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36の表現する一文字の御題1@6倍数の御題

◆ 33. 傾

軽口など叩くような心境の旅ではなく、互いのことを細かに語れるような間柄でもない。
それでも、ふとした仕草や言葉遣いに、少しずつ知り合ってゆけるものがある。
1日1日、君に向かって傾いてゆく自分の心に、この旅が終わるまでは気づかない振りをしていよう。

◆ 3. 組

突然組み伏せても、余裕のある笑みが下から返って来るだけだ。むっとして、脱げ掛けた帽子を乱暴に取って、部屋の向こうへ放り投げてやった。
形の良い濃い眉が、ちょっとだけ上がる。目を閉じながら、そこへ顔を伏せてゆく。
今日はイニシアチブを取って、自分から仕掛ける、まだ幼くつたない遊び。

◆ 11. 絞

あんまり締めつけるなと、承太郎が文句を言う。そんなこと知るもんかと花京院が返す。
そんなこと、思い通りにできるくらい経験豊かだと思ってるのかと、花京院が続けると、そんなことおれが知るかと、承太郎が毒づいて来る。
"初めて"からひと月目の、何もかも経験の足りないふたりは、口悪く罵り合いながら、今夜も諦めずに試行錯誤している。

◆ 4. 痛

痛みしかないのに、それでも構わないと思う。痛みが君と繋がっていると言う証拠なら、いくらでも耐えられると思う。
痛みすらいとおしいのは君のせいだ。こんなにも君を好きでいて、その好きの自分に返って来るのが、いまだに信じられない。
だから抱きしめる腕に、ただ力を込める。

◆ 19. 聴

誰かの鼓動が聞こえるくらいに、近く躯を寄せ合うことが、自分の身に起こるとは思わなかった。
鼓動の音が、ひとりひとりわずかに違うものだと、その音へ耳を寄せて気づく。ずれるリズムは、重ねるうちに重なり合う。合唱のような合奏のような、一緒に演奏しているのだと思うと、なぜか心臓が跳ねた気がした。

◆ 13. 掻

「かゆい!」
「掻くな、もっとひどくなる。」
「蚊に刺されたのは君じゃない、僕だ! かゆい!」
「だから掻くな。ほら。」
「え、何だ紅茶のマグなんか・・・え、かゆくない。マグを当てただけなのにもうかゆくない。」
「買い物に行った時に蚊取り線香を買って来た方が良さそうだな。」
「あ、だったらあのブタの妙なヤツも一緒に買って来よう! あれに子猫が入ってて可愛い写真があったんだ! あ、カメラのフィルムもついでに買って来よう! あ、またかゆい!」
「・・・・・・」

* 蚊の毒は50度で消える、と言う話から。

◆ 21. 覗

見上げる瞳に、緑がひと色寄るのは、後ろに立つハイエロファント・グリーンのせいだった。良く似たそのふた色に目を細めて、間に映る小さな自分を姿を、初めて見たと思った。
そうだ、こんな風に誰かと見つめ合ったことはない。
深緑の瞳が、自分を見つめ返して来る。濡れたように輝く翠色は、初恋の色だと今初めて知った。

◆ 36. 嘆

嘆き悲しんでばかりいると、逝ったはずの魂が地上をさまよい続けると言うのはほんとうだろうか。
さまよううちに、まだ生きた身のままの、その嘆き悲しむ誰かと、再び会えることはあるのだろうか。
肉体を持たない、形も色も定かではない魂のままでもいい、もう一度会いたいと、そう思う気持ちは、いつかはどこかへ届くのだろうか。
夏の盛りを過ぎるたびに、何のない空間へ振り向いて目を凝らすことを、今もまだやめられない。

◆ 23. 殴

人に触れるのは苦手だ。力加減を間違って壊しそうで、簡単に直したり買い替えたりできる"物"と違って、人の体は存外脆くて壊れやすい。
拳が、皮膚と筋肉と骨をたやすく歪める、あの感触。あれは殴る方も殴られる方も嫌いだ。
でも君は随分と頑丈で、僕がうっかり振り上げた手が当たってもびくともしない。握ればそれだけで折れそうな手首なんて、君の体のどこにも存在しない。
触れるのに気を使う必要がない。壊す心配をしなくていい。君を抱きしめるのに、不安がない。
だから君が好きだと言ったら、君は僕を殴るだろうか。

◆ 29. 跨

わざとのように、部屋を斜めに横切る形に背高い体を投げ出して読書中の君の、怖いくらいに広い背中を、大きな歩幅で跨いだ。
畳の縁(へり)を踏んで歩くのさえ品がないと躾けられた僕の、ささやかな反抗の形。
もう半分通り過ぎ掛けている僕の、膝の裏辺りへ、君が肩越しに視線を投げて来る。
にやりと上がる口元には、不良の先輩の、すべて見透かされている微笑。
微笑み返す余裕のない僕は、なり損ないの不良初心者。

◆ 30. 挑

精一杯真似をして、受け取った煙草を、きちんと確かめて唇へ挟む。薄茶のフィルターは案外硬い。
差し出されるライターの火へ煙草の先を向けても、焦げるばかりで肝心の火が点かない。
「吸うんだ。」
そう言われて、言われた通りにしたつもりでも、結局火は点かなかった。
「やめとけ。おれもそろそろ禁煙だ。」
喫煙の試みは失敗に終わり、すでに唇の触れた、先だけ焦げた煙草の先へ、慣れた手つきで新たに火が点く。
禁煙の誓いが守られたら、煙草の匂いのするキスは最後だと思いながら、煙のこぼれる唇へ顔を近づけて行った。

◆ 17. 説

トイレットペーパーの取り替えに、どっちを手前にするかでケンカをした。
下らないと思いながら後に引けずに、押し込むように言葉を投げ掛けて、後悔したくせに謝れなかった。
2日後に新しく取り替えられたトイレットペーパーは、僕が買って来るのよりも少し厚くて柔らかくて、そして僕が好むように、ひらひらが向こう側にしてあった。
次に僕が取り替える時は、ひらひらを手前にしてみよう。

◆ 32. 立

向き合った時に、見下ろす角度に覚えがあった。誰だったかと、きっちりと閉じられた襟元辺りを眺めながら考えて、けれどどうしても思い出せない。
肩を並べて歩き出して、
「じゃあ僕はこっちだから。」
角を曲がった背中を見送る最中も、ずっと思い出そうとしていた。
珍しく出迎えのない無人の家の中にひとり帰って、育ち盛りの少年なら間違いなくそうするように、まずは台所へ行く。
冷蔵庫を開けて、行儀悪くカートンへ直接口をつけて、冷たい牛乳をごくごくと飲んだ。
ああ、これだ。牛乳を戻し、ドアを閉めてから気づく。記憶の中の最初からここにある、この白い冷蔵庫と、彼は同じ高さだ。
ちょっとあごを引いたその角度で、冷蔵庫のいちばん上の辺りをそっと撫でた。

◆ 14. 打

見学の体育は、まだきつい午後の陽射しさえ退屈な木陰で、砂埃を巻き上げて走り回る、自由な体の同級生たちを眺めている。
向こう側には、見慣れた背高い体。誰よりもなめらかに素早く動くその手足の先で、オレンジ色のボールが弾けて飛んで、軽々と天高くゴールを決めた。
見つめている視線に気づいたのか、汚れた体操服の合間からこちらへ投げて来る、濃い深緑の光。
見惚れた時にはもう目の前にいて、時を止めたのだと気づいた時には、差し出された掌へ向かって、自分の掌を軽く叩き合せていた。
小さな拍手のような、親愛の動作のような、滑る指先の外れてゆくのを、心のどこかで惜しんでいた。

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