせるの?」
「似合わないのを後で笑うつもりだろう。趣味の悪い冗談だ。」
娘は心底そう信じているようだったが、私の目には何もかも品良く趣味良く見え、あの蛇のように笑う軍人の客の予想もしなかった審美眼に、私はうっかり好感を抱きさえしていた。
冗談にしては金が掛かり過ぎていると思ったのは、私が身を売る仕事をしているせいかもしれない。
「こんなに似合ってるのに。」
「似合うようにしてくれたのには感謝する。見せる相手がまったく見当違いなのが残念だ。」
ふと私は、あの客が、今夜この娘を、集まる将校の誰かに差し出すつもりではないかと思って、突然不安になった。せっかく私が生み出した美が、どこかの腹黒い男に踏みにじられるのだと言う想像に耐えられず、私は爪を塗り終わった娘の手を離せず、両手の間に挟み込んだまま、下から娘をすくい上げるように見つめた。
「ずっとここにいればいいのに。」
私がそう言った途端、娘はまるでずっと年上の女のように、諭すような微笑みを浮かべた。
「あなたたちのような女性は、そうやって優しいことばかり言うのでしょう。」
遊び慣れた客のように、それでもあしらうようにではなく娘が言い、初めて聞く娘の女らしい口調に、私の胸は今まで以上にざわめく。
こんな美しい娘を、毎日のように着飾らせて目の前に置いておきたいと思った。娘を眺めて心を潤ませて、世界の醜いことからすべて目をそらして、娘の美しさだけを息をするように吸い込んで、そうすれば私は、自分の醜さを見ずにはすむ。自分の上にのしかかる男たちの重みに心が乾いてひび割れてゆくのを、止めることができる。
もちろん、それはただの妄想だ。自分の明日も知れないのに、自分以外の誰かを背負い込むなど、できるはずもない。それでも確かに、私はこの娘を欲しいと思って、これから先、この娘と寝たいと願うだろうどんな男よりも、私は自分の気持ちを純粋と信じた。
私がそうしてほとんどすがりつくように娘を見つめていた時、静かに部屋の扉が細く開いた。
「もう終わったかしら。お迎えが来ていらしてよ。」
女主人の、口の中で鈴を転がすような声が、今ほど不粋に聞こえたこともない。私は、自分勝手な物思いを断ち切られて、未練がましく娘を見つめたまま、立ち上がりながら娘にも立つように促した。
娘は、靴のせいで高くなった背筋をぴんと伸ばし、私に笑い掛け、それから、私の肩越しに、鏡の中の娘自身の姿をちらりと眺めたようだった。
美しくなった自分の姿にはまったく頓着しないまま、娘は来た時とまったく同じ表情を、今は化粧の下に浮かべて、ドアのところで待っている女主人へ向かって爪先をそっと滑らせ始める。よろけないように、私は娘の手を取ったまま、すぐ隣りに寄り添って歩き出した。
女主人は私たちを先に部屋から出し、明らかに弾んだ調子で後ろから私たちを追って来る。
「きれいにできたこと。あなた、ほんとうにここに来る気はない? 別に、ただいてくれるだけでいいのよ。」
すぐ後ろから投げられる女主人の声は本気のようだった。いるだけでいいと言うのが、どれだけ本気かは疑わしかったが。
娘は振り返らずに、
「お言葉はありがたく受け取っておきます。」
慇懃無礼な返答が、私には小気味良かった。
玄関へ着くと、私たちの気配に、こちらを向いて立ち上がった男が、その場を完全にふさいだのが見えた。迎えと言うから、あの客がまた現れたと想像していた私は、大男の立ち姿に期待を裏切られ、驚きに足を止めた私に合わせて、娘もその場で立ち止まる。
客が靴を履く時のために置いてある木のベンチが、よく壊れなかったと思うような大男で、雲つくようなと言うのはこういうのを言うのかと、私は呆然とその男を見上げ、娘も同じ角度に首を伸ばしたが、
「おまえか。」
声音ほどは驚いた様子もなく、大男へ向かって平たい声を放(ほう)った。
娘のぞんざいな口調が、この男が旧知の仲であることを知らせていて、こんな場所には不慣れらしい男の、ちょっと丸まった肩と背中が、恐ろしい見た目とは裏腹に、私のさっと緊張した心の端を少しだけなごめてくれる。所在なさげな軍人姿が、滑稽なほど場違いだったし、男自身もそれを自覚しているらしいのが、私には微笑ましくさえ思えた。
「大尉は?」
「あちらの将校どのたちの出迎えだそうだ。おれがおまえを連れて行く。」
「ありがたい。大尉どのと同乗ではないのは不幸中の幸いだな。」
娘の口調が崩れ、普段がそうらしいこの物言いは、この男に向かっては、やけに親しげに聞こえる。男の言葉には、どこのものかわからない、響きの固い訛りがあった。
私はまだ娘の手を離さず、ふたりのやり取りをじっと聞いていた。私たちの後ろにいる女主人は完全に無視され、娘と大男はふたりだけで話をし、後ろへは視線もやらない。
そうして私は、ふっと言葉を途切れらせたふたりが、上と下の遠い距離で見つめ合い、交わす言葉の親しさ以上の親(ちか)しさがそこに漂うのを、はっきりと見て取った。
ナイフで削り取ったような顔立ちの男は、背の高さのせいもあって、子どもが見れば泣き出すだろうほど恐ろしげで、今のこの娘と並べばまさしく文字通り美女と野獣だ。けれどその男を見上げる娘の目は、今まで見たどの時よりも優しくなごんで、そして初めて、私はそこに恥じらいの色を見つけていた。
それを受け止める男の方は、図々しく娘のドレスを頭の中で剥ぎ取るような不躾けな色はなく、ただひたすらに娘の美しさに心を射られたように、それでもそれだけに惑わされない何か強いものを瞳に浮かべて、包み込むように娘を見つめ返している。
このふたりは好き合っているのだと、私はようやく理解して、思わず取っている娘の手を少しばかり強く握った。
大男のためではないが、私が美しくしたこの娘を、この男は私の手から奪ってゆくのだ。今夜、この娘に一体何が起こるのか、私は知らない。娘の言う通り、ほんとうにただの花の役目なのかもしれないし、あるいはあの客の男は、この娘を誰かに手折らせようと企んでいるのかもしれない。娘が清らかなまま、今夜を過ごせるようにと、私は娘のために、この大男のために、そして私自身のために祈った。
私たちの前にそっと手を差し出して来る大男へ娘を手渡すのを、私は一瞬の間ためらった。連れて行かないでと、私は心の中でつぶやいていた。
「どうもありがとう。」
娘が、私に向かって穏やかに言う。その声に気を取られた間に、娘の手はするりと私の手を抜け、大男の大きな手を、代わりに取った。
「荷物は後ですべて取りに来るからと、大尉が。」
男が、ひと言ひと言を区切るように、私と女主人の、どちらともになく言う。
「ああそう、じゃあまとめておきましょう。」
女主人は愛想笑いを返し、娘はそれに一応会釈を残して、後はもう何も見えないように、手を取られた大男を見上げるばかりだった。
ふたりは合図も何もなく、同時に足を前に踏み出し、同じ歩調で歩き出した。男が娘を見れば娘が男を見上げ、男が娘を見下ろせば娘が男を見る。ちぐはぐと、何もかもが揃わないふたりだったが、自分の爪先さえ見えないような大男が、娘の少々危うい足元へ必死で気を使い、ドアを開けてそこを抜ける時に、後ろへ引きずるドレスの裾を気にして振り返った瞬間に、私はこの娘がこの男と恋に落ちた理由を悟った気がした。
女主人はいつの間にか私の傍をほとんど駆け抜けるようにしてふたりの後を追い、大男の手から素早くドアのノブを奪うと、最後まで見送るためか一緒に外へ出て行く。円い背中を隠すように、ドアが音を立てて閉まった。
娘の手と腕のぬくもりは私の掌の中から失せ、娘の化粧の匂いが私の肩の辺りにまとわりついて、娘が大男と去ったドアを、私は放心したように見つめる。
あの客はまたやって来るだろうか。あの娘を連れてここを訪れるだろうか。娘を伴わなくても、訊けば娘のことを教えてくれるだろうか。私は、空になった自分の手に、たった今気づいたと言うように自分の両手を見下ろして、次にあの客がやって来た時に選んでもらえるように、もう少し美しく着飾れるようにしておこうと思った。
あの娘のことを尋ねるために、私が美しくしたあの娘は元気かと訊くために。あの娘はもう私のものだ。私が美しくしたあの娘は、もう私のものだ。
名前も知らないあの娘のことを考えながら、私は跳ねるように歩き出し、2階へ向かう階段をのぼりながら、知らずに歌い出していた。家中に響くような音量で、喉を開いて声を張り上げて、突然恋の歌を歌い出した私を、辺りにいた数人の妓たちが眺める。その視線を弾き返すように、私はいっそう声をきらきらしく高く放つ。天井から跳ね返る声は、まるで私の声のようではなく、浮かれた足音が浮かれたリズムをそこに重ねてゆくのに、誰かの弾けるような笑い声がさらに重なった。
戻って来た女主人が、ぎょっとしたように階上の私を見たが、私は女主人を見返さずに歌い続けていた。
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